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島尾敏雄論の方法、清田政信についての対談「Myaku」5比嘉加津夫書評誌

2011-01-19 23:48:03 | グローカルな文化現象
比嘉加津夫の清田論がいいね、と詩人が言ったので、私も読んでみた。清田政信の「情念の力学」を中心に比嘉と樹乃タルオがネットで対談した中身と、『光と風の対話』を中心にして、清田の詩集を松原敏夫と比嘉が対談している。また島尾敏雄の『死の棘』を中心に[島尾敏雄論」を連載した田中眞人と比嘉の対談である。

一挙に引き込まれて読んでみた。清田神話が解けていく時代の到来を意味するのだろう。比嘉さんのセンスの方に傾いていた。そして最も詩人や作家の生きざまの根にあるのがセクシュアリティーとゼンダーのからみあいでもあり、そこから捉えることができるのだと、全くそのことについてことばにも出さないが、詩篇の中の例えば清田が女と寝る詩などは、鮮やかで、そこだけ生きているエロスが感じられる。学生の頃、国文学科の学生と仲良くなって琉大文学の方々の一部とも顔見知りだった。そのメンバーではなかったので、その断片を知るのみだが、川満、新川は羨望の眼差しで見つめる対象であった70年代。清田さんは神のように崇められているような雰囲気だったと記憶に残っている。

松原さんとは一緒にお酒も飲んだ事があった。松本XXさんの現在のつれあいが友人のK子さんでーー。いっしょに一時ルームメートだったS子も国文だった。彼女は大学4年の時、蒸発したのだった。昔を振り返るといろいろな事が思い出される。まるで連想ゲームのようだ。

「思想は人間の幅を狭めていくという矛盾」[清田は眼の人だった」「詩は難しくなければならない」と思いこんでいた60年代や70年代?時代の熱狂が詩をまた頑なに政治や思想にがんじがらめにさせた?!

何か絶対的なものがほしいと彷徨っていた気がする。そして日本と沖縄の二項対立からも抜け出したいと思っていたりした。沖縄から逸脱したい願望の中にあったように思う。

比嘉と樹乃の対談の中で興味をもったのは、「地方語」についてと「翻訳は裏切りである」の項目である。「思えばウチナークトゥバも琉球処分されてしまったと言えなくもない」と今頃言っている。「十分ウチナー芝居の存在意義というか、語りの文化を残すようにしないといけないでしょうね」と今頃言っている。「なまりはアイデンティティー」とも。

絵画論に関しては踏み込みたくない。学生時代や一時期はマメに画廊も歩いたが、昨今はあまり行けないのでーー。油絵を習ったこともあったが中途半端に終わってしまった。しかし絵画集はまめに集めていたのだがーー。

島尾論の対談の中の川崎澄子の存在と彼女と妻ミホに関する比嘉の鋭い指摘・嗅覚のような発言はとても興味深い。『死の棘』は以前読んだ。映画も見たが、松坂慶子のミホは美しすぎた。

夫婦の修羅を描いた私小説だが、関係の淵に漂っている謎・狂気・嘘・美化・諦観の世界はここそこにあふれかえっているのではないだろうか?

偽善と欺瞞の中の囚われ人を生きる。それも枷、そこから飛び出す術はあるか?耐えるのみという残酷さがそこあそこに漂っているーーーそこに希望を見いださないと人は生きていけない。島尾は幸せだっただろうか?小説を書くことによって彼は救われたのだろうか?ミホもまた?ミホをノロとして神聖化する論もある。女は「イエス」であり、「最大不孝者」であるとはかの吉本と埴
谷の説だと紹介されている。しかし小説を読んだのがずっと以前のことだから裏覚えである。何となく女が気の毒に思えた気がする。





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