今回は、鹿児島城(別名:鶴丸城)の訪問記を書きます。鹿児島城は、2023(令和5)年に国の史跡に指定されました。その歴史は、関ヶ原の合戦の直後に1601(慶長6)年に築城を始め、1615(慶長20)年頃に完成したと言われています。背後の城山の形が鶴が舞っているように見え、鶴丸山と呼ばれたことで「鶴丸城」と言われます。
写真は鶴丸城内側から見た大手門の御楼門です。
この門は、1873(明治6)年の火災で焼失し、2015(平成27)年から鹿児島県が官民一体となって復元に取り組んだ結果、2020(令和2)年3月に完成したものです。それまで鹿児島城には江戸時代の雰囲気を残すものが石垣だけだったようで、この御楼門が鹿児島のシンボルとなると思います。
御楼門の内側の枡形です。大きな石で組まれています。この石垣にある窪みは1877(明治10)年の「西南戦争」による砲弾や銃弾を受けた痕跡で、くぼみの中には弾丸の破片(鉛のようなもの)が残っている箇所もありました。「鹿児島城石垣ガイド」というパンフレットによると「第二次世界大戦の銃撃の痕跡が一部含まれている」とあります。1901(明治34)年には第七高等学校の造士館がここに設立していたようなので、大戦中に米軍の航空機による銃撃の跡なのでしょう。
鹿児島城もVRアプリで往年の城の様子が見られるようです。復元に比べて予算も抑えられるし、最近は色々な城で活用されていますね。
鶴丸城は、城から山にかけて城を構成される平山城。ほぼ城山部分と麓の部分の面積が半々です。築城された頃は軍事機能の中核を担う城山部分に本丸・二ノ丸があったらしいですが、行政部分は麓の居館で行われていたようで、江戸時代後半になると、本丸・二ノ丸は麓の居館を指すようになります。如何に外様の島津氏が江戸時代前半に幕府からの攻撃を防ぐ努力をしていたかが感じられます。
この時は来月に行われる「松方正義」の企画展の案内がされていました。薩摩藩は多くの明治政府の官吏を排出しており、これらの企画展もきっと充実しているのでしょう。経済専門の私としては彼がやった「松方財政」は国の財政基盤を支える立派な方法でしたが、激しいデフレが起って国民からはだいぶ冷めた目で見られていました。国の政策とはいつの時代も難しいものです。さて城の中に入っていきましょう。
御楼門から入ると枡形はS字カーブになっています。ここの石垣もかなり大きいものが使われています。さらにここにも西南戦争の被弾の痕跡があります。この鶴丸城には築城された頃から天守閣などはありませんでした。
この城を築城した島津家久は「薩摩は人をもって城となす」という考えの下、城の外郭に兵農一致の郷士団が守る外城を構えて防御の要としていました。薩摩77万石の本拠地としては質素な作りであったと言えるでしょう(防御が薄いという意味の簡素ではなく、豪華ではないと言う意味の質素)。この考えは、武田信玄の「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」(『甲陽軍鑑』より)の考え方と似ています。さすが島津家も戦国時代を生き抜いた大名だからこその視点なのでしょう。
枡形を抜けると、奥に「黎明館」という施設が見えてきます。この建物の後ろに見えるのが、城山(鶴丸山)です。
鶴丸城の麓部分の現在は「鹿児島県歴史・美術センター黎明館」と「鹿児島県立図書館」に分かれています。黎明館は1983(昭和58)年に開館した「人文系の総合博物館」で企画展なども催されています。鹿児島の観光パンフレットなどにはあまり紹介されることが少なくて、この施設はあまり個人的に注目していませんでした。
この日の企画展は中世ではなかったので、私は常設展だけを見ました。しかし、訪問したのが17時。受付で「18時で閉館ですよ。」と言われ、館内でも念を押されたほど。入って分かったのは、結構展示が充実していて見るのは時間がかかる・・・。「受付で言われた通りだ・・・」と思いました。
中世的な展示の見どころはこの志布志城の模型です。志布志城は1562(永禄5)年には肝付氏が大隅計略の拠点としていました。この模型は肝付氏がもっともこの城で勢いがあった頃の1575(天正2)年頃の様子を再現しているそうです。
ただし、居館などは想像復元と書いてあったので発掘調査などはされていないのだろうと思いました。また県立の施設だけあって、県内の色々な箇所から発掘調査で出土した青磁などの陶器も展示してあり、中世の展示も見どころがあります。この辺を見ていて「もっとゆっくりと見学できる時間に入っておけば良かった・・・」と後悔しました。「あとで博物館の図録を買えばいいや・・・」と思っていましたが、常設展の図録はなく、あったのは1990(平成2)年の『西鄕隆盛と大久保利通』の図録だけ・・・。県立の博物館も最近は予算に困っていると聞きます。ぜひ文化予算を拡充して欲しいです。
この模型は江戸時代の鶴丸城本丸の模型です。やはり天守は見えません。「人は城」ですね。御殿の後ろにあるのが城山です。かなり山の規模が大きいことがわかります。鹿児島は山が多い地形。江戸時代という平和な時代でも、常に幕府を警戒していた島津氏らしい気もします。このコーナーには、模造紙で大奥部分の発掘調査の内容なども取り上げていました。そういう部分こそ常設展示にしたり、図録にしてほしいです。
こちらがCG復元された鶴丸城です。こういのって私は時間がないと意外とやらないのですが、みなさんはどうですか?見学の時にCG復元ってスマホで見ますか?
さて黎明館の展示は「近世」や「近代」の展示が充実していました。その中で私は「征韓論」を主張していた西鄕隆盛が政府向けに自分の主張をアピールしている文書がありました。時間がなくて原文を終えなかったのですが、この政争は、「征韓論」を主張した西鄕の意見が却下されて、西鄕は野に下る。しかし政府は朝鮮を「江華島事件」において武力で開国させる、という一種矛盾した行動を取っています。その一部始終を西鄕の文書で確認したかったのですが・・・残念。では黎明館を出ます。
黎明館の南西のこの辺りは説明の看板によると「庭園跡」だったり「能舞台跡」があったようです。または、能舞台を復元して、ここで能のイベントや、子ども向けイベントなんかをやるといいのでは・・・と思いました。
写真奥が御隅櫓の場所です。1872(明治5)年の御隅櫓の現存の写真もあることなので復元も可能です。築地塀や御隅櫓の復元をして江戸時代の雰囲気を楽しめればいいのになぁ・・・と思います。現代の鶴丸城はちょっとアピールが足りないような気もします。せっかく御楼門を復元したので、それに続いて機運が高まるといいなあと思います。
鹿児島まで足を伸ばしたら、こんなところにも行ってみませんか?
国内で唯一の甲冑を作る工房「丸武」さんです。鹿児島に来てちょっと寄る・・・とは言いつつも、こちらは「薩摩川内市」という場所。鹿児島から車で高速道路を使っても1時間以上はかかります。新幹線でも鹿児島中央駅←→薩摩川内駅は40分程かかります。最も丸武さんは駅から遠いので車でないと厳しいでしょう。
1958(昭和33)年に釣り竿メーカー「丸竹産業」として設立。しかし、1973(昭和48)年釣竿製造不況のため、創業者田ノ上さんの趣味で「鎧兜」の製造をする「甲冑工房」を始め、歴史ドラマなどで一大産業に転身。現在ではこのような城構えの作業場になっていました。
入場料無料で甲冑製造を見学することができます。行程の写真撮影はダメだったので写真ありませんが・・・。
このような戦国の城をのような建物を作るのは雰囲気づくりなのかなと思っていたら、甲冑を気付け体験ができるので、その背景としてふさわしいものになるようにしたようです。
甲冑展示館にはGACKTさんが上杉謙信役で来ていた甲冑もありました。
真田丸などの有名な武将もここで手がけているようです。もちろん個人での購入もできますが、100万円から300万円とやはり個人の趣味で購入するのは厳しそうです。
鹿児島に来てここまで遠くに来るのが大変な方、せめておいしいお食事場所を紹介します。
鹿児島市の天文館と呼ばれる繁華街の中にある「和総」さんです。居酒屋さんですが料理もとてもおいしい。鹿児島の地酒の芋焼酎のお湯割りを飲むには、アテはさっぱりとした和総自家製のらっきょう漬けがとても合います。最近の鹿児島の若者は芋焼酎を炭酸割りをします。あっさりとした芋焼酎には、味が濃い味のなめろうが合います。ちなみに味のなめろうはお通しで出てきてあまりにもおいしいので、単品追加しました。