志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

「民衆対権力」に普遍性!沖縄の問題、世界とつながる!山城知佳子の世界

2018-06-01 23:52:40 | 表象文化/表象文化研究会

      (琉球新報 2018年6月1日)

覚え書き:

滅びていく言語の姿を知らないんだよ。小は大に喰われていくのだよ、とXX島出身の詩人はテレビでウチナーグチによる童話の放送に怒りを発する。XX島の人はこのウチナーグチがわからないんだよ。滅びる言語の苦しみ・哀しみがわからないんだよ。なぜ公共放送が一つの沖縄島の言語だけ放送するんだ、と話している。テレビを見ないのでよくわからないが、NHKで沖縄語のプログラム≪物語≫を放映しているのらしい。

つぶやき:

なぜか神里雄大さんのことばが思い出される。「岸田戯曲賞を受賞したことによって自分も権力側になった」ということばである。彼は氷山の裾野の大きさ≪痛み≫を意識しているがゆえに、そのような発言ができるのだろうか。https://spice.eplus.jp/articles/183841表現者ということばを小説家や詩人、芸術家として発言し、発信している人々は、ある面、確かに創造する者の才能や感性、論理の優れた力を持っているに違いないが、あらゆる表現なり創造はまた時代が生みだした≪生み出す≫ものであるにちがいない。誰でも表現者になりえるという思いとは異なりまた表現者を名乗る人々の村(サークル、コミュニティー)がある。存在することの個々の闘いがあり、喜びや葛藤がある。生きることが闘いであり表現であり、それぞれが其々の人生(物語)の主人公であると思うゆえに、飛びぬけて氷山の先端に上り詰める人々(表現者・芸術家・あるいはアーティスト、舞踊家、音楽家)を賞賛しつつも、神里さんの持つ意識は興味深い。権力のありようも多様で、遍在する権力は、存在そのものが他者の犠牲を伴う要因≪構造≫があり、存在することへの贖罪感も負債もなぜかまとわり付いているように思えるのも事実である。それゆえに修道僧のように、ひたすら自らの身体を鞭打つかのように生きる人々の存在もある。

最もサバイバルそのものが厳しいのも事実で、サバイバルにも奴隷のような生存と王侯貴族、富裕層のサバイバルとは雲泥の差があるのも事実で1%と99%の数字が飛び交っている。99%を1%が支配する世界ともいわれる。存在そのものが収奪されかつ誰か(存在基盤のより脆弱な者たち)の収奪の上に成り立つという構造と見なしていいのかー。ピラミッドの重なりもある。大小のピラミッドがあり、重なり交じり合い、そのピラミッド組織のヒエラルキーの中の葛藤や闘いがあり、しのぎをけずり、つまり競争(競合)、妥協、協力、連帯しながら動いている時勢(時流)がある。

物や栄誉、そして富を多く持てるものが権力者であるとも必ずしも言えないところがある。昨今の日本の現象を見ると、倫理のありようや司法、施政のあり方そのものが機能不全に陥っているようで、科学技術や軍事力(原発を含め、核や核を凌駕していく破壊力)のベクトルそのものも常に危機的なバランスの上に存在していることを意識させられる。日本に留まらず、すでにかなたはこなたと、こなたはかなたと結び付いているゆえに、この世界(地球)の出来事は、人類の歴史はこの時空、場にあり続けるのも事実なのだと思える。しかし何事も断定できないゆらぎの中に世界が停滞していることはない。流動性、そうたゆまなく動いているこの地球だということは確かなように見えるのだが、それすらもそう思える主観的な認識ということになるのだろうか。

民衆対権力の構図は民衆対支配層の構図で、民衆の中の権力と権力を受忍する民意もある。権力者の物語に対する民衆の物語があるんだね。暴力の神話体系もある。美醜はどちらにもどこにも遍在している。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。