電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

アホ猫用のダンボール・ハウスを作る

2017年10月16日 06時04分54秒 | アホ猫やんちゃ猫
一雨ごとにだんだん寒くなってきますので、アホ猫、といっても冬を越せば19歳になる母猫の寒さ対策に、ダンボール・ハウスを作りました。内部には新聞紙を厚めにしいて段差をなくし、その上に猫用毛布をしいて、たぶん居心地は満点のはず。今朝は、中に入って頭だけ出して、いたってごきげんでした(^o^)/

実は、歳のせいか身繕いができなくなり、毛玉がたくさんできていて、なんだかみすぼらしくなっていましたので、動物病院の検診時に毛玉を刈ってもらいました。おかげで、今は母猫が一部「ハゲ珠代さん」状態。少々恥ずかしがっているのかもしれません。

また、母猫の血液検査をしてもらったところ、腎機能がだいぶ低下しているとのこと。健康保険がきかない動物病院の明細に驚きながらお薬をもらってきましたが、なんとかこの冬を越してもらいたいものです。

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ようやくほっとする週末休日で伐倒木と剪定枝を焼却する

2017年10月15日 06時03分10秒 | 週末農業・定年農業
この土曜日は、葬式も法事も行事も出張もない、ようやくほっとする週末休日となりました。少々のんびりと朝寝をして六時に起きて(^o^;)、定例のメールチェックとブログ巡回と朝食の後、春から夏にかけて切り倒した自宅裏の果樹園のスモモの樹やサクランボ、柿などの剪定枝を焼却しました。燃やすことを考えずに積み上げてしまったので、内部がスカスカでなかなか燃えなかったのですが、妻が運んできた剪定枝を内部に詰め込んで、ようやく燃え上がりました。



木の枝が燃える仕組みというのは、熱で蒸し焼き状態になった枝から可燃性ガスが発生し、これが炎になって燃えることでさらに加熱され、他の枝からも連続して可燃性ガスが供給されて大きく燃え上がります。熱せられて乾いた木部に着火し大きな熱源となる頃には、消そうとしてもなかなか消えにくい状態になります。そんなわけで、周囲の枯れ草等への延焼を防ぐために、スコップで溝を掘って防火線とします。今日は風もなく気温も低く、絶好の焼却日和でした。リンゴを丸かじりしながら火の番をして、のんびりできました。



その他には、耳鼻咽喉科に行き、床屋に行き、懸案をだいぶ済ませることができました。妻は婦人会の会食で夕方からお出かけで、老母のお相手をしながらの夕食でした。

音楽は、オーマンディ指揮フィラデルフィア管による演奏で、プロコフィエフの交響曲第6番を。これも、いい曲、いい演奏ですね~。



さて、今日はタマネギを植える仕事が残っています。マルチ栽培ですので、黒いポリのシートを広げる必要があり、妻と二人で作業をする予定です。余裕があれば、10月のリンゴ「紅将軍」の収穫もしたいところです。幸い、お天気はまずまずのようで、ありがたい。

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ボールペン筆記線比較表について

2017年10月14日 06時01分04秒 | 手帳文具書斎
ゼブラ(株)が先月発表した報道資料(*1)によれば、50歳以上の商品に関する問合せには見え方に関する不満が多く寄せられ、太い字が書けるボールペンを望む声が多くなっているとのことです。これに対して同社では、太さだけでなくインクの濃さによっても、字の見え方が変わると指摘し、

  1. 油性インク
  2. エマルジョン・インク
  3. ジェル・インク

の三種類について、インクの種類別・線幅別のインク線比較表を発表しています(*2)。

これを見ると、私の場合は明らかに1.0mm(ジェルインクでは0.7mm)以上のものが視認しやすいことがわかり、従来の経験と一致します。万年筆でも、できれば中字でくっきりはっきりした筆記線であることを条件としており、ボールペン筆記線比較表の結果に合致します。年齢的なものですので、仕方がありませんが、こういう調査結果を見ると、なるほどと感じます。

(*1):ボールペンの筆記線の見え方に関する調査
(*2):インクの種類別筆記線比較表

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経営者の急逝と後継者

2017年10月13日 06時02分21秒 | Weblog
少し前のことになりますが、ある経営者が急逝し、その葬儀に参列したことがありました。弔問に行った時の奥様の嘆きも涙を誘われるものでしたが、告別式における息子さんの後継者としての決意も心うたれるものがありました。

経営者が急逝した時は、後継者が決まっていれば良いのですが、そうでない時にはしばしば問題が生じます。自営業の場合ならば、後継者の不在はストレートに廃業につながり、家族や従業員の生活の問題に直結します。今回のケースは、幸いに後継者が決まっていましたので、なんとか世代交代ができそうですが、もし違っていたら大変だったことでしょう。



私の場合、高齢にも関わらず専業農家を維持していた父が亡くなった後に、週末農業として受け継ぐことを決意するまでには、ご近所の老人のアドバイスや農業機械の使い方を親切に手ほどきしてくれた人たちの助力がありました。それも、亡父によるご近所とのふだんの交際があっての好意でしょう。後継者として亡父の徳の恩恵にあずかれたことを幸いに思います。

(*1):果樹園の再開を目指して~「電網郊外散歩道」2009年3月

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香月美夜『本好きの下剋上』第1部「兵士の娘」第I巻を読む

2017年10月12日 06時02分28秒 | -香月美夜
香月美夜著『本好きの下剋上〜司書になるためには手段を選んでいられません」第1部「兵士の娘」第I巻を読みました。このシリーズは、本編がWEB小説ですでに完結しており、全部を無料で読むことができます。実はすでに一度読み終えていますが、その面白さにハマってしまい、現在T/Oブックスから刊行されている紙の本も集め始めたという次第です。そういう事情ですから、新刊であってもネタバレに配慮する必要は薄いだろうという判断です。



主人公・本須麗乃は無類の本好きで、大学を卒業後には大学の図書館に司書として就職が決まっていたのに、地震で崩れてきた自宅の書棚の本に埋もれて死んでしまいます。次に目覚めたのは、どことなく中世ヨーロッパ風の街エーレンフェストの職人街の一角に住む兵士の娘・マインとしてでした。ライトノベルによくある奥の手、「転生」です。

ところがこの街には、文字はあっても本がほとんど見当たらない。たまたま見つけた本は、羊皮紙に書かれ革で装丁された豪華な貴重本で、貴族の持ち物しかないのです。「本がなければ作ればいい」と、虚弱な身体を嘆きながらマインの幼なじみ・ルッツとともに奮闘します。エジプトのパピルスは編むのに挫折、メソポタミアの粘土板もダメ、中国の木簡や竹簡も、間違えて暖炉で燃やされてしまいます。とにかくこの「Do It Yourself !」の過程が、元理科少年にはいちいち面白い。深く深く共感してしまうのです(^o^)/

途中、副産物としていろいろ作りだしてしまうのが、リンスインシャンプーだとか手編みのトートバッグだとかレース編みの立体的の髪飾りというようなものなのですが、実はこれらが物語を前に進めていってしまいます。もうひとつ、門番の助手としてこの世界の文字を覚え、筆算力を活かして書類の計算チェック係として重宝されるなど、麗乃時代の教育の成果も充分に役立っています。

そうして、この巻のハイライトは、商人になりたいルッツの願いをマインが仲介して、新興のギルベルタ商会の主人ベンノとの接点が生まれ、そこで「植物紙を作る」という課題がクローズアップされるあたり。マインとルッツは、紙を作ることができるのか?



老母によれば、小学生時代、学校から自宅まで本を読みながら歩いて帰る生活で、担任の先生から「危ないから家庭で注意してください」と言われたという前歴を持つらしい(^o^;)当方には、なんだか親近感がわく主人公です(^o^)/
一度WEB版で読み終えてはいますが、紙の本で読む楽しさはまた格別です(^o^)/

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新カテゴリー「香月美夜」を作ろう

2017年10月11日 06時02分56秒 | ブログ運営
ブログ運営上では、このところ格別の変化もなく今に至っております。近年の変化といえば、「歴史技術科学」カテゴリーの新設と、「料理」を「料理・住まい」と名称変更したことくらいです。まったく動きがなくなったのは「平岩弓枝」カテゴリーで、ある時期からパタッと止まってしまいました。「読書」配下のサブカテゴリーとしては、継続して多く読んでいるもの、という条件で設定しておりますので、もしかすると「ライトノベル」あたりでも設定可能かと思いますが、中高年が長く運営しているブログに「ライトノベル」というカテゴリー名はいささか気恥ずかしいものがあります。それに、ほかのライトノベルを広く読んでいるわけでもないし、大江戸エンターテインメントと化した『居眠り磐音江戸双紙』というシリーズ名でなく「佐伯泰英」という作者名にしたように、ここは『本好きの下剋上』シリーズの著者名で「香月美夜」としてしまってはどうだろうか。
というわけで、このたび新カテゴリーを立てることとしました。これで、同シリーズを読み返すたびにブログ記事にすることができそうです(^o^)/

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娘と孫たちが帰省しりんご狩りその他を楽しむ

2017年10月10日 06時03分41秒 | 季節と行事
秋の行楽シーズンに、娘が孫二人を連れて里帰り帰省しましたので、時ならぬ喧騒状態が連続しておりました。以前のスーパーハイテンション超絶エネルギッシュ・ジャリンコな孫達も小学校高学年と中学年となり、少しは成長しておとなしくなったかと思いきや、広い田舎家で近所迷惑を心配する必要が皆無であるため、高らかな雄叫び、いや、もとい、黄色い歓声を上げて走り回っておりました。



日曜の午前中はリンゴの収穫を手伝ってもらいました。さすがに高学年の姉のほうは充分にお手伝いになりますが、中学年の妹の方はバッタを捕まえることに夢中で、秋の陽光を背にうろうろと歩き回っておりました。帰宅してからは、家族総出で蕎麦屋に繰り出し、「冷たい肉そばとお餅のセット」などをいただきました。

もうひとつ、小学校高学年になると文房具にも興味を示すようになり、愛用の筆入れは「デルデ」で、フリクションボールが四色、使い分けているのだそうです。プラチナ社のプレッピーの細字(0.3)と古典ブルーブラックのインク・カートリッジ1箱をあげたら、「私でも書ける〜!」とたいそう喜ばれました。小学生にも万年筆の魅力は感じられるようで、一緒にあげたB6判キャンパスノートにいろいろ書き込んでいるようです。



また、パソコンで「フリーセル」ゲームの遊び方を教えたところ、すっかりハマってしまったようで、今のところ爺ちゃんの後をついて回るような状況です。私と同様に、自然を愛し音楽と読書と文房具を愛でるように成長してくれるといいなあと願っております(^o^)/

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タネーエフ「弦楽四重奏曲第7番」を聴く

2017年10月09日 06時04分17秒 | -室内楽
通勤時に音楽を流すやり方で、未知の作曲家や作品になじむことがよくあります。現在の通勤の音楽は、以前、某書店のワゴンセールで入手したナクソスのCDの中から、タネーエフの弦楽四重奏曲全集第3集(8.573010)で、カルペ・ディエム(Carpe Diem)弦楽四重奏団による第7番と第5番の2曲を収録したものです。とりわけ第7番、変ホ長調を繰り返し聴いております。

作曲者のセルゲイ・タネーエフは、1856年生まれで1915年に没しています。例によってWikipediaで調べて見ると、5歳でピアノを習い始め9歳でモスクワに移住、モスクワ音楽院でピアノをニコライ・ルビンシュテインに、作曲をチャイコフスキーに学んだそうな。1875年に金メダルを得て卒業、ピアニスト、作曲家として活躍したそうで、アウアーと組んで演奏旅行を行ったほか、対位法の理論家として知られ、チャイコフスキーは「消防署のとなりのバッハ」と呼んでいたそうな。1875年11月にはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のモスクワ初演や第2番の世界初演のピアノ独奏を受け持ったというのですから、師匠の信頼もあったのでしょう。1878年からモスクワ音楽院の和声等の教授、1881年にはニコライ・ルビンシュテインの後任としてピアノ科教授、1885年からは4年間院長をつとめたとのことで、弟子としてスクリャービン、ラフマニノフ、グラズノフ、プロコフィエフ、メトネルなどの名前が挙げられています。錚々たる顔ぶれです。

この第7番の弦楽四重奏曲は、作曲者が1880年に作った曲とのことですので、24歳ころの作品ということになります。自分としては作品番号を付けるほどの完成度とは考えなかったのでしょうか、作品番号なしの曲をまとめて第7番から第9番に位置づけられているそうで、若い時代の作品としては第7番という番号が付けられているのは、そういう事情のようです。

第1楽章:アレグロ。どことなく田舎風の優しく柔らかな響きで始まり、13分ほどかかる音楽ですが、実際は四声のカノンを含む技巧的な面も持っている音楽で、同じ調のベートーヴェンの第12番の弦楽四重奏曲を思い起こさせると添付の英文のリーフレットでは指摘されています。
第2楽章:美しいアダージョ・カンタービレです。四つの楽器がそれぞれ表現力豊かに旋律を奏し、情感豊かな音の世界を作り出します。
第3楽章:スケルツォ。全体の中でいちばん短い曲です。物憂げなゆっくりとした始まりですが、やがて満たされない情熱とリズミカルなものと優しい穏やかな曲想が対話するように何度か繰り返した後、終わりには穏やかなものに変わっていきます。
第4楽章:フィナーレ、アレグロ・モルト。添付リーフレットの解説によれば、第1楽章と同様に対位法の技巧を凝らした音楽だとのことですが、素人音楽愛好家には技術的なことはわかりませんで、活発な良いフィナーレだなあと感じます。何度も繰り返して聴いて、聴き馴染んだ状態で接するときには、屹立する個性とか時代を画する独自性などという面は薄いのかもしれないけれど、なかなか良い曲ではないかと感じます。

参考までに、演奏データは次のとおり。
■Carpe Diem String Quartet,(NAXOS, 2010)
I~12'56" II=9'56" III=5'16" IV=9'56" total=38'04"

セルゲイ・タネーエフ、今まで接点がなく過ごしてきた作曲家でしたが、弦楽四重奏曲や同五重奏曲、ピアノ四重奏曲など、興味深い室内楽作品もまだまだあるようです。楽しみが増えたような気がします。

YouTube では、第7番の適当なものが見つからず、参考までに第1番の弦楽四重奏曲を見つけました。
Taneyev-String Quartet nº1 in B flat minor, op.4-Taneyev Quartet


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手帳・小型ノートに関するメモ三題

2017年10月08日 06時02分11秒 | 手帳文具書斎
■すき間時間を利用するには
すき間時間を利用するには、小型のノート・手帳ほど使いやすいようです。例えば待ち合わせの時間調整などのちょっとした時間には、小型のノートまたは手帳が使いやすいです。大きめのノートを広げるのは大げさで目立ちすぎますが、小型のノートや手帳ならば、さりげなく取り出してメモすることができます。理想はカバンや上着の内ポケットから取り出してまた戻せること。小型なので、文字は小さく行間は詰まりがちになりますので、ペンは細字の方が良いようです。使っている万年筆で言えば、プラチナ社の#3776ブルゴーニュ(F)など。この組み合わせだと、ネタが尽きるまでメモすることができます。

■まとまった記述にはノート、雑多なメモはメモ帳。
情報は一冊のノートにまとめよ、と言われます。一方で、サイズや取り出しやすさ・戻しやすさの面から、まとまった記述は大きめのノートで、雑多なメモは小型のメモ帳がやっぱり便利と感じます。

■文庫本サイズの手帳
以前買ってあった文庫本サイズのフリー・ダイアリーを見つけました。月間ブロックタイプですが、同サイズの横罫小型ノートと組み合わせ、ブックカバーをして使えないかとセットしてみました。サイズは適合ですが、ブックカバーは二冊併用を想定していないので、どうしても開いて書き込むには無理があります。中央に来るダイアリーの背表紙とノートの表紙の厚紙を、紙テープのようなもので固定してみてはどうだろう。
そういえば、このサイズの手帳は今まで使ったことがありません。文庫本を持ち歩くようなものでしょうから持ち運びには便利でしょうが、問題は少なくとも一年間は使える耐久性や記入スペースなど、実務に耐えられるかどうかという点でしょう。たぶん、当座の思いつきで終わるのではなかろうか。

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小学校に理科実験室ができ始めた時期

2017年10月07日 06時02分02秒 | 歴史技術科学
1980年代頃でしょうか、日本の学校教育を視察に訪れた視察団が驚いたことの一つに、「小学校にも理科実験室が整備されている」ことが挙げられていました。たしかに、中学校や高校以上では、諸外国、とくに先進諸国では物理・化学や生物などの実験室と準備室が整備されているのは珍しいことではありませんが、小学校でもとなるとたしかに珍しいことでしょう。おそらくは、日本の高度経済成長や Japan as No.1 と言われた当時の科学技術の強さの秘密を探ろうとしてやってきた視察団の目には、印象的なこととして映ったに違いありません。

では、日本で小学校に理科実験室ができ始めた時期はいつ頃なのか。山形県内を中心に調べてみると、次のようなことがわかりました。
まずは、見当たらないことがわかっているケースです。

  • 明治9年、鶴岡の朝暘学校の平面図には、教場や試験場などの記載はありますが、理科実験室など特別教室はありません。
  • 明治17年、写真のように、河北町立谷地小学校の校舎平面図には理科実験室など特別教室はありません。

  • 明治22年、山形市立第一小学校の前身である山形市中部高等尋常小学校の校舎平面図にも、理科実験室など特別教室の記載はありません。
  • 明治30年、河北町立谷地小学校の増築時にも、児童数の増加に対応して教室と裁縫室、講堂などが増築されていますが、理科室はありません。

  • 明治33年に落成した山形市立第三小学校(現在名)の校舎平面図にも、理科実験室の記載はありません。
  • 明治36年に河北町立南部小学校が独立開校したときも、明治41年に同西部小学校が独立開校したときにも、校舎平面図には理科室はありません。

  • 大正2年の山形市立明治小学校(現在名)の平面図にも、大正13年の増築平面図、昭和5年の改築平面図にも、理科実験室の記載は見られません。

次は、理科実験室の存在がわかる例です。

  • 大正3年、現在の山形大学附属小学校の沿革に、山形女子師範附属小学校に「理科室を特設する」という記述があります。大正8年の付属小学校の写真帳の中には、児童の理科実験の様子を撮影したものがあります。
  • 昭和2年、山形市立第一小学校の大改築が行われ、東北初のコンクリート校舎が完成しますが、この平面図に理科実験室の記載があります。
  • 昭和11年、河北町立谷地中部小学校の移転改築の際に、理科実験室と準備室が作られています。
  • 昭和14年、山形市立第三小学校の新校舎平面図に、理科実験室の記載があります。

また、山形県外でこれに類した情報を集めようと試みましたが、小学校の場合はなかなか難しいようで、あまり進んでおりません。その中でも、

  • 現在の大阪府豊中市立原田小学校の沿革中に、「昭和2年 創立、昭和3年 講堂・理科室・倉庫等 増築」との記載あり。
  • 明治12年に開校した三重県四日市市立八郷小学校の沿革中に、「昭和8年 2階建て特別教室(理科・図工・音楽・裁縫)の増築」との記載あり。

などが確認できました。

これら数少ない例から一般化するのはなかなか難しいのですが、大正期の児童中心主義の思潮による影響もあってか、大正時代に師範学校の付属小学校などが理科実験室を備えるようになり、昭和に入って、財政力のある都市部の小学校が理科実験室を備えるケースが出てきたけれど、この時期に大多数の小学校が理科実験室を備えるまでには至らなかった、と結論付けたいと思います。

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現在の備忘録ノートの更新は

2017年10月06日 06時06分45秒 | 手帳文具書斎
現在使用中の備忘録ノート(ツバメノート、A5判A罫100枚)の残り枚数は、約10枚、ページ数にして20ページです。10月から12月まで、残り三カ月ほどでは、1日1ページを使ったとして換算しても、90ページほどで済む勘定です。これならば、50枚くらいのノートで間に合いそう。以前に使っていたツバメノートで、A5判50枚のものがまだ在庫があったはずですので、これを使うこととしましょう。

今年は、なんだかんだで忙しかったのと、ポケットサイズの小型ノートの併用で、備忘録ノートを使う場面がやや減少したようです。「情報は一冊のノートにまとめよ」と言われますが、どうもブログのネタ帳にするだけなら、記事になってしまえばそちらを見れば良いわけで、結局は何に書いても同じみたい。読んだ本の抜き書きやあるテーマに沿ってまとまった内容の記載は小型ノートには向かず、A5判の備忘録ノートに書いていますけれども。

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机の上を片付けなければ!!〜定期的にやってくる危機?!

2017年10月05日 06時04分28秒 | 手帳文具書斎
机の上が乱雑になり、片付けるスピードよりも積み上がる量のほうが多くなってしまいました。机が使えなくなる危険信号です! これは、あらゆる仕事を脇に置いて、片付けなければなりません!

定期的にやってくる危機。それは、「後でやろう」と何気なく置いた一枚の書類から始まります。母校の同窓会の寄付依頼とか、生命保険の契約内容のお知らせとか、年金者向けの広報紙とか、果樹園管理に関する農協からの技術資料だとか、すぐゴミ箱へ捨てることはできないが、一分一秒を争うような重要性もない(^o^;)ペーパー類。こういう日常の雑多な処理をしてくれるロボットがいたら、便利だろうなあ(^o^)/

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老母の思い出話から教育資料館を訪ねる

2017年10月04日 06時03分13秒 | Weblog
ある日の食卓での話題に、小学校の理科室のことが出ました。私が学んだ昭和30年代の小学校の校舎には理科室はなく、子どもたちが在学した平成の時代には、専用の理科実験室がありました。そうしたら、老母が「自分が卒業した小学校には理科室があった」と言うのです。なんでも、小学校の二年生くらいの時に小学校が移転改築されたらしく、新しい校舎に引っ越した記憶があるとのことです。

古い校舎は今の動物園のところにあり、新しい校舎はなんとか言う酒蔵が米沢だかどこかに移った跡地に建てられたのだそうな。そこまで詳しく覚えているのであれば、年寄りの錯覚や記憶違いとは言えないだろうと思い、河北町立谷地中部小学校の沿革を調べて確かめてみようと思い立ちました。

残念ながら、WEB には同校の詳しい沿革などは掲載されていないようです。これは、百年史などがあればわかるかもしれないということで、過日、山形県立博物館分館・教育資料館を訪ねました。ここは、旧山形師範学校本館として使われた明治の洋風建築で、国指定の重要文化財で近代化産業遺産でもあり、たいへん静かで雰囲気の良いところです。





学芸員氏に資料の閲覧を願い出ると、ありました! 立派な同校百年史が。



これによれば、明治維新前には色々な藩の領地に分かれていた各村が合併する以前に、まず谷地学校として設立され、河北町への統合合併を先導する形になっていたことが注目されます。そのために生徒数の増加が著しく、明治後期には26学級1,100人を超える大規模学校となっていました。後に南部小学校や西部小学校が分離独立したけれど、児童数はなおも増え続け、昭和7〜8年頃には1,400名を超える状況に至っていたそうです。昭和9年の学校創立50周年を契機として、その前年の夏に校舎の移転改築協議会が発足し、昭和11年10月10日、新校舎の落成式が行われます。

昭和2年生まれの老母はこの年には満8歳。ちょうど小学校二年生にあたり、記憶と一致します。残念ながら、この百年史には昭和の校舎の平面図は掲載されていませんでしたが、昭和41年の理科教育センターの設置に伴い、根太が腐っていた理科実験室と準備室の修繕を行うとともに、継続観察を可能とする教材園を中庭に整備した、などの記載があること、またこの間に校舎の増改築の記録はないことなどから、昭和11年に理科実験室と準備室が存在したことが確認できました。

老母の記憶によれば、近所の子供で利発な子が、今で言う理化学器械店に丁稚奉公をしており、休みになるとガラス製品をお土産に学校を訪れるのを先生がたいそう喜んでいたとのことです。太平洋戦争を前にした昭和10年代中頃の話で、消耗品の補充に苦労している担当の先生の様子がうかがえます。

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窓の外は雨

2017年10月03日 06時03分10秒 | 季節と行事
車でご近所へ出かけ、少しの時間調整でぼーっとしていたら、ウィンドウから見える雨雲がなんとも不穏な風情(^o^)で、昨今の世間の情勢のようでもあるし、一雨ごとに深まる季節の象徴のようでもあるし、カメラを取り出して撮影してみました。ふーむ、「意味深だけれど実は何の意味もない」写真というのはこういうのを言うのだろうなあ(^o^;)>poripori



肥料散布で重い袋を何度も持ち上げたので、なんだか腰が痛いです(^o^;)>poripori

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10月になってアホ猫は

2017年10月02日 06時02分48秒 | 季節と行事
10月になって、朝晩の涼しさが身にしみます。お天気が良い日は暑さを感じることもありますが、風が通り抜けるとほんとに涼しい。我が家の天然毛皮族アホ猫(娘)も、生き返ったように動き出しております。





ネコサフランじゃない点は、当人(猫)は不満らしい(*1)のですが、イヌサフランも咲きました。




これで散布した肥料の3分の1くらいでしょうか。肥料を畑に運び、各樹木の周囲にまんべんなく散布するのに、ずいぶん汗をかきましたが、涼しい気候で助かりました。



果樹園の肥料散布もまずは一段落。後は、10月のリンゴ「紅将軍」を収穫することと、柿の収穫・渋抜き、干し柿作りが残っています。

(*1):イヌサフランはあるのに、どうしてネコサフランはないの?〜「電網郊外散歩道」2014年9月

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