今日は殊の外静かな休日だった。
午後にはいったん大雨が降ったけれど...
お昼に届いた青梅で梅酒を仕込み、その後はパン作りをしながらアイロンかけ。
先週作った食パンはいまいち、醗酵が足りなかったのか固い出来になってしまったので、今日は気分を変えてバターロールを焼いてみることにした。
「らでぃっしゅぼーや」で野菜の宅配を頼み始めて以来、ケーキやプリンなどをあれこれ手作りしたり、することも楽しくなってきた。
母はあまり、手作り信仰、というもののない人で、料理に凝る、ということもなかった。
商店をやっていた、というのもあり忙しくてそれどころではなかったのかも知れないが、現に今、忙しい私でも趣味的に休日に何か作る気分にはなるのだから、これはやはり、母はそれ程料理好きではなかった、ということだろうと思う。
考えてみれば、好き嫌いも多い人だった。
牛乳、豆腐、青魚など生臭い系のもの、などが嫌いだった。また「くどいのはいや」というのが口癖で、野菜も、茹でて、あるいは切って醤油やマヨネーズのみ、というのが多かった。
その影響か、私も野菜はシンプルに茹でて食べるのが未だに好きだけれど。
バターロールを作りつつ、23年前にもこうして麺棒で生地を伸ばして作ったな、などと考える。
元結婚相手の実家で、である。
義母と向かい合って卓袱台を調理台代わりに、生地をくるくる巻きながら、何を話したろうか?全く覚えてはいないが、家でパンを焼く、というのは私には珍しくて、楽しみながら作った記憶はある。
義母は色々な物を手作りする人だった。
子供の買って来たお菓子の箱を見て、「こういう添加物が体にはよくないんだよね」と言っていたのを覚えている。
今では珍しくないが、当時から「エコ」していた人で、環境を考える会に入っており、洗濯や食器洗いにも、石鹸成分のみの石鹸を使う人だった。
また料理に凝る、というのではないが、出汁をとった煮干をストーブの側で乾かして使ったり、無駄のないように色々と工夫していた。
専業主婦だから出来たこともあるかもしれないが...
餅も、あの頃流行り始めた餅つき器を使って作っていた。
バターロールも食パンも、この餅つき器を使って生地をこねていると言っていた。手でこねると大変だから、というので思いついたアイディアらしい。
今で言うとホームベーカリーのように使っていたのだ。
「こんな風にするお母さんもあるんだな」と驚いたものだった。料理上手な伯母や友人の母親なども、パンまでは作っていなかった。
義母は私の母よりもかなり若く、気持ちも若く、苦労して育ったせいか、優しく練れた人柄の女性で、いわゆる「姑」だったのにもかかわらず、私はこの人に関しては嫌な思いを一度もしたことがない。
親戚に預けられて育ったと言う話を聞いたが、そのためか、嫁として、他家で一人、という気詰まりな思いをさせないように、といつも思いやりを持って接してくれたと思う。
離婚したときに一番申し訳なく思ったのが義母に対してだった。
いつかまた会えるだろうか、そうしたらきちんと謝りたい、そう思いながら月日は経った。
自分の母にそんなことを言ったことはないが…亡くなった人は色々なことをあの世で知るのではないだろうか?
そんな気がすることがある。
母の告別式で焼香をしてくださり、こちらに会釈して行かれる人々の中に、懐かしい顔を見出して驚いた。
義母だったのである。
髪はすっかり白くなっていたが、上品な老婦人となっていた。若い頃から美しい人だったが、顔立ち自体は20年経ってもあまり変わっていなかった。
距離があったので、私と義母は言葉を交わさず見詰め合った。
父はぼんやりしていたのか、どちらにせよ義母の顔も覚えていなかっただろう、全く気づかずに会釈を返していた。
焼香が済み、出棺の準備が整い、会場を出てすぐ、見送る人たちの中に義母が見えた。やはり出棺まで待っていてくれたのだ。
飛んでいって挨拶をした。
「お義母さん来てくれたの!?」
もう「お義母さん」ではないけれど、私にはそうしか呼びようがない。
義母の最初の一言はこうだった。
「Kちゃん!いま、幸せなのね!?幸せなのね!?」
きっと私が出て行ってしまってから、どうしているだろう、と思いやってくれることもあったのだろう。
大事な息子に傷をつけた嫁、と憎まれても仕方がないところなのだが。
告別式では、私のとなりに同居人がおり、私の後に焼香したので、名前は違ってもパートナーであることはわかっただろう。
「幸せなのね」と言う言葉はそれを見て、安心した、という響きを持っていた。
勝手をした私を思いやる言葉が、一番最初に出てくる人なのだ。
「ずっと会いたいと思っていたよ!」とは言ったけれど...それ以上話をする時間もなく、「元気で」と別れた。
火葬場に向かうバスが待っていたのだ。
あれから5年、義母に会ったことはない。
これからも会うことはないかもしれない。大阪に住んでいては、義母がどこでどうしているのかもわからない。
新聞の訃報記事を見て来た、と義母は言っていたけれど、私には、亡くなったばかりの母からのプレゼントのような気がした。
私が気にしていたことを、亡くなった途端に知り、丁度良い、というと語弊があるが、なかなかない機会、と義母を呼び寄せてくれたような...
義母と作ったバターロール、食べたときの記憶は全くないのである。
おそらくランチに皆で食べたのだろうが、美味しかったのか、どうかも思い出せない。
こんな味だったのだろうか、と今日の午後はいかにも「手作り」風の、不細工なバターロールをミルクを一緒に頂きながら考えた。
午後にはいったん大雨が降ったけれど...
お昼に届いた青梅で梅酒を仕込み、その後はパン作りをしながらアイロンかけ。
先週作った食パンはいまいち、醗酵が足りなかったのか固い出来になってしまったので、今日は気分を変えてバターロールを焼いてみることにした。
「らでぃっしゅぼーや」で野菜の宅配を頼み始めて以来、ケーキやプリンなどをあれこれ手作りしたり、することも楽しくなってきた。
母はあまり、手作り信仰、というもののない人で、料理に凝る、ということもなかった。
商店をやっていた、というのもあり忙しくてそれどころではなかったのかも知れないが、現に今、忙しい私でも趣味的に休日に何か作る気分にはなるのだから、これはやはり、母はそれ程料理好きではなかった、ということだろうと思う。
考えてみれば、好き嫌いも多い人だった。
牛乳、豆腐、青魚など生臭い系のもの、などが嫌いだった。また「くどいのはいや」というのが口癖で、野菜も、茹でて、あるいは切って醤油やマヨネーズのみ、というのが多かった。
その影響か、私も野菜はシンプルに茹でて食べるのが未だに好きだけれど。
バターロールを作りつつ、23年前にもこうして麺棒で生地を伸ばして作ったな、などと考える。
元結婚相手の実家で、である。
義母と向かい合って卓袱台を調理台代わりに、生地をくるくる巻きながら、何を話したろうか?全く覚えてはいないが、家でパンを焼く、というのは私には珍しくて、楽しみながら作った記憶はある。
義母は色々な物を手作りする人だった。
子供の買って来たお菓子の箱を見て、「こういう添加物が体にはよくないんだよね」と言っていたのを覚えている。
今では珍しくないが、当時から「エコ」していた人で、環境を考える会に入っており、洗濯や食器洗いにも、石鹸成分のみの石鹸を使う人だった。
また料理に凝る、というのではないが、出汁をとった煮干をストーブの側で乾かして使ったり、無駄のないように色々と工夫していた。
専業主婦だから出来たこともあるかもしれないが...
餅も、あの頃流行り始めた餅つき器を使って作っていた。
バターロールも食パンも、この餅つき器を使って生地をこねていると言っていた。手でこねると大変だから、というので思いついたアイディアらしい。
今で言うとホームベーカリーのように使っていたのだ。
「こんな風にするお母さんもあるんだな」と驚いたものだった。料理上手な伯母や友人の母親なども、パンまでは作っていなかった。
義母は私の母よりもかなり若く、気持ちも若く、苦労して育ったせいか、優しく練れた人柄の女性で、いわゆる「姑」だったのにもかかわらず、私はこの人に関しては嫌な思いを一度もしたことがない。
親戚に預けられて育ったと言う話を聞いたが、そのためか、嫁として、他家で一人、という気詰まりな思いをさせないように、といつも思いやりを持って接してくれたと思う。
離婚したときに一番申し訳なく思ったのが義母に対してだった。
いつかまた会えるだろうか、そうしたらきちんと謝りたい、そう思いながら月日は経った。
自分の母にそんなことを言ったことはないが…亡くなった人は色々なことをあの世で知るのではないだろうか?
そんな気がすることがある。
母の告別式で焼香をしてくださり、こちらに会釈して行かれる人々の中に、懐かしい顔を見出して驚いた。
義母だったのである。
髪はすっかり白くなっていたが、上品な老婦人となっていた。若い頃から美しい人だったが、顔立ち自体は20年経ってもあまり変わっていなかった。
距離があったので、私と義母は言葉を交わさず見詰め合った。
父はぼんやりしていたのか、どちらにせよ義母の顔も覚えていなかっただろう、全く気づかずに会釈を返していた。
焼香が済み、出棺の準備が整い、会場を出てすぐ、見送る人たちの中に義母が見えた。やはり出棺まで待っていてくれたのだ。
飛んでいって挨拶をした。
「お義母さん来てくれたの!?」
もう「お義母さん」ではないけれど、私にはそうしか呼びようがない。
義母の最初の一言はこうだった。
「Kちゃん!いま、幸せなのね!?幸せなのね!?」
きっと私が出て行ってしまってから、どうしているだろう、と思いやってくれることもあったのだろう。
大事な息子に傷をつけた嫁、と憎まれても仕方がないところなのだが。
告別式では、私のとなりに同居人がおり、私の後に焼香したので、名前は違ってもパートナーであることはわかっただろう。
「幸せなのね」と言う言葉はそれを見て、安心した、という響きを持っていた。
勝手をした私を思いやる言葉が、一番最初に出てくる人なのだ。
「ずっと会いたいと思っていたよ!」とは言ったけれど...それ以上話をする時間もなく、「元気で」と別れた。
火葬場に向かうバスが待っていたのだ。
あれから5年、義母に会ったことはない。
これからも会うことはないかもしれない。大阪に住んでいては、義母がどこでどうしているのかもわからない。
新聞の訃報記事を見て来た、と義母は言っていたけれど、私には、亡くなったばかりの母からのプレゼントのような気がした。
私が気にしていたことを、亡くなった途端に知り、丁度良い、というと語弊があるが、なかなかない機会、と義母を呼び寄せてくれたような...
義母と作ったバターロール、食べたときの記憶は全くないのである。
おそらくランチに皆で食べたのだろうが、美味しかったのか、どうかも思い出せない。
こんな味だったのだろうか、と今日の午後はいかにも「手作り」風の、不細工なバターロールをミルクを一緒に頂きながら考えた。