土曜日の夜には同居人と、よく近所の蕎麦屋や焼き鳥屋で晩御飯を食べることがある。
先週の土曜日は「わたみんち」で。ここの「蕎麦茶」がお酒の全く飲めない私にはちょうどいい。
旬の秋刀魚の炭焼き、焼き鳥など。そして居酒屋メニューは濃い、くどいものが結構多いから、大抵私は茄子の浅漬けを頼む。
そこで思い出した。私が茄子の浅漬け好きなのは、昔母が作っていたからだ。
母はキャベツや胡瓜、茄子の浅漬けを作って、袋に入れて店で売っていたのだ。むろん家でも食べた。居酒屋で出てくる長茄子のスライスしたものではなく、かなり小振りの茄子で、食べるときは半分に切った形で食べていた。
そこで思ったのが、いわゆる「お袋の味」だ。
作家の渡辺淳一が、母の作る美味しいイクラは、母が亡くなってしまってからはもう、味わえなくなってしまった、と言う事をエッセイに書いていたのだが、そういうのが「お袋の味」であろう。その人しか出せない味だ。
しかしながら、私が茄子の浅漬けが好き、と言うのはそれとはちょっと違うだろう。昔母が作ったものはもう味わえない、というような感じ方ではないからだ。
そういったものは…つまり、母でしか出せないような味のもので、今は食べれられないようなものは…あまりないようである。
「渡辺淳一の『母のイクラ』みたいな、お袋の味ってある?」と同居人に聞いてみる。
「自転車で魚を売りに来るおじさんがいたんだけど、その人が来るのが楽しみだった。父親が道楽で囲炉裏を作ったから、そこで鮎を焼いて食べた」
焼いて食べた魚はお袋の味とはいえないだろう。「懐かしい故郷の味覚」というものだろう。
「もつ煮を食べたな」
うんうん、それならお袋の味っぽい。
「俺が作ったんだ」
「じゃあ『俺の味』じゃあないの?」
「まあ、そうだなあ」
「あとは?」
「ゆで卵ダイエットと鶏肉ダイエットで、一緒にゆで卵とか鶏のムネ肉食べた」
…それは「お袋の味」から相当ずれているような…
「だからやっぱり、お袋の味ってないなあ」
ウチの母も、同居人の母親も、どちらも家が店や会社で、忙しい日々を送ってきた人たち、あまりじっくり料理に向き合う時間はなかったせいだろう。
さて、今日は中秋の名月。
中秋の名月はいつも満月なのかと思ったらそれは関係ないそう。今年はたまたま満月に当たったと言う事らしい。お月さまは真ん丸である。
白玉粉を買ってきて、お月見団子を作ってみた。ススキも飾る。
本当なら三方に山形に載せるものだろうけれど、そんなに作ったら食べきれない。というかあれは飾りだけなのか?
ウサギ型のものの周りを団子で囲い、なんだか寂しいのでベランダからゴーヤの花と若い葉をつんで飾ってみる。ウサギの目は紫蘇の葉だ。なかなかかわいらしく出来た。
団子を丸めながら思ったのは、「これを最後にしたのは母といっしょだったな」と言う事。別に月見に関係なくよく作っていたおやつだった。
まだ実家にいた時の事だから、学生時代かもっと前の子供の頃かもしれない。
一人暮らしの時に団子作って食べたりしないし、オーストラリアでやってたらびっくりだ。
大阪に来てからも作ったことはない。
子供の頃は白玉団子を丸めるのが楽しかったものだ。丸めて、親指でくぼみをつけて、できたものから鍋に放り込む。
「耳たぶくらいだよ」と母が教えてくれたその感触はよく覚えているものだ。
そうそう、こんな感じ。
今日は月見団子だから、真ん丸に仕上げる。
なんでまたくぼみをつけたんだろ?と今更ながらに思うが、おそらく、餡子でなく砂糖蜜で食べていたので、絡みやすくしたものなのだろう。さて、これは祖母がそうやっていたのだろうか?
母と二人でしていた時はなんの不思議もなかったのだけれど。
帰ってきた同居人も月見団子を見て喜び、テーブルに飾って、紫蘇の目のウサギを食べてみる、という。甘いものはあまり、それも和風のは食べない人なのだが珍しかったからだろう。
餡子は嫌うので、砂糖蜜を作って、「これならあんまり甘くないから」と勧める。
「昔はこうして母親と白玉団子を作って、餡子じゃなくて砂糖蜜で食べたんだよ」
「『お袋の味』か!?」
それもちょっと違うような…そうなのかな…
母はあの世で今日白玉団子を作って食べただろうか?くぼみのある団子を。
明るい月空を見ながら考える。雲はずいぶんあるけれど、雲のある方が月夜は良いものだ。
つい最近、知っている人がまた、そちらに行ってしまったけれど…月見団子でもてなしてあげてほしいな、などと思う。まだそちらの生活には慣れていらっしゃらないだろうから。
先週の土曜日は「わたみんち」で。ここの「蕎麦茶」がお酒の全く飲めない私にはちょうどいい。
旬の秋刀魚の炭焼き、焼き鳥など。そして居酒屋メニューは濃い、くどいものが結構多いから、大抵私は茄子の浅漬けを頼む。
そこで思い出した。私が茄子の浅漬け好きなのは、昔母が作っていたからだ。
母はキャベツや胡瓜、茄子の浅漬けを作って、袋に入れて店で売っていたのだ。むろん家でも食べた。居酒屋で出てくる長茄子のスライスしたものではなく、かなり小振りの茄子で、食べるときは半分に切った形で食べていた。
そこで思ったのが、いわゆる「お袋の味」だ。
作家の渡辺淳一が、母の作る美味しいイクラは、母が亡くなってしまってからはもう、味わえなくなってしまった、と言う事をエッセイに書いていたのだが、そういうのが「お袋の味」であろう。その人しか出せない味だ。
しかしながら、私が茄子の浅漬けが好き、と言うのはそれとはちょっと違うだろう。昔母が作ったものはもう味わえない、というような感じ方ではないからだ。
そういったものは…つまり、母でしか出せないような味のもので、今は食べれられないようなものは…あまりないようである。
「渡辺淳一の『母のイクラ』みたいな、お袋の味ってある?」と同居人に聞いてみる。
「自転車で魚を売りに来るおじさんがいたんだけど、その人が来るのが楽しみだった。父親が道楽で囲炉裏を作ったから、そこで鮎を焼いて食べた」
焼いて食べた魚はお袋の味とはいえないだろう。「懐かしい故郷の味覚」というものだろう。
「もつ煮を食べたな」
うんうん、それならお袋の味っぽい。
「俺が作ったんだ」
「じゃあ『俺の味』じゃあないの?」
「まあ、そうだなあ」
「あとは?」
「ゆで卵ダイエットと鶏肉ダイエットで、一緒にゆで卵とか鶏のムネ肉食べた」
…それは「お袋の味」から相当ずれているような…
「だからやっぱり、お袋の味ってないなあ」
ウチの母も、同居人の母親も、どちらも家が店や会社で、忙しい日々を送ってきた人たち、あまりじっくり料理に向き合う時間はなかったせいだろう。
さて、今日は中秋の名月。
中秋の名月はいつも満月なのかと思ったらそれは関係ないそう。今年はたまたま満月に当たったと言う事らしい。お月さまは真ん丸である。
白玉粉を買ってきて、お月見団子を作ってみた。ススキも飾る。
本当なら三方に山形に載せるものだろうけれど、そんなに作ったら食べきれない。というかあれは飾りだけなのか?
ウサギ型のものの周りを団子で囲い、なんだか寂しいのでベランダからゴーヤの花と若い葉をつんで飾ってみる。ウサギの目は紫蘇の葉だ。なかなかかわいらしく出来た。
団子を丸めながら思ったのは、「これを最後にしたのは母といっしょだったな」と言う事。別に月見に関係なくよく作っていたおやつだった。
まだ実家にいた時の事だから、学生時代かもっと前の子供の頃かもしれない。
一人暮らしの時に団子作って食べたりしないし、オーストラリアでやってたらびっくりだ。
大阪に来てからも作ったことはない。
子供の頃は白玉団子を丸めるのが楽しかったものだ。丸めて、親指でくぼみをつけて、できたものから鍋に放り込む。
「耳たぶくらいだよ」と母が教えてくれたその感触はよく覚えているものだ。
そうそう、こんな感じ。
今日は月見団子だから、真ん丸に仕上げる。
なんでまたくぼみをつけたんだろ?と今更ながらに思うが、おそらく、餡子でなく砂糖蜜で食べていたので、絡みやすくしたものなのだろう。さて、これは祖母がそうやっていたのだろうか?
母と二人でしていた時はなんの不思議もなかったのだけれど。
帰ってきた同居人も月見団子を見て喜び、テーブルに飾って、紫蘇の目のウサギを食べてみる、という。甘いものはあまり、それも和風のは食べない人なのだが珍しかったからだろう。
餡子は嫌うので、砂糖蜜を作って、「これならあんまり甘くないから」と勧める。
「昔はこうして母親と白玉団子を作って、餡子じゃなくて砂糖蜜で食べたんだよ」
「『お袋の味』か!?」
それもちょっと違うような…そうなのかな…
母はあの世で今日白玉団子を作って食べただろうか?くぼみのある団子を。
明るい月空を見ながら考える。雲はずいぶんあるけれど、雲のある方が月夜は良いものだ。
つい最近、知っている人がまた、そちらに行ってしまったけれど…月見団子でもてなしてあげてほしいな、などと思う。まだそちらの生活には慣れていらっしゃらないだろうから。