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志情(しなさき)の海へ

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「空の大学」ー脱構築とは制度の概念が常に問題となる制度的実践である?知・地・血の現在?!

2011-03-06 22:35:00 | グローカルな文化現象
3月3日夕方沖縄芝居女優のお誘いで国立劇場おきなわで、第二期組踊研修生の「花売りの縁」を見た。疲れで途中ウトウトしていたが、研修終了の儀式・祝祭の雰囲気もあり、組踊が人気を得ているのだという空気があたりに充満していた。舞台上の出来栄えはとてもすばらしいとは言えなかったが、そつなくやり遂げたなーの印象である。その中で唱えに伸びが感じられたのは鶴松の西門悠雅、他の面々もなかなか個性的に聞えた。個性的な声は天願雄一さんなどか。地方もまぁそつなく聞えた。第一期生の仲村逸夫や新垣俊道の声音に魅了されている耳にはやはり物足りなかった。気になったのはユネスコが琉球の組踊を文化の多様性に貢献しえる価値があると認知したにも関わらず、「琉球語」はこの組踊研修のプログラムでは「方言」と記されている。独立言語ではなく日本語の中の方言としての位置づけであることが気になった。

なぜ琉球語ではだめなのだろうか?ウィキペディアの『琉球語』の項目では最近の思潮を考慮して、独立言語表記と方言表記の双方の表記になっている。フランス語とイタリア語の間の開きがあるという日本語と琉球語である、ということも確かなようだが、方言表記に拘るのは、日本の中の琉球・沖縄を思考しているのが、国立劇場おきなわのスタンスだという事を明らかに示している。しかし組踊を無形文化財として認知・登録したユネスコは琉球諸語とはっきり踏まえている。そろそろ日本基準を超えて世界基準にそって沖縄側も認識する必要があるのではないだろうか?

3月4日は琉球大4年生の持木良太の名前で「【大学考】イベントー「知とは」共に考えたい」と、見出しになった囲い広報があり、持木君が以前琉球大学の語学カリキュラム改悪に関して率先して学生の立場からクレームをつけていた学生でもあり、彼らのブログやまた学内にテントを張った文化運動に関心をもっていたのでーー【空の大学】というチラシやポスターにも興味があったので参加した。スル―にしてもよかったのだが、彼や彼の仲間が今大学をどう考えているのか、そそられるものがあった。また脱構造主義の権威であるデリダが創ったというフランスの国際コラージュ・プログラムについての映像「哲学への権利」も見たいと思った。その映像の監督西山雄二のトークもあるとの宣伝である。---さて5時から8時までの長いプログラムだったが、学生たちが制度を越えて制度の中でどう新自由主義の中で、つまり社会の有用性を要求されるシステムの中で考えているのか、その辺の彼らの問題意識は分かった。就活で勉強どころではなく、まして所得が低い沖縄で学生の多くはアルバイトに追われている。一部の裕福な学生たちが親が何千万円も送金するような留学や東京などの大学で勉学するのも確かだろう。学問するのに金がないとできないーーそれも奨学金や育英ローンがないといけない現実がある。

国際コラージュが制度を越えたあらゆる知の大学を目指していることは分かったが中心がデリダなど著名な哲学者や高校教員など本職をもつ研究者・教育者が中心で一部外国人も包含しながら無報酬で企画された「空の大学」だということは興味深かった。関わる教員・研究者は個人のキャリア・アップのためではない真に哲学を思考し新しい知の枠組みを追求するという高遠な理念を持っていることがわかった。しかし大学などの既存の制度を壊すことがない大学と社会の狭間の空間という構想は大学のフリンジにいる者から見ると、やはり物足りないシステムに思えた。問題は制度と制度の淵なり歪に落とし込められている人たちもまた包含した知の構築であり、大学内部の閉ざされた機構そのものを壊すべきだと考えるのだが、国際コラージュはそこに依拠していない。あくまで【恵まれた知識人の社会への知の還元】の姿に見えた。内部の脱構築がなされないかぎり片手落ちだというイメージがした。新自由主義にどう立ち向かうか?内部の人間たちの特権を手放すことなく啓蒙的に社会に向かうーー。そこに真実が宿るのだろうか?制度と制度の狭間に視線が向けられない限り、そこに未来を指し示す光は見えない、というのが印象だ!

またインターネットなどによる世界のグラスルーツへの言及などもあっていいと考えるのだが、まったく関係したことばはなかった。場所とアポリアの克服というテーマが浮かんだ。場所の感覚が大事だということもなるほどだと思えたが、今、大学はもはや知の中心になっているのか怪しくなっているのではないだろうか?むしろグローバルネットの中の知の構築や情報の方が圧倒的で、大学を越えた知はすでにネットの世界で膨らみ続けている。ただ資格を取るための専門学校化が現在の大学のありように見えなくもない。そこで真理や正義や自由・平等の追究などは、二番煎じなのではないだろうか?知識人の教育の運営・講義そのものが知的ではなくなった現在である。教育もアウトソーシングし始めた大学は一体どこへ向かっているのだろうか?白けた大学の空気と水。少なくとも持木さんなどは真剣に大学空間の意味するところを追求しているーーー。

イメージとしては境界と境界の間の知の構築なのか?制度を壊す制度?少なくとも既成の制度をどう壊すか、それが問われている。大学は閉鎖的である。決して拓かれた空間ではないという事、がんじがらめの組織・機構がある。それをどう改革できるだろうか?解放空間が可能か?そのために、既得権を手放せるか?自己保身を解き多様な関係性を築けるか?すでに中央集権的なシステム・国民国家の制度内の大学制度であり、果たしてそこから個と個がつなぎあえる「空の世界」が生み出せるか?よほどの脱構築が必要だが、それらの兆しがこの琉球大には見えない。彼らは何者か?何ものでもない!新しい価値を生み出せない!?

3月5日、琉球大の修士論文の発表を一部お聴きして沖縄大学の「琉球と東アジア文化圏をつなぐものーー「自治」と民際学ー」
の講演・シンポジウムに参加した。その中身について印象を書きたいが、大城立裕先生が会場でお読みになれなかった【同化志向を脱けられるか】のエッセイを添付で送ってくださったので、そのエッセイの趣旨も踏まえながら別の項目で書き留めたい。


<写真は琉球大の学生主体の【空の大学】上映&トークイベント>

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