先日、孤独死した高齢老人(*1)の葬儀に参列してきました。型通りの弔詞は奉呈のみと簡略化していましたが、都会に住む孫代表の、大好きなおばあちゃんへの別れの言葉が心を打ちました。おばあちゃんが、会った時や手紙の中で、心に残る言葉をたくさん伝えてくれたことに感謝し、勇気づけられたと話します。例えば、
というものです。
うーむ、老人が折々に孫たちに伝えようとしたことが、なんとなくわかるような気がします。おそらく、バーナード・マラマッドの言葉
であれば、私などは思わずそうだなあと頷いてしまう面がありますが、おそらく孫たちにまで伝わることは難しいでしょう。
前者は、子どもの真っ直ぐな心を励まし勇気づけ、前向きに進もうとすることを助けますが、後者は必ずしもそうではない。孫たちに前者のような言葉を贈った老人が、まるで若木が育つ傍らで朽ちていく老木のように、周囲に栄養分を供給する役割を果たしていたのだとしたら、実際は「喜びに満ちた悲劇」の面があったとしても、それはそれで良かったのではなかろうか。
(*1):高齢老人の孤独死に対する受け止め方は年代によっても違うようだ〜「電網郊外散歩道」2021年2月
人生は喜びに満ちている。見つけ出すのは、優しい心である。
というものです。
うーむ、老人が折々に孫たちに伝えようとしたことが、なんとなくわかるような気がします。おそらく、バーナード・マラマッドの言葉
人生は喜びに満ちた悲劇である。
Life is a tragedy full of joy.
であれば、私などは思わずそうだなあと頷いてしまう面がありますが、おそらく孫たちにまで伝わることは難しいでしょう。
前者は、子どもの真っ直ぐな心を励まし勇気づけ、前向きに進もうとすることを助けますが、後者は必ずしもそうではない。孫たちに前者のような言葉を贈った老人が、まるで若木が育つ傍らで朽ちていく老木のように、周囲に栄養分を供給する役割を果たしていたのだとしたら、実際は「喜びに満ちた悲劇」の面があったとしても、それはそれで良かったのではなかろうか。
(*1):高齢老人の孤独死に対する受け止め方は年代によっても違うようだ〜「電網郊外散歩道」2021年2月