精力的に頑張っている姿は頼もしい。文化史として沖縄芸能を捉えていることは興味深く、大衆演劇の定義も意表を突くもので、おそらく賛否があるだろうと推測する。
前提条件の沖縄大衆演劇の定義は、公儀の沖縄芝居と狭義の沖縄芝居に分け、冊封使節を歓待する目的で誕生した組踊、ならびに端踊を広義の沖縄芝居とし、御冠船芸能が歌舞伎や西洋演劇の影響を受けつつ商業演劇としての独自の発展を遂げたものであるから、組踊や琉球舞踊のあゆみと分けて分析や考察を行うことは本質を失うことにつながり極めてよろしくない。と書いている。演劇はもともと総合芸術ゆえに、もちろん、歌舞音曲は無視できない。無意識の共同性が浮き上がるトータルシアターである。
沖縄芝居が組踊や端踊を母体に時代の新しい波を受けて誕生していった過程はその通りだとしても、広義の沖縄芝居として組踊、端踊を定義することに、違和感は覚える。
伝統芸能、歌舞劇として組踊を琉球演劇(伝統沖縄演劇)で総称しても、沖縄芝居で括ることは、どうなのだろう。沖縄芝居という四文字の登場も近代の産物であり、当初踊りだったのだ。
また単純に西洋演劇の影響を受けつつと書いているが、東京、大阪、台湾などで演じられていた日本バージョンの翻案された西洋演劇を媒介にして沖縄に入ったものであり、直截に書いてしまったらいかにも直接西洋演劇が近代の沖縄演劇に影響を与えたようなニュアンスに感じる。
この研究ノートは面白かった。諸相をかいつまんで紹介した様相で、もっとディテールが埋められるべきだろう。実はネットで紹介されているスライドの方が分かりやすい。↓以下に貼り付けた。
沖縄の大衆演劇=沖縄芝居や舞踊などがどう、世界のウチナーンチュだけではなく奄美や日本本土の沖縄人に受容されていったか、の360度ぐるりと見回す視点はユニークで面白いが、真喜志康忠氏は、「沖縄芸能なり芝居が魅力的だったら、彼方から、つまり外から沖縄に鑑賞にくるはずだ」が持論の方だった。真喜志氏の視点もまた理があると考える。
ハワイや南米欧州と外地で琉球芸能を披露してきた人々の痕跡はしかし異文化接触の事例として、また海外にわたっていったウチナーンチュの痕跡をたどる点では興味深い。
表記として組踊も沖縄芝居も沖縄方言で進行するなどと書いているのは、もう少し掘り下げる必要があるね。ユネスコの組踊の定義を吟味してほしい。古語と方言の差は~?表記で沖縄方言がいつのまにかウチナーグチになっていたり、一貫性がない。
グローカルな世界とのコンタクトゾーンの中の沖縄芸能の諸相をかいつまんで紹介しているが、研究ノートがしっかり論文になった時また読みたい。表層的に諸相の現象の動きを追って書いている様が見て取れる。面白いのは面白いけれど、LGBTへの言及は、ある面、アメリカではやっているキャンセルカルチャーに行きつく可能性もありえそうで、Woke批判についても考察してほしい。字幕や手話に関しては多言語機能を導入するなど、それはすでに欧米で施行されている。この流れは踏襲したい。
それから彼女の芸能のジャンル分けに違和感を持っている。芸大の某教授の分類を踏襲しているが、女性芸能者の歴史を無視している。乙姫について論文を書いてきた彼女が根の部分を無視している。