金城芳子:私もね、どうも先祖はジュリだったらしいね。今ではジュリときくと、売娼婦みたいに思われて粗末にされているけれど、山里永吉もジュリの子孫ですよ。そして勉強して功を当たってユカッチュ(士族)になったんですよ。私の場合は、元首里市長で、日本復帰運動の一匹狼といわれた仲吉良光とうちの母とはいとこになるんです。あの人のお母さんは正妻の子、私のおばさんはジュリとの子であるから、血筋的にはいとこになるらしい。
また、うちの飛岡の叔母さんは辻生まれでね。うちのお母さんは正妻の子、その伯母さんはおじいさんとジュリとの間の子であるわけ。その人は、寄留商人の飛岡に嫁いだのです。とてもスグリムンで料理も上手、チュラヌヌ(美しい布)も織っていたよ。どっかの祝いごとなどあるときは、呼ばれて包丁さばきをするので、飛岡といって西、東の良家からもてはやされていましたよ。
金城芳子さんの対談の中であぶりだされてくるもの、存命中にお話しの中で登場してくる方々についてもっとお聞きしたかったですね。残念です。想像と他の資料を照らし合わせることが必要になります。
外間米子さんとの対談では、最期はジュリ馬行列について、外間さんの意見に同意しているのですが、本音ではそうではないですね。
「今さらこ公娼制度のなごり、女たちの悲しみをこめた祭りを那覇市があと押しする必要があるでしょうか?―――残すとしたら記録で残してほしいですね」と外間米子さんは人権の視点で問い詰めると、芳子さんは「性を売り買いする、これは人間でないさ、女性がウミチットゥ強くなって男を人間にしてやらないとね。ワッター女まで人間でなくなってしまうさ。若者たち、男女お互い頑張って下さい。」である。
外間さんの視点が20世紀終わりの10年間、ジュリ馬行例(祭祀)をストップさせた論拠になっていますね。
しかし芳子さんの近代沖縄のライフストーリーそのものが、単純化できない遊郭と沖縄の諸相の関係を示していますね。家族制度、婚姻制度、社会、国家、伝統、歴史、を含めて、また中国や日本との関係性の中で、多様な顔を見せているのは事実ですね。アジアは一夫多妻制度≪一夫妻妾制度≫の中にあった近代です。日本も沖縄も変わらないですね。容認されていた社会のシステムがあります。その中でジェンダーなりセクシュアリティーは多面性を持っていたのですね。ジュリ馬の晴れやかさ、紅型は戦後の色ですね。祭、祭祀、芸能の力は何でしょう。
金城芳子さんを含め、先祖がジュリだった、少なくとも親族にジュリがいたという方は多い沖縄とも言えそうです。芸能に関する限り、辻遊郭はその母胎のような役割をしていますからね、戦後の芸能の発展はジュリのみなさんや蔑まれた沖縄芝居役者やアシバーと言われた歌・三線の名手たちによって培われたのでしょうね。歌・三線・琉球舞踊のプロだったジュリの女性たちは、沖縄文化の歴史の中で「正当な位置づけ」をされるべきですよね。←それは博士論文でまとめてみました!
現在の沖縄芸能界の重鎮の皆様の中で、芸妓の親族や家族の中から大輪の花を咲かせてきた方々が意外と多いですね。水脈は続いていたのですね。突然凄い芸が一昼夜にして表にでてきたのではないですね。