電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

吉村昭『空白の戦記』を読む

2012年09月15日 06時02分23秒 | -吉村昭
新潮文庫で、吉村昭著『空白の戦記』を読みました。単行本の方は、昭和45年の9月に刊行されたとありますので、実に42年前になります。当時はまだ高校生でしたので、もちろん刊行のことは記憶にありません。ですが、文庫本となった本書を手にして、ドキュメンタリーのような描き方に、驚きと共感を覚えます。

第1話:「艦首切断」。昭和10年に、台風に遭遇した演習艦隊のうち、駆逐艦「夕霧」と「初雪」が、巨大な三角波により艦首を切断され、多数の犠牲者を出した事故を取り上げたものです。迫真の描写です。
第2話:「顛覆」。低気圧の接近する荒天下で、水雷艇「友鶴」が顛覆するという事故が発生します。船内に取り残された生存者の救出と、設計上の欠陥の解明が描かれます。
第3話:「敵前逃亡」。沖縄戦が舞台です。米軍に捕えられた若い召集兵が、投降を呼びかけるためと偽り、再び戦うために日本軍陣地に戻りますが、「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓をたてに、敵前逃亡の罪で処刑されてしまう話です。割りきれなさが残ります。
第4話:「最後の特攻機」。ポツダム宣言を受諾する天皇の終戦玉音放送を聞いた後に、なお自ら最後の特攻に出撃する宇垣纏中将を描きます。特攻作戦を指揮してきた責任感からとしても、志願した11機の若者を死へ導く最後は納得できません。
第5話:「太陽を見たい」。こちらも沖縄戦の話です。伊江島の女子斬込隊の生存者である大城シゲさんの壮絶・凄惨な体験。「太陽を見たい」という素朴な感情が、極限の飢餓生活からの転機になりました。
第6話:「軍艦と少年」。単調な生活から脱出したいと願った少年の行為は、高度の軍事機密に触れたものでした。戦後、少年の消息を追う形で描かれるのは、戦争によって幸福な少年時代をふいにしてしまう不幸の姿でしょうか。



吉村昭作品は、いずれも徹底した取材の裏付けに基づいています。登場人物の心理描写は作家としての推理でしょうが、事実関係は裏付けを持って書いていると言われています。沖縄戦の様相など、こんなことが実際にあったのだなと、暗澹とした気持ちになってしまいますが、私たちの親の世代の出来事として、たしかにこうしたことが起こっていたのでしょう。

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小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』を読む

2012年09月14日 06時02分40秒 | 読書
文藝春秋社から2009年に刊行された単行本で、小川洋子著『猫を抱いて象と泳ぐ』を読みました。リトル・アリョーヒンと呼ばれる少年の生い立ちから、チェスの広大な世界で美しい棋譜を残すプレーヤーとして成長し、不慮の事故で亡くなってしまうまでの短い人生を描く物語です。

主人公の少年は、唇がくっついたまま誕生しただけでなく、その成育の過程で、大きくなることは悲劇の始まりだという抜き難い観念を身につけてしまいます。チェスのやり方もいっぷう変わっていて、チェス盤の下にもぐりこんでゲームをするというものです。チェスの腕前は素晴らしいのに、この習性のために、からくり人形の中でチェスの対戦を行うことを常とし、ひそかな名声を得ますが、胴元はかなりいかがわしい人物のようで、せっかく仲良くなった少女を、生贄として与えてしまう結果になるのです。

これをきっかけに、少年はチェス・クラブを去り、元チェス・プレーヤーたちが老後を送る老人ホームで、夜間に限り、人形が対戦相手となる、すなわち少年リトル・アリョーヒンが人形にもぐりこみ、対戦するようになります。



『博士の愛した数式』の作者らしい、風変わりなイメージが広がる、ちょっと重苦しい雰囲気の物語です。私はチェスのルールなど皆目わかりませんし、棋譜の美しさなどと言われても想像もつきません。楽譜がいかに美しく印刷されていても、実際に音にならなければ手も足もでない素人音楽愛好家です。チェスの棋譜を読んでうーむとうなるような達人・名人の世界を想像するのはちょいと現実感がありません。現代の作家は、どうして常ならざる者に重荷を課し、物語を作ろうとするのか、むしろそのへんに疑問を感じてしまいます。





アホ猫よ、お前もそう思うだろ?
「うーん、そうよね~、猫の名前がポーンだそうだけど、なんかアタシ的には、わりと好みの名前だわね~。」

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複数の万年筆を均等に使っていくことは現実的か

2012年09月13日 06時04分29秒 | 手帳文具書斎
筆記具は、実用の道具であるとともに、趣味性の強いものでもあります。よほど急いでいるときは別として、ものを書くときには、手近にあるものを無造作に使うとは限りません。とりわけ、万年筆の場合は、お気に入りのものを偏って使用する傾向があります。

所有する複数の万年筆を、均等に使って行くことは可能か。これは、持っている本数が多いほど困難になってくるでしょう。好みのインクを入れたお気に入りの一本が、偏って使われる分だけますます手になじみ、さらに書きやすくなってくる、そういう関係にあるのでは、と思います。

ボールペンは、しばらく放置しても、書き始めれば調子が戻りますが、万年筆を放置するとインクが乾燥してやっかいです。プラチナのスリップシール機構というのは、そのあたりの問題を技術的に解決しようという取り組みなのだろうと思いますが、さて表題の「複数の万年筆を均等に使っていくことは現実的か」という件は、はたしてどうなのでしょうか。
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プラチナの超安価万年筆プレッピーの弱点

2012年09月12日 06時03分07秒 | 手帳文具書斎
プラチナの「プレッピー」万年筆は、インクが乾燥しにくいスリップシール機構を持つということで興味を持ち、購入(*1)はしたものの、実はほとんど使っていませんでした。私が使っている万年筆の中で、細字の黒は他にないだけにもっと使いそうなものですが、使おうという気が起きません。これはプレッピーのプラスチックがあまりにチープすぎるのが原因です。たとえば、スリップシール機構のためにキャップの開閉に予想以上に強い力が加わるためでしょうか、キャップを何度か外しただけなのですが、胴軸のねじ部分にすでにひびが入ってしまっています。



そのせいか、こんなふうにキャップが取れずに胴軸部だけがすっぽ抜けてしまいます。



仕方なく、ニチバンの絆創膏みたいなテープをぐるぐる巻きにしていますが、これでは実用にならないと判断せざるを得ません。スリップシール機構自体はよくできているだけに、信頼性の高い日本製品とは思えないほどで、残念な結果です。




当方、お気に入りの製品をほめることはすれ、欠点をあげつらうことは控えてきておりますが、スリップシール機構の長所が評価できるだけに、残念さが少々目に余りました。

(*1):文具店と書店探訪の成果は~「電網郊外散歩道」2011年12月
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菜穂子『山形ガールズ農場』を読む

2012年09月11日 06時05分01秒 | -ノンフィクション
上の娘が結婚する頃、高校の同級生というか同期生の菜穂子ちゃんが実家に帰って農業をやっているらしい、という話をしていました。自宅から地元の大学に通っていた娘には、都会に出て横浜の大学に通う同期生の姿が、うらやましく思っていたのでしょう。ところが、何を思ったか田舎に戻って農業をやっているという話に興味を持ったらしいのです。その後、いろいろな情報が入ってきました。お母さんと一緒に、東根市の「よってけポポラ」という直売所のわきに小さな直売コーナーを設けているそうだとか、野菜の詰め合わせを売ろうとしているそうだとか、いたって断片的なものでしたが。

今思えば、この頃は本書の第1章:「女子大生、農業に目覚める」に記されたような試行錯誤の日々だったのでしょう。当方がこのブログを開始する前後の時期で、亡父がまだ元気で農業を楽しんでいた頃にあたります。そして彼女のその後は:

第1章 女子大生、農業に目覚める
第2章 あきらめなければ変えられる!農業の世界
第3章 誕生!山形ガールズ農場
第4章 「女子」ならではの米づくり、野菜づくり、商品開発
第5章 山形ガールズ農場、新たな可能性
第6章 「ビジネスとしての農業」のこれから

という具合に、ビジネスの企業家としての道を歩んでいます。



農業生産法人としてスタートした山形ガールズ農場は、様々なイベントや商品開発を通じて独自性を打ち出し、マスコミにもしばしば取り上げられるようになりましたが、本書には、その彼女の考え方が、明確にわかりやすく記されています。才媛らしく文章も上手で、なかなか説得力もあります。山形「ボーイズ」農場では当たり前過ぎるけれど、山形「ガールズ」農場なら、都会の中高年おじさん・おばさんたちにも応援してもらえるかも。女子から始める農業改革が、友人の結婚式でも一緒になったと話す娘の同期生だからではなく、ビジネスとして成功してほしいものだと思います。

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将口泰浩『キスカ島・奇跡の撤退』を読む

2012年09月10日 06時04分36秒 | -ノンフィクション
八月のはじめに、酒席の時間待ちの間に書店に入り、新潮文庫の新刊の中から、将口泰浩著『キスカ島・奇跡の撤退~木村昌福中将の生涯』を購入しました。たぶん、終戦記念日を前にして、玉砕の悲劇ではなく、生還の物語に魅力を感じたのだろうと思います。そして期待は裏切られることなく、玉砕の島アッツ島の隣のキスカ島から包囲網をかいくぐり、5183名の陸海軍将兵を救出することに成功するまでの経過が語られます。指揮官は木村昌福海軍中将。このパーフェクトな作戦にいたるまでの、海軍軍人としてはいささか風変わりな半生と、戦後の生活が描かれている本です。

アッツ島とキスカ島の占領というのは、戦略的にはあまり意味をもたなかったことなど、本書ではじめて知りました。また、海軍兵学校出身者は、卒業時の成績、いわゆるハンモックナンバーで優秀性が示されたそうです。誰某は何番で別の誰某は何番だった、という具合です。海軍における登用出世にも影響するこの席次は、当然ですが、ある基準により作成された試験問題や課題により評価されますが、それが必ずしも歴史的評価とは一致しないところがおもしろい。

確かに、より多くの敵を殺害する優秀性や大胆さの観点から評価される人物は、将兵の命を大切にする度合いは低くなりがちであろうと思われます。その意味では、木村昌福氏の席次がそれほど高くなかったのは、必ずしも不名誉とは言えないでしょう。

偶然が重なってのパーフェクトな救出作戦成功でしたが、全滅の悲劇の影に、生還の喜びと感謝を充分に表すことができなかった将兵たちの気持ちが、冒頭のエピソードには感じられます。たぶん、筆者に筆を執らせたのは、そういう思いに動かされた驚きだったのでしょう。得がたいノンフィクションです。

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ハイドンのミサ曲第11番ニ短調「ネルソン・ミサ」を聴く

2012年09月09日 06時02分47秒 | -オペラ・声楽
ハイドンと雇用主であるエステルハージ候の関係は、たいへん興味深いものです。たとえば、弦楽四重奏曲第63番(Op.64-1)の記事(*1)で、

雇い主が、従業員が楽譜を出版し収入を得るという副業を認めていたのですから、かなり理解のある人と言えましょう。還暦間近なハイドンもまた、自由な身分に憧れながらも、こうした境遇の価値を十分に認識していたものと思われます。

と書いたように、また弦楽四重奏曲「ひばり」の記事(*2)で、

聞き終えた後、幸せな気分で眠れる音楽は、意外に少ない。自分の不幸を訴えるのに夢中な音楽家は、他人の幸福に思いを寄せることはできないのかもしれない。ハイドン58歳の音楽は、エステルハージ侯爵家における長い楽長生活に終止符を打ち、ようやく自由な身分となった時代の充実した作品だ。自分の意志と忍耐でかちとった自由。一見すると屈託のないハイドンの明るさの背後には、忍耐を知る人の意志的な眼差しがあるように思う。

と書いたように、ハイドンの音楽には、エステルハージ候の好みやあり方が、かなり反映していそうです。ハイドンも、若い頃には疾風怒濤の年代の激しい要素を持っていたのでしょうが、もしかするとエステルハージ候の好みに合わせ、晴朗で自然体なスタイルをとっていくようになったのかもしれません。なんとなく、生まれながらの上流階級という品のよさを感じさせるところがあります。

ところで、このエステルハージ候というのは、一番最初に29歳のハイドンを雇ってくれたパウルII世アントンではなく、その後を継いだ弟のニコラウスI世のことです。この人は、ほんとに一流の文化人だったみたいです(*3)。

幸か不幸か、ハイドンが58歳の1790年にニコラウスI世は死去し、息子アントン候が後を継ぎますが、この人は緊縮財政論者で、離宮を引き払い、楽長ハイドンとコンサートマスターのマッシーニに年金を贈って楽団を解散してしまいます。結果的にハイドンを自由の身分にしてくれたアントン候は、四年後の1794年、ハイドン62歳の年に死去し、後をニコラウスII世が継ぎます。この人は楽団を再建し、有名なハイドンに作曲を命じることで自負心を満足させるような人で、あまり音楽への理解はありません。すでに実質的にフリーの立場にあったハイドンは、ニコラウスII世の命により、リヒテンシュタイン家出身の妃の命日に演奏するため、ミサ曲を作曲します。それが、ミサ曲第11番ニ短調、いわゆる「ネルソン・ミサ」です。

I. キリエ
II. グローリア
III. クレド
IV. サンクトゥス
V. ベネディクトゥス
VI. アニュス・デイ

トラファルガー海戦のネルソン提督のエピソードなどを先入観として持っていると、この曲の持つ暗さ、激しさは意外です。それもそのはず、この曲の本来のタイトルは「Missa in Angustiis」すなわち「困苦の時のミサ」だそうで、戦勝を祝うものではありません。では、ハイドンはなぜこんな音楽を作曲しようと思ったのだろう?

それはたぶん、自分が心から尊敬し仕えたニコラウスI世には人間的に遠く及ばず、オーケストラから木管楽器奏者を解雇してしまうような愚かさを持つ、現エステルハージ候ニコラウスII世に対する嘆きと怒りではないかと思います。初版では木管楽器のパートがない、特殊な楽器編成がその理由です。

(*1):ハイドンの弦楽四重奏曲第63番(Op.64-1)を聴く~「電網郊外散歩道」2012年6月
(*2):ハイドンの弦楽四重奏曲「ひばり」を聴く~「電網郊外散歩道」2005年9月
(*3):エステルハージ家の歴史

演奏は、ベーラ・ドラホシュ指揮エステルハージ・シンフォニア、ハンガリー放送合唱団ほか。CD
は NAXOS の 8.554416 です。NAXOS Music Library で試聴できるようです。

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夏の終わり~部屋の隅にオニヤンマが

2012年09月08日 06時00分41秒 | 季節と行事
日中の残暑はまだまだ厳しいものがありますが、朝晩はだいぶ涼しさを感じるようになりました。窓を開けっ放しで、タオルケット一枚で足を出して寝ていたら、筋肉が冷えてふくらはぎが痙攣してしまうほどです。これが全身になった場合が、いわゆる「金縛り」でしょう。そろそろタオルケットだけでなく、毛布を準備する必要が出てきたようです。



部屋の隅にオニヤンマを見つけました。たぶん、日中に窓を開けておいたところから入ってきて、出られなくなってしまったのでしょう。こんなところにも、夏の終わりを感じます。

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自家栽培の川中島白桃を食べる幸せ

2012年09月07日 06時01分20秒 | 週末農業・定年農業
私も妻も、桃が大好きです。ところがこの桃というやつは、たいへん病虫害に弱く、勤め人の週末農業ではとても太刀打ちできないものと、半ば諦めておりました。たまたま、スモモの消毒の際に、ついでに桃にも実施してみたところ、例年なら病虫害で全滅するはずの川中島白桃が、けっこう食べられるものがあります。先の日曜日に収穫したところ、全体の個数の半分ほどはあったでしょうか。



いつかは自分たちの手で自家栽培の桃を、と少しずつ摘果をしていた妻の努力もあって、なかなか大玉のものもあります。うーむ、これはもしかしたら、本格的にやれるかもしれない。
幸いに、少し離れた園地にも、さらに何本か植えた桃畑があります。来年は、サクランボ、梅、スモモ、プルーン、柿のほかに、桃やリンゴにも挑戦してみたいものだと、夢は広がります。

自家栽培の桃を大皿にむいて、家族でお腹いっぱい食べるときは、まさに生産者の幸福です。来年以降、本格栽培に挑戦して、多くの人にこの美味しさをお届けしたいものです。

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トイレ休憩時のお買い物~メモ帳と付箋

2012年09月06日 06時02分21秒 | 手帳文具書斎
長距離を運転していると、トイレ休憩の機会が多くあります。もっぱらコンビニエンス・ストアを利用しますが、欧米式のチップとまではいかずとも、お礼になにがしかの買い物をするようにしています。先日のお買い物は、某セブンイレブンのリングノート形式の黄色いメモ帳と細くて小さな付箋でした。



紙質はコシがあり、たいへん好ましいものです。5mm 方眼も薄いグレーで、さほど抵抗はありません。まずは、万年筆で書いてみました。



裏抜け、裏写りは皆無です。おお、これはけっこういけるかもしれない!



ちなみに Made in Japan で、KOKUYO S&T の製品らしい。ふーむ、それなら分かる気がする。
ワイシャツの胸ポケットの中や、車のダッシュボードに付いているカード入れなどに、この定期券サイズ(A7)のメモ帳が収まり、出番を待っています。

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熱中症にもならずにすんで

2012年09月05日 06時01分22秒 | アホ猫やんちゃ猫
やれやれ、この夏は、ホントに暑かったわ~。奥さんがときどき冷たい水をくれたからいいようなものの、あの暑さに、思わず毛皮を脱ぎたくなったもの。アタシの仲間うちにも、熱中症になったのがいたみたい。フラフラで道路を横断するんだもの、車に轢かれるのもむりはないわね~。うちのご主人なんか、せっかく休みになるたびに何か行事があって出かけて行くのよ。人間どうしの義理ってのも大変よね~。こないだなんか、早朝から河川愛護デーとかで草刈りに行き、帰ってきたらバタンキューで半日お昼寝していたもの。アタシたちみたいに、暑い日はゴロゴロしているに限るのよ。まあ、朝早くの作業だから、熱中症にもならずにすんで、よかったけどね~。

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高橋義夫『風魔山岳党』を読む

2012年09月04日 06時04分30秒 | 読書
文藝春秋社から1997年に刊行された単行本で、高橋義夫著『風魔山岳党』を読みました。忍者や行者を主として描くもので、伝奇小説といってよいのでしょうか。時代としては、秀吉の小田原攻めで北条氏が滅んだ頃で、北条に仕えていた若い忍者の風祭小次郎は、故郷・風摩の庄を焼き討ちにした者たちを追いながら、羽州山形に落ち延びます。

この時代の山形は、最上義光(よしあき)の時代。かわいい駒姫を秀次の側室に差し出しながら、到着してすぐに秀次とともに殺されてしまい、最上義光は豊富秀吉を恨み、徳川家康に近づきます。ところが、越後の上杉は会津に移ることとなり、直江兼続が米沢に入ります。したがって、山形を取り巻く舞台は、会津と米沢の上杉・直江、仙台の伊達に挟まれ、乱世の余韻さめやらぬ頃で、「東の関ヶ原」と知る人ぞ知る「長谷堂合戦」の前哨戦、畑谷楯の攻防までとなります。

誰が味方で誰が敵なのか、入り乱れる複雑な人間模様が、ほどよくお色気も交えながら展開されます。土着信仰の担い手として、修験道の行者集団を絡ませたあたりは、作者が西川町岩根沢の宿坊集落に居住したときの経験を生かしているのでしょうか。なんとなく、風魔の忍者を主人公とするところから、某有名作家の小説を思い出しながら、でもこちらの方がずっと渋い味だなと、ご当地もの時代・伝奇小説を楽しみました。

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月曜の朝の楽しみ

2012年09月03日 06時03分10秒 | クラシック音楽
しばしばブルーマンデーと言われるように、月曜日の朝は、ふつう憂鬱なものです。私の場合も、時にはため息をついて出かけることもありますが、できるだけ楽しみを作って、通勤に出発するようにしています。その楽しみとは、「一週間の通勤の音楽のCDを選ぶ」こと。

わが愛車には、音楽CDが三枚入るトレーがありますので、ここに選んだCDを収めて出発します。折々の季節感や興味関心の方向に合わせ、CDを選ぶのはなかなか楽しいものです。現在は、

J.S.バッハ 「結婚カンタータ」
ハイドン 「ネルソン・ミサ」

などが入っております。これまでは、夏に関連した大規模オーケストラ曲~メンデルスゾーン「真夏の夜の夢」、ブルックナー「交響曲第6番」、マーラー「交響曲第3番」~を聴いてきましたが、ちょいと方向性を変えて、どうやら人間の声に向かっている模様です。

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マーラー「交響曲第3番」を聴く

2012年09月02日 06時03分14秒 | -オーケストラ
LPからCDになって嬉しかったのは、ベートーヴェンの「第九」が一枚に収まったことでした。曲の途中でLP面をひっくり返す手間もいらず、曲の途中で、あの素晴らしいアダージョの途中で音楽が途切れる理不尽さもなくなり、喜んだものです。
ところが、CDになってもなお不便な曲もありました。それは、マーラーの「交響曲第3番」のように、1枚のCDに収まらない長大な曲の場合です。カセット・カーステレオでも、2枚組LPが90分テープ1本に収まらず、車を更新してカーステレオがCDに変わっても、2枚組のCDの出番はさほど多くありませんでした。

PCオーディオが主体になって、このあたりの事情は変わりつつあります。2枚のCDをパソコンに取り込み、USBオーディオプロセッサを通して全曲を聴くことができるようになり、この曲に再び親しむようになりました。

資料によれば、グスタフ・マーラー36歳の1893年夏、作曲に着手し、3年後の1896年8月6日に完成したとされています。部分的な演奏はともかく、全曲の初演は1902年といいますから、20世紀に入ってからのことになります。これも意外な事実で、てっきり世紀末のことだろうとばかり思っておりました。しかし、それにしても大規模な曲です。楽器編成も、Wikipediaによれば、

フルート4(すべてピッコロに持替え)、オーボエ4(4番はコーラングレに持替え)、クラリネット 3(3番はバスクラリネットに持替え)、小クラリネット 2(2番はクラリネットに持替え)、ファゴット4(4番はコントラファゴットに持替え)
ホルン8、ポストホルン、トランペット4(第6楽章でコルネットに持替え可)、トロンボーン4、チューバ
ティンパニ2(各3台ずつ)、大太鼓、小太鼓、軍隊用小太鼓、シンバル付き大太鼓、タンブリン、シンバル、トライアングル、タムタム、グロッケンシュピール、調律された鐘 4ないし6
ハープ2
弦五部:合計88人
アルト独唱、児童合唱、女声合唱

というものだそうで、いやはや呆れるほどのすごさです。

当初は「夏の朝の夢」という題名を持っており、各楽章にも表題が付けられていたのだそうで、この長大な音楽の手がかりにはなるように思います。こんなふうです。

第1楽章:「牧神が目覚める、夏がやってくる」、力強く決然と、ニ短調、4/4拍子。
第2楽章:「牧場の花たちが私に語ること」、テンポ・ディ・メヌエット、イ長調、3/4拍子。
第3楽章:「森の動物たちが私に語ること」、コモド・スケルツァンド。急がずにスケルツォ風に、というような意味でしょうか。ハ短調、2/4拍子。
第4楽章:「人間が私に語ること」、きわめてゆるやかに、神秘的に。ニ短調~ニ長調。アルト独唱は、ニーチェの「ツァラストゥラはこう語った」の最後でツァラストゥラが歌うところだそうです。歌詞の中身は、どうもあまりピンときませんが(^o^;)>poripori
第5楽章:「天使が私に語ること」、テンポは活発に、表現は率直に(朗らかに)、ヘ長調、4/4拍子。「子供の不思議な角笛」から「三人の天使が楽しい歌をうたった」より。アルト独唱、女声合唱、児童合唱が加わる童話的な世界です。
第6楽章:「愛が私に語ること」、ゆるやかに、平静に、感情をこめて。ニ長調、4/4拍子。壮大で力強く輝かしい、でもかなりしつこい終結です。

この曲を聴くと、「子供の不思議な角笛」や「交響曲第4番」も聴きたくなってしまいます。ギネスブックに載りそうな長い曲なのに、不思議なものです。季節は夏、マーラーの自然描写というか自然への共感は、東洋の島国に住む中高年の心にも訴えるものがあります。

演奏は、CDがエリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団、ドリス・ゾッフェル、リンブルグ大聖堂少年合唱隊、フランクフルト聖歌隊女声合唱団、DENON COCO-70473/4、1985年4月、フランクフルト、アルテオーパーにて収録されたPCM/デジタル録音です。ヘッセン放送との共同制作。

LPのほうは、クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団、マージョリー・トーマス、バイエルン放送女声合唱団、テルツ少年合唱団、1967年5月、ミュンヘンのヘルクレス・ザールにて収録されたアナログ録音で、型番はグラモフォンのMGX-9923/4 というものです。この演奏は、けっこうお気に入りでした。

■インバル指揮フランクフルト放送響
I=32'31" II=9'56" III=18'04" IV=9'35" V=4'02" VI=23'53" total=98'01"
■クーベリック指揮バイエルン放送響
I=30'47" II=9'35" III=16'50" IV=9'18" V=4'06" VI=21'47" total=93'23"



カセットテープのほうは、今は亡きM君からのいただきもので、ショルティ指揮シカゴ響によるものです。

【追記】
参考までに、演奏時間のデータを追加しました。

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晩夏の風景と秋の気配

2012年09月01日 06時04分10秒 | 週末農業・定年農業
残暑はまだまだ厳しいものがありますが、晩夏の風景の中にも秋の気配が感じられるようになりました。まず、日が短くなったと感じます。夕方六時過ぎにはもう太陽が西の山々に沈みますし、陽が落ちるとさすがに涼しさが感じられます。向日葵はすっかり下を向いて種を落とす体勢ですし、山間部の蓮の花も終わりが近いようです。

それでも、過ぎ行くものを惜しむばかりが晩夏の風情ではありません。来るべき秋に備えて、老母が畑の準備を始めました。先週末、ハクサイやムラサキキャベツ、ブロッコリー、カリフラワー、サニーレタスなどの苗をたくさん買い込みました。








軽トラックで運搬し、その日のうちにハクサイの植え付け作業を始めました。



耕したばかりの畑にレーキをかけ、平らにならします。畝をたててくぼませた溝に十分に水を与え、上から土をかぶせます。こうすると、表面上は乾いていますが、内部に水を十分に吸った列ができますので、上から移植べらで穴を開けると、濡れた土が黒く顔を出します。ここに水を補給しながら、苗を植え付けていくのだそうです。なるほどなるほど。畑の新米後継者は、いちいち合理性に感心してばかりです。




種子を蒔く野菜も、順次予定しているようです。毎年の間に身についた習慣と計画性が、84歳の老母の健全な心と健康を支えているようです。その強さを、私たちも見習わなくてはいけません。

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