志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

18日月曜日午後「亀島奇談」(又吉栄喜作、伊波雅子脚本、藤井ごう演出)を観た!小説そのものの鋭利さのない喜劇タッチが、ちょっともの足りなかったね!

2023-12-20 12:51:53 | 沖縄演劇
小説の書評を山里勝己さんが、すごくいい文章で紹介しているが、又吉栄喜さんのファジーが気になる。辺野古や与那国、八重山などの自衛隊基地などを意識した作品だが、精神を屹立させる鋭さが感じられない。それが脚本化された舞台にも反映されて、喜劇なのかリアルなのか、曖昧な結果を生み出している。
 正直伊波雅子さんの脚本は亀次郎を登場させ、亀次郎の精が実の母親として登場させたり、奇想天外な脚本作りだが、小説が弱いので、現在沖縄の風刺にしても、だから何なの?と思ってしまった。
 インターネットでは小説のあらすじが読めるし、読者リビューも出ている。
幻想的な点を評価した評価があったり、逆にやはり鋭さがない点が指摘もされている。すでに辺野古の海は埋め立てられ、それを戯画化しているのかもしれないが、胸に突き刺さってくるものが弱い。目取真 俊さんのブログが突き出す現実にいつも「うちあたい」しているので、又吉栄喜の小説は牧歌的で、そこから喚起させるものが弱い。
 伊波さんは喜劇タッチで脚本にしているが、どうも迫ってこない。演出の藤井ごうもいつも似たような手法の演出で、ひと昔前の「歌声喫茶」のノリで歌声が響く舞台。ライブ感覚はACOの特性。まぁ、太陽劇団の「金夢島」の演出手法をまねていたのが、良かった。あのウミガメになったお母さんと和真が青いクロスの海原を亀島にわたるシーンは良かったね。
 しかしなぜ、役者の発声が叫びのように聞こえるのだろう。自然の語りではないのが、耳障りに聞こえてきた。一番真ん前に観ていたわけだという事でもなさそうだ。

 しかし、自治会長の立候補挨拶の場で国家斉唱がなされ、保守の論者が語る。彼女は与那国島の女性が「祖国防衛の御役に立てて光栄です」と語ったと語る。内閣総理大臣の挨拶さえ披露される。どうも赤嶺島は次の自衛基地のための埋め立て候補なのらしいことが暗にやはり戯画的なコミカルなタッチで演じられる。「ニコニコ笑いましょう。気のもちようが大事です」と語る金城笑子の演説、お笑い漫才出身の城間やよいが演じるのだが、その極端さは、笑えて、笑えない。この場面などはシニカルな、アイロニーを込めた描写なのだろうけれど、台湾有事にのせられていく沖縄の、先島の状況を暗示しているのは確かだ。反対だけしたら、グチだけこぼしたら幸せは指の間から落ちていますよ。笑うから幸せの私たちなのらしい。

 二部は、亀次郎に乗り移った和真の母親が登場する幻想的な場面だが、海を泳いで亀岩にたどり着く和真と亀次郎。亀岩は何千年も赤嶺島を見守ってきた。しかし岩だから自らは守れない。

総理大臣になって亀岩を守れ!と亀次郎の精の母親は激を飛ばす。自然には自然の領分がある、人間が踏み入れない自然の領分を守れなくなった人間社会。

「人間が立ち入れない自然の領分がある」。このメッセージはいいね。しかし、現実は自然の聖域もどんどん破壊していく。

ナビ―の登場はいい場面。ナビ―が語る。亀岩しんかだった茂兄ーさんの孫なのだよあんたは~。亀岩の精だったおじいさんの~。亀岩の中に入ってその声を聴いて、みなにお告げをする役割だった。

亀岩は島の大事な守り神だよ。爆弾一つ落とされなかった。
亀岩しんかは亀岩に感謝しているんだよ。満月に岩の上にしんかが集まって歌ったり、踊ったりした。今は平和より自然よりお金が大事らしいね。

亀岩は生きています。亀岩を守ることが、この島を守ることです。赤嶺島の海を埋め立ててはいけません。亀岩しんかとして埋め立てを止めましょう。と和真は訴える。

埋め立て反対はどういう気?
埋め立ては決まっていないよ。
条件付き埋め立てだよ。
自然だけで食っていけんよ。
自然はすばらしいね。
島に落とす金はビールと沖縄そばだけ。
自衛隊だろうが、基地だろうが、受け入れる他ないでしょう。
国の防衛に役立てばいいじゃない。
この島にお前の居場所はないと思え。

亀次郎のお母さんが歌う。もし、総理大臣になったらこの亀島も赤嶺島も守ると~。埋め立てはいけません。抒情的な場面だ。総理大臣じゃないけど、できることがあるはず~。海があるから島なんだよ。

まっすぐな仕事はまっすぐに手に入れる。
小さな島の小さな選挙だった。29票対8票。

赤嶺島で和真は漁師になる。
海の中の世界は本当にある。
亀岩にも会いにいける。
神岩しんかのお前が亀岩を守るというからもう戻る。と亀の精の母さん!

海の男になる和真だ。
年間3000万円の軍用地の不労所得で働かず生きてきた若者のイニシエーションになっている物語だ。自分探しの旅の果てに海の男になる青年の物語だった。小説では、自治会長ではなく亀の精となること、サンゴの海と一体化することこそが和真に与えられた使命になっている。
なるほど!

ほのぼのと舞台は幕を下ろした。
叫びのような台詞がやはり耳に痛かった。
波の音はいいね。
メッセージは海を島を岩を守れ!自然を破壊しては元も子もないですよ!
拍手はやまなかった。
しかし、ウチナーンチュの思いは総理大臣には届かない。
自然をまもろう。聖域を亀岩をまもろう。の寓話の前の現実の壁は重装備だ。

演劇には物理的な力がある。この演劇を観て、又吉栄喜の小説を読んで、
社会は動くだろうか。心の浄化作用で終わるのだろうか。命の糧になるだろうか。なるかもしれない。しかし現実は牧歌的ではなく、寓話の世界を超えている。どう、向き合えばいいのだろうか。問われている。
 歴史は繰り返すだろうか。知念正真は「人類館」で歴史は繰り返すとメッセージを送った。暴力装置の実態も開示した。人間が立ち入れない自然があるとのメッセージはなかった。しかし戦争は人間の命も島も自然も破壊する。
琉球アニミズムの世界に自然との融合がある。そこに未来への可能性はあるだろうか。文明の利器は人工的に自然を破壊しまくっている。ソーラーエネルギーをもとめて、山が切り崩されている。矛盾やアイロニーが取り巻いている。
台湾有事のあおりで、防波堤としての軍事要塞化は現実になされている。島を守りましょう。そのメッセージは弱い。
 


<書評>『亀岩奇談』 自然巡る21世紀沖縄の寓話
公開日時 2021年08月22日 00:17更新日時 2021年08月22日 13:44(琉球新報)

本書には表題作「亀岩奇談」と掌編「追憶」の二篇に加えて、作者の「まえがき」と大城貞俊の「巻末解説」が収められている。

 表題作「亀岩奇談」の主人公和真は浦添市に住む軍用地主。両親が残した土地から年間三千万円余の収入があるが、21歳にして生きる意味も気力も喪失している。その和真が、弧島「赤嶺島」の自治会長選挙に立候補するところから物語が始まる。

 「人口六百二十三人」の島の選挙。怪しげな人物たちが和真の周辺で蠢(うご)めいている。和真は、自分を推しているのが「辺野古の海を埋め立てている政党と同類」であることを知らないわけではない。巨岩「亀岩」も含めて、島の広大なサンゴ礁を埋め立てることも誰かが企(たくら)んでいるようだ。対立候補からは、島人は「金のためには海はもちろん心の埋め立ても辞さない」と言われる。だが、「ボス」たちに翻弄(ほんろう)され、和真は逡巡(しゅんじゅん)するばかりだ。かくして架空の島「赤嶺島」は戯画化された21世紀沖縄の縮図となり、「亀岩奇談」は聖と俗の境界で語られる寓話(ぐうわ)となる。

 和真は「赤嶺島の大切な自然を子や孫に残そう」という公約を掲げる。しかし、このスローガンは対立する双方が共有するものだ。この膠着(こうちゃく)をどう超えるか。亡き母から聞かされていた「亀岩」が心の中で聖なる存在として立ち上がり、和真の世界が変わり始める。

 事の核心は、なぜ自然環境がたいせつなのか、なぜ海を生かさないといけないのか、なぜ「亀岩」を破壊してはいけないのかという問いであり、その解を求めて主人公はもがき続ける。アメリカの詩人ウェンデル・ベリーは、「火を買うために人は世界を売る」と書いた。「火」は現代文明、そしていま、世界が燃え、「心の海」が埋め立てられていく。

 いまだ到達し得ていない世界を想像し可視化しようとする結末の展開は力がこもっている。亜熱帯の孤島を舞台に、魂の震えを語りながら普遍へ突き抜けるために、小説はどのような言葉を鍛造すべきか。人間存在のありようを根源から揺さぶるかのように、言葉が白熱していく。

 (山里勝己・名桜大学大学院特任教授)




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