電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

老母の思い出話から教育資料館を訪ねる

2017年10月04日 06時03分13秒 | Weblog
ある日の食卓での話題に、小学校の理科室のことが出ました。私が学んだ昭和30年代の小学校の校舎には理科室はなく、子どもたちが在学した平成の時代には、専用の理科実験室がありました。そうしたら、老母が「自分が卒業した小学校には理科室があった」と言うのです。なんでも、小学校の二年生くらいの時に小学校が移転改築されたらしく、新しい校舎に引っ越した記憶があるとのことです。

古い校舎は今の動物園のところにあり、新しい校舎はなんとか言う酒蔵が米沢だかどこかに移った跡地に建てられたのだそうな。そこまで詳しく覚えているのであれば、年寄りの錯覚や記憶違いとは言えないだろうと思い、河北町立谷地中部小学校の沿革を調べて確かめてみようと思い立ちました。

残念ながら、WEB には同校の詳しい沿革などは掲載されていないようです。これは、百年史などがあればわかるかもしれないということで、過日、山形県立博物館分館・教育資料館を訪ねました。ここは、旧山形師範学校本館として使われた明治の洋風建築で、国指定の重要文化財で近代化産業遺産でもあり、たいへん静かで雰囲気の良いところです。





学芸員氏に資料の閲覧を願い出ると、ありました! 立派な同校百年史が。



これによれば、明治維新前には色々な藩の領地に分かれていた各村が合併する以前に、まず谷地学校として設立され、河北町への統合合併を先導する形になっていたことが注目されます。そのために生徒数の増加が著しく、明治後期には26学級1,100人を超える大規模学校となっていました。後に南部小学校や西部小学校が分離独立したけれど、児童数はなおも増え続け、昭和7〜8年頃には1,400名を超える状況に至っていたそうです。昭和9年の学校創立50周年を契機として、その前年の夏に校舎の移転改築協議会が発足し、昭和11年10月10日、新校舎の落成式が行われます。

昭和2年生まれの老母はこの年には満8歳。ちょうど小学校二年生にあたり、記憶と一致します。残念ながら、この百年史には昭和の校舎の平面図は掲載されていませんでしたが、昭和41年の理科教育センターの設置に伴い、根太が腐っていた理科実験室と準備室の修繕を行うとともに、継続観察を可能とする教材園を中庭に整備した、などの記載があること、またこの間に校舎の増改築の記録はないことなどから、昭和11年に理科実験室と準備室が存在したことが確認できました。

老母の記憶によれば、近所の子供で利発な子が、今で言う理化学器械店に丁稚奉公をしており、休みになるとガラス製品をお土産に学校を訪れるのを先生がたいそう喜んでいたとのことです。太平洋戦争を前にした昭和10年代中頃の話で、消耗品の補充に苦労している担当の先生の様子がうかがえます。

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