他人から聞いたことを信じ込み、自分の目で見たことを信じないこと。または、現在を軽視して、過去の出来事を重視すること。
貴耳賤目(きじせんもく)https://yoji.jitenon.jp/yojid/1640.html
「耳を貴び目を賤しむ」とも読む。 |
『文選』張衝「東京賦」 |
耳を尊び実際に目の前の事象を軽視するという事は、意外とありそうです。人は観念的だと思う事ともつながっているようです。他人から聞いたことを「信仰」や「宗教」「信条」に置き換えると、個々の「信仰」「宗教」「信条」あるいは「信念」「観念」によって世事を見て、判断するという事になるのでしょう。
生得的なものと環境により多種多様な「聞いたこと」、ハビトスのようなものが身体と精神に張り付いているゆえに、それらから逸脱することは、個人差が出てくるのでしょうが、多かれ少なかれ、いい意味でも悪い意味でも、囚われている人生なのかもしれません。日々新しい発見と知覚が生まれても、人生に限りがあるゆえに、人の意識や認識にも限りがあるのでしょうか。浮世(現世)から飛び立つまでにたどる意識や認識は変わり、あるいは変わらずあり続けるのだろうか。85歳で他界した母が「人は死ぬまで変われる」と話していたことが思い出されます。
しかし、同じ事物(対象)を見ていても、その現象なり造形は異なって見えているのかもしれませんね。夢幻という二語が浮かんできます。夢と幻が実際の物、造形を目の前にしても、感じられてくるのは、物や人間の本質ゆえでしょうか。Mortality(死すべき運命)と創造と破壊の連鎖が伴っています。
この貴耳賤目を調べていると、四字熟語ランキングのトップは「遊生夢死」でした。遊生夢死(ゆうせいむし)とは「何かを成し遂げることもなく、ぼんやりと一生を過ごすこと。ぼんやりと生きて夢を見ているかのように死んでいくという意味」とあります。出典は『小学』程頤「嘉言」。検索した方々のトップが遊生夢死(ゆうせいむし)ということで、浮世の夢幻を感じている日本人が多いことを意味しているのだろうか、と自らに引きつけても、なるほどと思えました。何かを成し遂げたと思った人々も思わなかった人々も同じように、夢を見ているかのように死んでいくのかもしれません。
何かを成し遂げた人々は決してぼんやり生きたという事はなさそうですが、浮世を夢、幻と感じる心象は「虚無」感につながるのだろうか。「般若心経」の色即是空 空即是空が思い出されます。現象的世界は「空」であり、「空」がすなわち現象的世界である、との解釈ですが、普段の感覚、想像、意志、認識もすべて「空」だ(愛想行識 亦復如是)との説です。今頃以前から気になっていた「般若心経」をまた読みたくなりました。実際にどれだけ理解しているか、心もとないものです。
写真は月桃の花の種