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志情(しなさき)の海へ

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「文化遺伝子」という言葉を始めて聞いたのはある詩人たちの「詩の朗読と対談」の会でしたね!

2011-12-07 10:58:42 | グローカルな文化現象
                      (文化遺伝子が脈打ったエッセイ集)

高良勉さんの『魂振り 琉球文化・芸術論』という御本(氏のサイン入り)に目を通した。自分の関心のある章「琉球文化と日本文化」「ウソと無恥の日本文化・思想」「「群島論の可能性の交流へ」「「岡本太郎『沖縄文化論』を読み直す」など、丁寧に読んだ。頭の整理ができる、いい文章である。

沖縄の文化的知識人の思潮の根にあるものを再確認できる。これは、この間高良氏が新聞などに掲載した文章・エッセイを冊子にまとめたものである。川満信一、仲里功さんが新聞にすでにいい書評を書いている。

帯に「先住民族と交流することによって先住民族文化のもっている<文化遺伝子>と<原種文化>の価値を知るようになった。これらの先住民族文化は、侵略と支配、差別、抑圧の長い歴史によって『滅びゆく民族』と言われながら、多くの先人たちの血の滲むような努力によって、今日まで生き延びてきた。先住民族文化の、<文化遺伝子>のもっている抵抗力や生命力のエネルギーは、実にすばらしいと言える。」と紹介している。

高良氏によると【文化的遺伝子〗という概念で論稿を発表したのは1996年の事だという。(「神奈川大学評論」第25号)。そして琉球大学英語英文学科時代の、私の尊敬してやまない恩師・米須興文先生から多大な知的インパクトを受けたと、高良氏はまた書いている。不思議に思ったのは、「文化遺伝子」という五文字が私の頭にインプットされたのは、高良氏が論稿を書いた数年以上も前のことだという事である。


確か、那覇市の画廊喫茶「さえら」で詩人仲里友豪と与那覇幹夫の詩の朗読会が開催され、朗読後の対談の中で与那覇が文化遺伝子について語っていた。与那覇は確か、「人間の経験や体験は蓄積・堆積され、遺伝子のように人類史を構築していく。人間の経験は、次世代の中に遺伝子のように構築されて人類の進歩がなされる。人類は身体の中に体験・経験を蓄積するのであって、それが思想も含んでいく。身体の中に駆け巡るように蓄積されると、これが文化遺伝子になる」と話していた。DNA(遺伝子)の研究やその文化的影響についてはすでに研究書があり、日本の思想界に大きな影響力を持っている吉本隆明も著書の中で触れていたとおぼえている。ATSLウィールスによる人類の歴史の考察や人骨による精密な研究も盛んな現在、先住民族ゆえに文化遺伝子という事ではなく、どの民族もそれぞれの文化遺伝子を有しているということである。そして共通するのは言語はその言語を話してきた人々にとって魂そのものであり、大城立裕氏が話したように、自らの言葉を失うことは自らの魂の喪失に他ならない、と。

ところで与那覇が【文化遺伝子】と話した背景には、詩集【赤土の恋】そのものがその所以を語っている。
一篇の詩を見てみよう。


 ≪死骸(みいら)の海≫

  青の海に 珊瑚虫が群れて 億の億の親の死骸(しがい)を その子が棲み家にして またその子が父祖の死骸に絡み
  死骸(みいら)となり 億年の時 大洋のうねりの中に水漬けにされ 化石(いし)となって そいがこの島なん

  隆起珊瑚礁ゆうてるけれ 虫たちの死骸が重なり合(おお)て 島となった 恐ろしや 気遠く 眩むほんどの
  虫たちの死骸の山なん 島となるほどの 死骸(しがい)のね
  そいにしても 億の億の虫たち 何処からやって来たんじゃろ
  
  青の精ん魅入られて 青の魔性ん魅入られて 惑わされて来たんじゃろうか そして化石(いし)となったね
  そん虫たちの魂(たましい) 何処へ行ったんじゃろうか 成仏でけずに 今も海の中 彷徨っているんじゃろ

   ほんに
   あの天の 空ん青
   あん海の 海ん青

   青瀞(おおとうるー)とね
   
   ああ、あんなん澄んで 魂吸われるごとなん あれ虫たちの霊(たましい)の色じゃろか
   虫たちの精霊が群れて
   海ん青が深まって
   空ん青が冴えて
   仏葬華が あんなん赤いんか
   仏葬華ね

   あかばなの 赤が風に揺れるん
   魂 風に揺れてるんよう

   (もっと続くが以下省略します!)

琉球王府時代人頭税で差別を受けた宮古島出身の詩人与那覇のスケールの大きな自然観・宇宙観がその詩編には溢れている。その詩を読むと、延々とこの地球、人類が営んできた歴史の推移が感じられる。高良氏が先住民族と一色のイメージで沖縄を表象する時、与那覇幹夫は琉球王国、そしてそれ以前の琉球弧の魂の血の叫びをもって詩の中から立ち現われるかのようである。その詩編の中から「文化遺伝子」ということばが自然に飛び出してきても違和感はない。しかし、借り物のような高良氏のことばからは単に知識人の論文のような匂いがするだけである。一篇の詩編には「かなわない」ことばの力がみなぎっている。そのことばの力とは何だろう?

沖縄の新聞での書評も含めて、ことばの概念がかすめられた言説で固められ、一人歩きしていくということへの「憂いと危惧」が漂ってくる。

文化遺伝子と念仏のように唱える時、与那覇幹夫の「死骸(みいら)の海」を共に味わってほしいネ。

貧しい詩人の詩編の中に真象(?)の恐ろしく美しいイメージが宿っていることに驚かざるをえない。




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