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芸能学会会長・三隅治雄氏演出、池宮正治監修:GIKANの現代組踊「天飛衣」は失敗作?!

2011-07-11 08:19:05 | Theatre Study(演劇批評)
7月10日、期待していたGIKANさんの作・構成【天飛衣】はかなり不完全な作品表象だった。「能、羽衣と琉球羽衣伝説」とサブタイトルのついた舞台は、額縁舞台にお能の三間四方(?)の様相を施し四隅に柱が立った。それが琉球羽衣の舞台設定ではその柱は取り払われた。どことなくぎこちないコラボレーションだった。観劇の後何人かで批評をし合ったのだけれど、あまり反応はよろしくない。「がっかり」の声がどこからくるのか?新しい試みとしてのお能と琉球羽衣のコラボレーションだが、「抽象と具象の合体にまず無理があるでしょう」とは、古典音楽研究者の弁である。氏も舞台を見ながらこまめに問題点を書きこまれていたが舞台がはねた後で少しお話した。また劇作家も県の文化関連局の方もあまりいい声は聞こえてこなかった。アンケートがどうだったかわからないが、再構成の必要があるのだろう。

まず第一の問題はすでにお能の羽衣と琉球古典組踊「銘苅子」の共演を二回ほど見た目には、お能の羽衣の舞姿や音曲(唱え)が特別なものには感じられず、意図的に抽象的なお能の天女の舞台姿を前後に挿入しての【天飛衣】の物語(現代組踊)とのコラボは物語の展開の不自然さゆえもあって、ぎこちない思いを残した。

天女が下界の美しさに魅せられて降りてくる。松の木に羽衣をかけて浴しているとその羽衣を漁師(田名之子)に奪われる。その舞台設定での佐辺良和の麗しい天女姿はなまめかしく神々しく素敵に見えた。銘刈子の天女と異なる舞踊の所作だ。その天女の羽衣だけ田名之子は取って天女の同じように神々しい衣装を残したままで立ち去った。おかしいですね。光輝く天女の衣装を持ち帰らない。

また天女はなくした羽衣を探し求め、それが漁師の家にあるのを突き止め「たんでお助けに戻ち給れ」と頼むのである。その天女の願いに漁師は答えることなく「--いと不思議でむぬ我が宿に入り召され しばしくぬ間ぬなりゆちゆ語り 」そして肝に染まった思いを語り出す。その天女と漁師のかけあいが、「銘苅子が口説き落とすほどの台詞の味わいが全くない」興覚めである。

男は二年前に病死した妻が残した男女二児を育てていて、天女にぜひ子供たちの母親になってくれるよう頼む。「里になりら」で彼女はいつのまに羽衣のことは反故にされて留まり、男の妻になり子供たちの母親になる。その辺の実の子供ではない子供への愛情という点で銘苅子と大分差異がある。実の子供でない子供たちという設定の意味は何だろう?あくまで天女をこの世の女ではないことを強調しているようにも見える仕掛けか。彼女が慈悲深い天の女というイメージも浮かび上がる。

まるで普通の母親のような雰囲気の天女と子供たちとのわらべ歌と円陣を組んだ踊りはほほえましいが、例の羽衣の在り処を伝える歌ではなく、極めて明るい現代的な「あかなーのわらべうた」である。

物語の展開の面白さは次の場面か。この村を領有する殿さまが漁師の美しい妻の事を聞き及んで側室にしたいと申し出る。この村の将来もこの申し出でいかんによるという際どい決断を責められて漁師は天女に事実を告げ、親子4人は村から逃亡する決断をする。その前に浴びたいので、決してその姿を見ないでと云う約束を言い渡す。浴びる際に姿を見なければ妻になっていいと漁師に告げていたことばが繰り返される。そして漁師は妻の背中を流してあげようと立ち入った途端、光にさえぎられる、ように見えた。そして天女は母を恋したう子供たちや漁師を後に残して天に帰るという物語である。

そしてお能の羽衣の天女の舞いが舞台を締める。天女は天女で下界の女ではないという印象を強烈に植え付ける。しかし「天飛衣」のどこか人間臭いイメージとお能の天女の落差にあぜんとするのでもなく、この羽衣に関する限り、お能の舞いを中心とする美よりも人間臭い銘苅子の方の物語性の膨らみの方に親しみをわく感性にはこのコラボのミスマッチのような始まりと終りに、ただ少し興ざめの気持ちが残った。というのが正直な思いである。

GIKANさんがこのコラボを思いついた動機はなんだろうか?

「能と組踊の比較など浅はかなレベルのことをやろうとしている訳ではない、むしろ日本の伝統芸の中に生きるスピリット、羽衣伝説の中に生きる日本人の精神的よりどころとするやさしさや、人の世の厳しさ、虚しさは何か、共通するものはないかを一つの舞台を通して考えたいと思った」と書かれている。そして「現代と古代を大和芸能と琉球芸能を共時的に舞台設定することで、複眼的に観賞していこうとするものである」「沖縄の羽衣伝説を新作の日本芸能の一つとして格調高く、雅に表現する手段は無いのだろうか」とーーー。

おそらく氏の志は情熱がたぎっている。しかし物語そのものの展開や細部の選択に新しい羽衣伝説としての魅力が伴っていないという印象である。浴びる姿を見てはいけない。なぜ?なれら、は漁師と天女が夫婦になったわけである。しかし彼らが育てるのは先妻の子供たちで疑似家族である。木下順二作【夕鶴】の鶴の恩返しのような雰囲気もあるが、自分の羽で機織りする鶴の姿と浴びる天女の姿との落差がある。それに天女は羽衣を盗まれて漁師といっしょになったのである。人間のエゴーに天界の女が寄り添った形である。そこには母のない親子への憐憫の情がある。しかし女としてのsexuarityが曖昧のままに浮上する。天女は下界の女とは異なっていたという、境界があるのかもしれないが、母と子の情愛が物語の鍵になる「銘苅子」との違いが際立つ。台詞の味わいもあまりないように思えた。

物語の展開と台詞の味わいに問題が残るようだ。そして天飛衣の天女がお能の仮面をかぶった天女の抽象美とはやはり異質な世界だということがくっきりと焼きいついてきますね。

英語訳の台本もあり、字幕に英語がついたのは興味深かったが、しなさきはLOVEである。

しかしたかえすぎかんさんの沖縄芸能へのパッションは並大抵ではないことが分かった。実際のお能のプロのみなさんを招聘されてのコラボレーションは大変なご苦労があったと推測できる。そのパッションに拍手!音楽には尺八や十七弦などこの間このような舞台で聞いたこのない音色で楽しませてくれた。謝!

ところで劇場内で販売されていたGIKAN氏の「親雲上八太郎と玉那覇クルルン」の現代組踊②の台本は、はるかに面白かった。10月29日、30日に大劇場で上演されるという。作・構成・演出はGIKANで演出助手は嘉数道彦である。こちらの方が倍以上面白くなりそうである。なお、監修は田中英樹さんである。どちらかというとこの完璧なウチナーグチ台本は、ウチナーシバイである!田中英樹さんの沖縄芝居実験劇場を見た論評は信頼している。氏の目線はいいに違いない。


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