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琉球の民は国語難民なんだよ、のことばにハッとする!
「琉球の民は国語難民で難民ゆえに人類館になった」と、詩人与那覇幹夫が語った。
文化人類学と言語学が共同で研究する言語学が究極のものになるとも言った。
また宮古・八重山の古語が日本上代を照らしている。その照り返しで宮古・八重山言語が照らされている。このことばの照り返しに差別はない。
ともーーー。
一つの古語が自分たちの遺産になる。
ことばは存在論そのものだよ。人間の魂の音韻化がことばである。美しいもの汚いものを併せ持つ、そこは言語学者の想像を絶する所でことばは怖い。言語学者は端っこで佇んでいたらいい。
なるほど!ことばの問題を話すと議論になる。宮古語は沖縄語に襲われるんだよ、ともーー。
高校生時代に友人の家での小さな宴会の席で宮古出身と言っただけでその父親にテーブルをひっくり返された痛い・悲しい体験が凝固した与那覇の詩作の核にあるようだ。
沖縄内の差別の眼差しに敏感に感応する。それが青春時代の生々しい体験に根差している事、人は己の体験から逃れられない。
言語学者は実際のナマの体験をどれだけ内に込めているのか?との批判の眼差しもある。
単純に少数言語の中の突出した言語の危機的な状況をどうにかする必要があるのよね、と切りだしても、そこには難しい問いが発せられる。
さて?!宮古・八重山、国頭の古宇利(こおり)島などの言語の類型などのことなど、また首里・那覇語の差異など、言語の問題は、一筋なわではいかないようだ。単純に組踊・沖縄芝居など芸能の中の言語(琉歌も入る)の保存・継承・発展と唱えても、日常の中にどれだけ琉球語が取り入れられるのか、言語学者の課題は大きい。
国語難民が難民ではなくなる方法論?のありかはどこ?
ヒントとして与那覇幹夫が語ったのは「琉球シャーマニズムのように言語シャーマニズムを目指したらいい」という事だった。つまり「それぞれの言語は神の依代、風土の依代」という考えである。アニミズムが理想とすると言語アニミズムもその通りになる。それぞれの神を尊重するのだから、そこには差別がなくなる、何かを何かの下位に置くことはない、と。それも理想なのかもしれない。
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琉球語をどう捉えるか、今ごろとても興味を持っている。
別のブログに書きこんだことだけれどもことばに関して、いろいろと論じ合ったことについてもう少し書き込みたいが、今は時間が惜しい。詩人との論議はいつもあまりかみあわないが、切実さがこもっているのは事実だ。宮古人の感性・思いの奥に到達できかねる思いもある。日本の古語であるとの照らしに照り返されるという論も納得はいっても、一連のユネスコが認定した危機言語との兼ね合いの中における問題は、中央言語に思える首里・那覇言語もまた危機をはらんでいるという事の切実な問題がまずあるのではと、考えている。
<写真は吉田妙子さんと玉木伸さん、7月12日のリハにて!今女優の迫力に目を見張っている!おそらく媚びた演技をするようになったXXXXさんより、吉田妙子さんの演技には、体当たりの娼婦も演じてきた女の魂が宿っている!お楽しみに!7月17日は【「花染ぬ手布」ー遊女(ジュリ)の表象】が、国立劇場おきなわ小劇場であります。チケットは安めで2,000円!当日2,500円、夕方6時半開演!連絡090-1948-8924(ウチナー芝居「演」)&090-4570-7549(高江洲)
沖縄タイムス、琉球新報は共に取り上げてくれた。謝!長堂英吉さんが主催する「南濤文学」は20枚の券を購入!吉田妙子フアンは結構いるのだと感心している!謝!>
作成者 なさき : 2011年7月13日(水) 11:39
琉球の民は国語難民なんだよ、のことばにハッとする!
「琉球の民は国語難民で難民ゆえに人類館になった」と、詩人与那覇幹夫が語った。
文化人類学と言語学が共同で研究する言語学が究極のものになるとも言った。
また宮古・八重山の古語が日本上代を照らしている。その照り返しで宮古・八重山言語が照らされている。このことばの照り返しに差別はない。
ともーーー。
一つの古語が自分たちの遺産になる。
ことばは存在論そのものだよ。人間の魂の音韻化がことばである。美しいもの汚いものを併せ持つ、そこは言語学者の想像を絶する所でことばは怖い。言語学者は端っこで佇んでいたらいい。
なるほど!ことばの問題を話すと議論になる。宮古語は沖縄語に襲われるんだよ、ともーー。
高校生時代に友人の家での小さな宴会の席で宮古出身と言っただけでその父親にテーブルをひっくり返された痛い・悲しい体験が凝固した与那覇の詩作の核にあるようだ。
沖縄内の差別の眼差しに敏感に感応する。それが青春時代の生々しい体験に根差している事、人は己の体験から逃れられない。
言語学者は実際のナマの体験をどれだけ内に込めているのか?との批判の眼差しもある。
単純に少数言語の中の突出した言語の危機的な状況をどうにかする必要があるのよね、と切りだしても、そこには難しい問いが発せられる。
さて?!宮古・八重山、国頭の古宇利(こおり)島などの言語の類型などのことなど、また首里・那覇語の差異など、言語の問題は、一筋なわではいかないようだ。単純に組踊・沖縄芝居など芸能の中の言語(琉歌も入る)の保存・継承・発展と唱えても、日常の中にどれだけ琉球語が取り入れられるのか、言語学者の課題は大きい。
国語難民が難民ではなくなる方法論?のありかはどこ?
ヒントとして与那覇幹夫が語ったのは「琉球シャーマニズムのように言語シャーマニズムを目指したらいい」という事だった。つまり「それぞれの言語は神の依代、風土の依代」という考えである。アニミズムが理想とすると言語アニミズムもその通りになる。それぞれの神を尊重するのだから、そこには差別がなくなる、何かを何かの下位に置くことはない、と。それも理想なのかもしれない。
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琉球語をどう捉えるか、今ごろとても興味を持っている。
別のブログに書きこんだことだけれどもことばに関して、いろいろと論じ合ったことについてもう少し書き込みたいが、今は時間が惜しい。詩人との論議はいつもあまりかみあわないが、切実さがこもっているのは事実だ。宮古人の感性・思いの奥に到達できかねる思いもある。日本の古語であるとの照らしに照り返されるという論も納得はいっても、一連のユネスコが認定した危機言語との兼ね合いの中における問題は、中央言語に思える首里・那覇言語もまた危機をはらんでいるという事の切実な問題がまずあるのではと、考えている。
<写真は吉田妙子さんと玉木伸さん、7月12日のリハにて!今女優の迫力に目を見張っている!おそらく媚びた演技をするようになったXXXXさんより、吉田妙子さんの演技には、体当たりの娼婦も演じてきた女の魂が宿っている!お楽しみに!7月17日は【「花染ぬ手布」ー遊女(ジュリ)の表象】が、国立劇場おきなわ小劇場であります。チケットは安めで2,000円!当日2,500円、夕方6時半開演!連絡090-1948-8924(ウチナー芝居「演」)&090-4570-7549(高江洲)
沖縄タイムス、琉球新報は共に取り上げてくれた。謝!長堂英吉さんが主催する「南濤文学」は20枚の券を購入!吉田妙子フアンは結構いるのだと感心している!謝!>
作成者 なさき : 2011年7月13日(水) 11:39