
今年3月ごろいただいた抜き刷りの論考を昨日の朝読んだ。「フェミニズム理論に基ずく沖縄演劇の視座」の論を修正しなければならず、その流れの中で気になった論稿である。渡久山清美&幸功ご妻夫の力作である。論の展開は引用を思う存分取り入れて、より実証的に構成している。注釈も具体的に論の実証が手堅いという印象を持った。気になったところは一部取り上げたい。
はじめに
1.エコフェミニズムへの批判(本質主義・母性&自然・精神性)
2.反戦運動・反軍事的システム:女性兵士映画のフェミニズム
3.脱欧米フェミニズムとしてのエコフェミニズム
4.フェミニズムとエコフェミニズムの協調の必要性
5.結語にかえて
以上の構成になっていて、エコフェミニズム理論の現在は分かりやすい。「性暴力は男性による女性への政治支配」は、その通りだと思う。家父長制による世界、社会の隅々まで浸透している支配構造がどう脱構築なりパラダイムシフトなりすることが可能なのだろうか?女性たちもまたその仕組みの中に包摂された利害を受容する自己補完性はどう解釈できるのだろうか?男女平等の模範国家、北欧の制度的取組においては成人男性のすべてに家父長制の歴史的負担税のようなものを課税にする制度の模索もあると以前読んだことがあったが、どうなったのだろう?
軍事化されている社会との表示や軍隊が家父長制の最たる例示だとの認識とその論の展開は、軍隊が社会の一部だとみなす視点や、フーコーがいう日常という戦場が突出したのが戦争という視点からすると、男性ホモソサイアティの軍隊システムが=現前する社会の表象とは言いにくいのではないかという疑問が起こった。本質主義ではなく戦略的本質主義という考えは勝方=稲福恵子の『沖縄女性学』の中でも一部展開されていたが、時代の波にのっているのだろうね。
Personal is political→Anything is politicalの定義もいいが、Being/Existing itself is politicalと私は考えている。
戦争映画、それも女性のエージェンシーを問う映画を4つ取り上げているのは、分かりやすかった。女が女性性をすべて転化させて男になるか、男のサブ(補完としての)女性=生み育む性を生かすフェミニズム論を展開していくか、もっと生態論・環境論を含むポスト・ヒューマニズムも論じられていいと思う。
開発資本主義家父長制⇔エコ・フェミニズム?
すべての被抑圧集団の解放と書くのは簡単で、実際に実存する空間で抑圧されている数多の女性たちに目配りできる制度的脱構築ができないXXXの欺瞞性はしかしもっと追究されてしかるべきだと考える。エコ・フェミニズムの論は麗しいけれど、多様な無数の声を受け入れ差別化される学究的空間で収奪する側に立つ者たちの論理の展開の矛盾にわたしは関心をもっている。論考の中でのXXXX的な展開は「あら?」だった。ンン。頭の整理ができたかな?映画は誰のシナリオで誰が監督し、誰を想定して(意図して)作られたのか、もっとディテールはほしい。女性がシナリオを書き女性監督がカメラを撮ったのか、気になるね。ややもすると表象された女たちはまた男が描いた女である事例が多数である。男が描いたフィクショナルな女たちである。エージェンシーとしての女はどこにいるのだろうか?
家父長制度の中では女たちはXXXXXX存在だと考えている。それはわたし自身のテーマとして深めたい。