
今日のリハを見てきた。吉田妙子さん、平良 進さんがウチナーグチ・うちなー芝居の指導をされてかつ舞台に出演している。若い現代演劇の担い手が折口の「執心鐘入縁起」を演じながら組踊を語り合う。その中に実際の「執心鐘入」も挿入して「縁起」を最後のクライマックスに至るまで演じる構成である。てだこ小ホールはなかなか小さなオーケストラ劇場で実験的な劇の上演にあっている空間。そこで実際に実験的な現代劇が組踊とうちなーやまとぐちチャンプルーの沖縄芝居を上演ということである。
以前「国立劇場おきなわ」で上演された折口の「執心鐘入縁起」を見た。なかなかセンシュアルな美を感じた舞台だった。佐辺さんの譜久村里主役が美しかったと記憶している。大和の姫に恋焦がれ琉球に戻ることに躊躇する里主の心が描かれていた。大大和に恋焦がれた琉球士族のこころの葛藤が言葉の二重性ともからんで、興味深かった。言葉=身体が疎外され、琉球人の身体=日常を越えられない時、美しい里主がとった行為は絶望の中で死を選んだのだった。あるいは美(幻想)との心中だったのかもしれない。
さて、通しリハを見せていただいた。2時間5分が長いと感じたのは、挿入部分、つまり現代演劇人によるリハの場面の「組踊」への思い入れが饒舌になり説明的になったとろこにあると見た。それぞれの組踊や朝薫への言及、それと現代の沖縄の芸能界(演劇界)への現代演劇人からの鋭い批評の眼差し、そのことばである。カリカチュアすることば、また一括交付金に群がるアリとキリギリスか知らないが、いきなり上から降ってきたお金による俄かな芸能復興という現況がまた捉えられている。そうした眼差しは田原さんの演劇人の矜持でもあろうか?そこは実際の犬飼さんのお名前で登場する犬飼さんの経験則からくることばやセリフにも現れている。そこはいいと思う。でも饒舌と説明の多さはもっとそぎ落とす必要があろう。その辺は田原さんの「組踊」に対する距離感の取りにくさが感じられた。
削ぎ落とされていくに従っていい舞台に仕上がることが予想できる。幸喜良秀氏の沖縄芝居の演出がドンドン変化していくようにー。田原さんのセンスを幸喜氏の継承者として期待している。
いいところは冒頭の年を重ねた朝薫役の平良進氏の語りである。物語の終わりにもまた登場する朝薫のセリフが見事に物語を収束させている。なめらかに聞こえてくるセリフがいい。安堵させた。100年も1000年も永劫に琉球の文化の肝心の糧となるであろう組踊の賛歌、エールで閉じている。そこはいいね。しかし、この「縁起」は日本語を生かし、ウチナーグチとのチャンプルーになっている。それゆえに実は語りが難しいということが逆に迫ってきた。「尚徳と金丸」のセリフの方が実は長台詞でも耳に聞こえやすかったのだ。チャンプルーのむつかしさがどうこなれていくか、今後の力量がまた問われるね。
現代劇の中に芝居と組踊を取り込んだ実験的作品だが15分ほど短くしたらもっとスピード感と面白みが出るのだろう。しかし、大勢の観客の前で彼らはまた、熱気にあふれる舞台を創りだす可能性はありえる。本番が楽しみである。
朝薫(平安信行)、譜久村里主(金城太志)他演出(新垣晋也)姫(金城理恵)里主(犬飼憲子)、他、配役の名前がないのがチラシの問題かな?誰がどの役柄か見えないチラシである。Theatre TEN Company(仮称)のチラシは役柄をはっきり紹介しないのが個性なのかな?観客にとっては不親切に思える。誰がどの役なの?見てのお楽しみではなく、パンフとかチラシにはっきり紹介してほしい。(要望)
挿入された「執心鐘入」には3人の小僧たちは割愛されている。座主と鬼女との闘いが象徴的に見えた!その挿入があったせいか、時間が伸びたようにも思えた。もっとカットしていいのかもしれない。台湾の歌劇を見ての印象だが、カーテンコールは余裕をもち、観客のこころの余韻に合わせてほしいと思う。つまりすぐ緞帳を下げないでね!