畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

「能登畠山氏とゆかりの文化」企画展を訪ねて

2023-10-29 08:21:34 | 能登

 2023(令和5)年9月23日~10月29日の期間で「石川県七尾美術館」にて「能登畠山氏とゆかりの文化」の企画展が開催されました。そこで歴史仲間の加賀冨樫氏つながりの巣鴨介様と一緒に、加賀能登ツアーに行ってきました。その様子を、「ホームページ開設25周年企画」としてお届けします。

 1日目は加賀冨樫史跡巡り。写真は冨樫家代々の墓地である「御廟谷」です。他にも福井県あわら市の「金津城溝江氏館跡」や「冨樫館跡」や周辺史跡、「伝灯寺」などを回りました。

 「チャンピオンカレー野々市本店」で食べたフィッシュフライカレーです。金沢カレーと言っても本店は野々市。加賀冨樫ファンならぜひ食べたいものです。加賀での様子は「加賀冨樫氏野々市の歴史」のサイトに載せております。

 

 加賀の旅程が終わって夜に能登へ。ここでは5年前と同じく「すしべん」へ。前回は武藤様と一緒の旅程でした。歴史仲間と旅するのは本当に楽しいもので、時間があっという間に感じます。

この日はビジネスホテルに宿泊するので、やはり立ち寄り湯である「総湯」に行きます。氷見にも「総湯」という温泉がありました。ひょっとして「総湯」って立ち寄り湯のチェーン店なのかな?

この日はいつも宿泊する七尾駅前の「ホテルアリヴィオ」が満室だったので、和倉温泉にある「アルファワン」に宿泊しました。ここも部屋も綺麗で、夕食もあるし、朝食もバイキングもあるので、ご一緒した巣鴨介様も満足いただけたようでした。

 さて、いよいよ2日目。能登畠山氏の旅程です。私にとって人生で10度目の「七尾の旅」になります。

 まず8時に七尾城に着きました。相変わらず荘厳な石垣です。この調度丸が発掘調査されたのが3年前。そろそろ七尾市から発掘調査報告書が出る時期です。最近はこういう報告書もPDFになっていることが多くありがたい。ぜひ今回もPDFにして誰でも見られるようにしてほしいです。

 能登の旅程でこれまで1度も外したことがない七尾城。ここに来るととても癒やされます。そして旅行に一緒に来た方にご案内すると、歴史に興味がそれほどない方でも、この城を見ると感動されます。それほどの魅力が七尾城にあるという事だと思うのです。45分コースなら、「三ノ丸」「袴腰」「寺屋敷」も追加すると模範コースです。

 往復2時間確保できるなら、2022(令和4)年4月に「七尾城登山口駐車場」がオープンしたので、そこから本丸まで徒歩で登ると、七尾城の堅固さを体感できます。

さらにこの「七尾城登山口駐車場」の案内施設には、七尾城に関する展示も多い。上記写真は「史跡七尾城跡整備計画図」です。

https://www.city.nanao.lg.jp/sportsbunka/shise/sesaku/kakushukeikaku/kyouiku/documents/seibikihonkeikaku_s.pdf

↑のサイトに「史跡七尾城跡整備基本計画」がありPDFファイルで見ることができます。この「整備基本計画」によると、今は藪で入れない「長屋敷」も整備されるようです。

 また、七尾城登山口駐車場の案内施設には「能登畠山饗応御膳」の復元の写真もあります。この内容はYouTubeにもアップされています。

https://www.youtube.com/watch?v=dDE_mE98btM

令和2年度文化資源活用事業費補助金(Living History (生きた歴史体感プログラム)促進事業)による能登畠山文化、饗応食の再現映像です。しかし広報不足なのか、中々アクセスが伸びません。ぜひ興味がある方はアクセスを!

 これも駐車場の案内施設にある説明板。こうやって七尾城の立地を上空写真でみると、改めて山城ながら海からそれほど離れていないことを感じます。本丸の絶景はこの位置関係だからこそ産まれているんですね。また、能登府中(以前までの守護館)とも、能登の国府(古代の中心地)とも距離が近く、能登の行政を司りつつも、防御を優先とする位置としては非常にふさわしい場所だと感じます。

 続いて「七尾城史資料館」へ。ここは9度目の来訪です。こちらの資料室は以前は「写真撮影可」だったのですが、今回は「写真撮影禁止」となっていました。展示内容は個人的に楽しむための撮影だと思うのですが、ネットなどにはあまりアップしないようにしたいものです。ここで七尾の年刊地方雑誌『七つ尾』を買いました。20号から40号まで持っているので20年分を所有しています。

 つづいて「のと里海里山ミュージアム」に来ました。この日は公園でイベントもやっていたのでかなりの来場者がいました。その時に観光している方がイベントのお店の人に「これから能登を回るんですよ。」と言ったら「能登は広いので全部を回るなら2日くらいかかりますよ。」と言っていました。これは私も同感で、能登をひとくくりにしがちですが、能登の中心部である七尾から奥能登の珠洲までは車で100kmほど距離があるので、移動だけでも結構な時間がかかります。口能登・中能登・奥能登とそれぞれを十分楽しむならぜひ「能登空港」を利用し、1泊2日をぜひ「能登だけ」で堪能するのがゆったり旅が出来るお勧めです。

 「のと里海里山ミュージアム」は2018(平成30)年開館で、私は3度目の来訪です。ここは能登全体の展示があるので、能登を回る基幹になる施設です。能登全体の展示があるので七尾城の展示もありますが、ちょっと少なめです。開館した時は「ここで学芸員が能登畠山氏の研究をしてくれないかな…」と思ったのですが…。

 次にいよいよ「石川県七尾美術館」を訪問です。この美術館は1995(平成7)年開館で、私は1999(平成11)年、2008(平成20)年以来の3度目の訪問です。1998(平成10)年に訪れた時には能登畠山氏の展示はなにもありませんでした。長谷川等伯関連のものはそれなりにありました。しかし2008(平成20)年に「能登畠山家創設から600年記念」のイベントが開催されるに合わせて、石川県七尾美術館でも「能登畠山氏と文芸の世界展」という企画展をやっていました。(下記コンテンツ参照)

https://nanao.sakura.ne.jp/special/10year.htm

 しかしここでも過去の私はこう記しています。「能登畠山氏を体系的に理解しようとするには、まだまだ足りないと思っていた。しかし、この七尾美術館の展示内容はなかなかでした。惜しむべきは企画展の図録が販売されていないことです。無料で企画展のパンフレットはもらえましたが、それだけは物足りない。すべての出品作品に説明をつけた図録を販売してほしかった…。一方、ほとんど毎年行われている長谷川等伯関連の企画展の図録は販売しています。」そして今回も同様でした。図録を販売してほしかったなぁと思います。

 2023(令和5)年の企画展の内容は「能登畠山氏とゆかりの文化」という内容で、触れ込みは「賦何船連歌」「賦何路連歌」「賦何人連歌」の能登畠山関連の連歌が3ついっきに公開される、というものでした。期待はしていながら、どこか「美術館」というものを踏まえてそれなりの気分で見ていたら、新しい知見が何個も得られました。ここに私が気がついたことを備忘録としてここに記します。

・畠山義総の入道名は「徳胤」。義綱が一時期解明した「義胤」の字はここから来たと思われる。

・畠山義元が菩提寺として贔屓していた輪島市三井の興徳寺は、七尾市の龍門寺に吸収合併された。義綱の文書に出てくるのはそれが背景にあるから。

・畠山義総は1530(享禄3)年に「お香の調合マニュアル」を手に入れていた。

・畠山義総は冷泉為広から、滞在費用として「牛黄圓」をもらった。熱病などの薬である。義綱の医道への興味などにつながったと思われる。

・長谷川等伯26歳の時に描いた「十二天図」は畠山義綱の気多大社造営の一環として描かれたものか。

・長谷川等伯が30歳の時に描いた「法華経曼荼羅図」に入道した畠山義続(徳祐)が描かれている。

・長谷川等伯は、『等伯画説』によると「能州屋形が黙庵筆の『猿猴図』を所持していた」と述べた記載があり、等伯は能登畠山氏が所有する同図を実際に見たのだろうと推察される。

下記3つの件は、等伯と畠山義綱とのつながりの深さを感じる。私は拙サイト「長谷川等伯」のコンテンツで「20代でまさに画家として売りだし中であった頃、義綱をパトロン(注2)として活躍していたのではないかとも推測できる。」と評した。(下記コンテンツ参照)「https://nanao.sakura.ne.jp/person/hasegawa_tohaku.html

まさにそれが裏付けられたように感じて、展示に見入ってしまいました。今後コンテンツを追加するつもりです。

次に訪れたのはお土産物を買う場所「能登食彩市場」です。相変わらずすごい人気スポットです。巣鴨介様にも買い物を堪能していただきました。あとで、妻に「珠洲の塩を買ってきてもらえば良かった。でも七尾では売っていないか…」と言われたのですが、この食彩市場には能登のすべてのお土産が存在します。間違いなく立ち寄りたいスポットです。

昼食は寿司へ。七尾市は「すし王国七尾」と言われるほど寿司がおいしい。今回は2022(令和4)年にも訪れた「寿し一(すしかず)」さんを再訪。カウンターで一握りずつ出される寿司を、リーズナブルな値段でとびきりのおいしさを味わえる…なんて素敵な。この時期のおすすめは「アオリイカ」でした。イカ自体が甘いので、珠洲の塩が乗っていました。私が食べたかった「生クチコ」は1月以降でないと食べられないようです。残念。店のオーナーと女将さんと七尾の素敵な所を話して店を後にします。

 次は七尾駅です。能登では今2つのアニメの聖地として注目されています。1つは2011(平成23)年に公開された「花咲くいろは」です。和倉温泉がモデルになっているようで、能登鹿島駅なども登場します。そのアニメがのと鉄道のラッピング列車になっています。列車内のアナウンスもアニメの声優が担当しているとか。力の入れようがスゴイ。もう1つは2019(令和元)年公開の「君は放課後インソムニア」です。こちらは七尾市が舞台となっています。回数券にアニメの絵が使われるなどこちらも力が入っています。ぜひ歴史だけで無く、能登のいろんな魅力に触れて欲しいです。

 ここで七尾市を後にし、能越自動車道に乗って富山県射水市へ。その最中にふらっと寄ったのが氷見市の道の駅「氷見漁港場外市場ひみ番屋街」です。右記サイトは公式サイト(https://himi-banya.jp/)

 人が少ないと写真を見て思うかも知れませんが、人様を写さないように配慮したものです。広大な駐車場は90%以上埋まっており、かなり人気の施設のようです。レストラン街があったり、立ち寄り湯があったり、土産物屋があったりと、能登食彩市場の規模の3倍ほどはありました。氷見市なかなかやるなぁ。七尾市も負けてられん。

ただ郷土の歴史本などが売っていないので、歴史好きに取ってはちょっと残念にも思えました。観光パンフレットなどはありましたが、郷土資料コーナーとか欲しいなぁ。

 さて今回の歴史旅の最後の訪問地。富山県射水市の「射水市新湊博物館」です。

 今回は「海が支えた放生津幕府-明応の政変と足利義材-」の企画展を見に行きました。こちらの展示も写真撮影は禁止でした。でも図録が売っていないという悪循環。でも展示は見応えがありました。なぜ足利義稙(義材)が京都から北陸に逃れてきたのか、なぜ越中では守護代クラスである神保氏が将軍を迎え入れることができたのか…など貴重な内容でした。せっかくの内容だったから記憶より記録に留めておきたかった…。

 今回の旅も、加賀・能登・越中の戦国時代を満喫する旅ができました。今や在野にて研究した内容を公開することが私の大事なプライベートの1つです。そんな楽しい旅に、さらに仲間と歴史を堪能できることはこの上ない幸せです。今回の訪問をまた、サイトに生かすことを誓い。ホームページ公開25周年企画とさせていただきます。


越前大野城訪問記

2023-08-13 10:33:30 | 歴史

今回紹介する城は福井県大野市にある「越前大野城」です。

 越前大野城は、四方を山々に囲まれた大野盆地の真ん中にある亀山城(標高249m)にある平山城です。「北登り口」「南登り口」「西登り口」と城への登り口が3ヶ所あります。南と西の登り口は大きな駐車場があります。北と南は緩やかな坂で登城できますが、西は急な階段が続きます。今回の私は時間があまり無かったので「西登り口」から登城しましたが、天守閣の正面の写真が撮れなかったので、余裕がある方は「越前おおの結ステーション」から登ることをお勧めします。ここんは、多目的広場兼駐車場のほか、物産販売所・藩主隠居所(休憩所)やまちなか観光拠点施設がある場所で、大野市が中心市街地活性化の核として整備しました。「結ステーション」の駐車場にとめて、大手門広場から写真を撮ると天守閣が正面から取れるビュースポットです。

「西登り口」の急階段はこんな感じです。この先もまだまだ階段が続いています。筋肉痛になりそう。

 急階段を登り終えて休憩所に着きました。ここはある程度広い平坦面があるので曲輪かと思いましたが、講堂や体育館からなる「学びの里めいりん」や「大野市民俗資料館」がある場所が二ノ丸・三ノ丸で、そこから上がってくるための枡形のような役割の場所のようです。やはり戦国時代と近世・江戸時代は仕組みが違いますね。

 休憩所に「土井利忠」の銅像がありました。土井利忠は大野土井家7代目藩主で、幕末期の44年の治世で藩政改革を成し遂げ財政再建を成し遂げたほか、4万石の小藩ながら藩校「明倫館」の開校、洋学校の開校、西洋医学の採用、西洋砲術の採用、蝦夷地開拓などを成し遂げたという。

 銅像の場所と同じ場所にある休憩所。この休憩所には「幕末の大野藩の偉業」という大看板が建っています。この看板は古そうなので、昔から土井利忠の偉業はここ越前大野城で伝えられているんだなと感じます。

休憩所を出て斜面を登ると石垣が現れました。

 遊具があるこの場所は「武具蔵跡(ぶぐくらあと)」です。この場所は本丸のすぐ下です。戦国時代だと、ここが本丸防衛の最終拠点になるのですが、そこは平和が長く続いた江戸時代。麓に二ノ丸・三ノ丸があるので、平時には山の上で扱いにくいこの場所は居住空間や防衛空間ではなく、武器の保管庫として役立ててたのでしょう。

いよいよ本丸に入ります。こちらのの門は模擬の薬医門です。ですが雰囲気もありますね。麓の二ノ丸の鳩門は光明寺に、不明門は真乗寺にそれぞれ移築されている。

武具蔵からは本丸がトイレに隠れて見られません。やはり「結ステーション」から登ればよかった…。

天守は1968(昭和43)年に造られた模擬天守です。石垣は江戸時代のものです。

越前大野城の入城料は大人1名300円です。

 越前大野城の最寄りは、電車ならJR越美北線の「越前大野駅」から徒歩で30分ほど。私は中部横断自動車道で行きました。「大野IC」から車で7分です。写真の遠くに最近開通した中部横断自動車道の福井県区間も写っています。中部縦貫自動車道は福井北JCTから大野ICまでは2017(平成29)に開通しました。さらに先の道路が2026(令和8)年までに開通し、東海北陸自動車道につながる予定で、大野市の交通の便もよくなる見通しです。

 模擬天守内は資料が展示されていますが、写真撮影禁止なので、最上階からの遠景の写真を。この最上階には「天空の城 越前大野城」という文字が貼られていますが、結構高さがあるなかでこの文字見えるんでしょうか?それともドローン用なのでしょうか。

 越前大野城はの築城者は金森長近です。1575(天正3)年に織田信長の命で金森長近と原政茂が大野郡の一向一揆を収束させました。その恩賞として、 大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えました。そして1576(天正4) 年に金森長近は大野盆地の中心にある亀山に平山城の城郭を造り、城下の防御施設とともに、商工業の発展も考えて麓に短冊状の城下町をつくりました。

その区割りが現在も受け継がれて、大野市の町は平安京のように短冊形になっているようです。

 越前大野城は「天空の城」という言葉をよく目にします。「天空の城」と言えば兵庫県にある「竹田城」が有名です。この「越前大野城」も標高249mとかなりの高さをほこり、隣の犬山城から雲がかかって天空の城に見えることから、そのように言われるようです。

私が訪れた日は、雲がなく「天空の城」になりませんでしたが、受付の売店で、「天空の城になっている越前大野城のプラモデル」が展示されていました。このような幻想的な写真が撮れると絵になりますね。

 さらに売店で「大野市限定商品 奥越前の水」が300円で売っていました。限定に弱い私はすぐに購入。でもなんで「水が特産」?と思っていたら、大野市のパンフレットに書いてありました。

「周囲を1000m級の山々に囲まれた大野盆地は、地下が水瓶のような地形で、山に降った雨や雪が地下に浸み込み、その水が市内に湧き出します。この大自然によって育まれてきた地下水が古くからこの地の文化を育ててきました。」

越前大野城の受付横にあるこの模型は二ノ丸御殿です。

 この説明文をみると、近世の平山城は山頂の本丸に藩主の居館を建てられず、麓に二ノ丸・三ノ丸が造られ居館となる御殿が建てられることが多いという。江戸時代になると、山頂の天守は施錠され入ることもほとんどなかったと言います。だから休憩所のところの曲輪に建物なども建てなかったのでしょう。

 さて、越前大野城を後にするが、受付で頂いた「越前おおのまち歩きマップ」で気になった「義景公園」へ行く。

ここは越前大野城から車で5分ほどのところにある。この場所は1573(天正元)年に織田信長との戦いに敗れた朝倉義景が自害した場所である。

 華やかな一乗谷の町からこの奥越前で朝倉義景が死去してここに墓所がある理由は何だろうか。

 織田信長との戦いで劣勢に立たされた義景に対し、従弟である朝倉景鏡が自分の故郷である大野に逃れて再起を図るように促したという。そこで大野郡の六坊賢松寺に逃れたところ、織田軍に通じた朝倉景鏡の襲撃に合い自害したという。一乗谷という都心から奥越前に逃れて自害することは誠に無念であったことだと想像に難くない。

この「義景公園」には「ふくいのおいしい水」に指定された「義景清水」がある。

ここで飲料用水として水をくめる。先ほど越前大野城で購入した水は、本日の気温が37℃であったことからすでに飲み干していた。ちょうどそれに水を入れてのんだ。「奥越前の水」とは違った味がした。やはり名水というのは場所によってちゃんと味が変わる。

さて、大野市の見どころはここで終わりなのだが、ぜひ紹介した場所がもう1つ。

大野市から車で40分強の池田町にある「かずら橋」。池田町は町の9割が森に囲まれている人口2300人(2023年現在)の町。この町は小学校に子どもを入学させると「マイ机」がもらえ卒業と同時に家庭の持ち帰ることができる。またアドベンチャーパークもあり、自然を生活にも観光にも生かしている町。

そこにある「かずら橋」は全長44m、高さ12mの天然のツルでできた吊橋。2007(平成19)年に四国旅行に行った際、時間の関係で行けなかった徳島県三好市にある「祖谷のかずら橋」。ここは平家落人が住んだという伝承がある。それと同じような「かずら橋」があってしかも福井市からも車で40分くらいの距離なので、ここは行こうと決めていた。

通行料は大人1名300円。一度払うとその日は何度でも通行可能だとか。この橋結構揺れる。そして板と板の間が結構広いところがある。足の横幅より広いすき間がある場所もあるので、足が突き抜けることはある。だが体が貫通してしまうことはないので安全上の心配はない。むしろ心配だったのは、デジカメやスマホを落とす可能性。せっかくこの福井旅行で得た写真を落とすことはできない。皆様も落とし物には注意です。橋を渡ったら気分は、平家落人でした。


丸岡城訪問記

2023-08-13 07:45:40 | 歴史

今回は、福井県坂井市にある丸山城訪問記をお伝えします。1575(天正3)年に織田信長が一向一揆を平定するために城を築かせることにした。その命を受けた柴田勝家の養子である勝豊は最初豊原に築城したが、1576(天正4)年に丸岡の地に移して築城した平山城がこの丸岡城です。

丸岡城の近くは図書館やふれあい広場などもあります。毎年10月には「丸岡古城まつり」が開催され、メインイベントの時代行列「五万石パレード」では鎧兜姿の武将が人形山車や子ども奴など総勢400人を従え練り歩くそうです。模擬店などもたくさん出店されるそうで、地元に親しまれている場所だということがわかります。

 丸岡城の天守閣は1934(昭和9)に国宝に指定されました。しかし、1948年(昭和23)年の福井大地震により天守閣が倒壊して国宝ではなくなってしまいます。そこで国の重要文化財に指定されたことから元の材料を生かして1950(昭和30)年に修復し再建されました。丸岡城は「北陸唯一の現存天守」と言われるが、国宝再指定に向けて再建されたことがネックになっていました。しかし、現在でも7割の部材が江戸時代の物が使われていることが調査で明らかになりほぼ往事の姿を留めていることが「北陸唯一の現存天守」と言われる所以で、地元民も「丸岡城天守を国宝に!」なることを切に願っている。

 ちなみに、このお土産物屋さん。「一筆啓上茶屋」と言われる。その名前の由来は「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という本多重次が陣中から妻に宛てた手紙にちなんでいる。それが故に「日本一短い手紙の館」という資料館も併設している。

丸岡城は入場料は大人1名450円。丸岡歴史民俗資料館の料金も共通です。

入場券がちょっと凝っていると思っていたら、坂井市丸岡町は織ネームや織テープなどの細幅織物の産地で、全国の7割を生産しているのだそう。タグやワッペンなど幅広く使われるだけに、このような入場券になったようです。入場券から興味を持たせるというのは面白い趣向だなと思いました。

受付の後ろはこのような広場になっています。

受付近くにある展示を見ると、この場所はもう本丸の1部だったことがわかります。

この受付の展示では丸岡城のポイントを学ぶことができるので、先に見ておくことをお勧めします。

このイメージ絵を見ると、受付の場所は埋門(うずみもん)と不明門(あかずのもん)の間の曲輪にあたります。駐車場は東の丸です。丸岡城を有する丸岡藩は5万石とそれほど多くないので城の規模も中規模である。しかし、18世紀初頭に藩主有馬氏は外様から譜代に格上げされ、老中も輩出する家柄であった。

さて、そろそろ天守閣へ向かいましょう。

天守への階段は非常に急で手すりもありません。登城の際は気をつけてください。

天守閣の屋根にある鯱。現在は木彫銅板張りのものが乗っていますが、1940(昭和15)年の修理の際は日中戦争中であり物資の銅が足りず石で屋根上の鯱が造られたそう。その鯱がここに展示されている。

では入場します。

復興天守や模擬天守ではなく現存天守なので、長野県の松本城のような急な階段です。防御施設だけに全然バリアフリーではありません。

本多重次と成重親子のイメージ図があるのは、1613(慶長16)年に本多成重がこの地に4万石を与えられたからです。丸岡城の城主は柴田豊勝(関ヶ原西軍に与したため没収)以降、今村氏(流罪)→本多氏(改易)→有馬氏と続いて版籍奉還・廃藩置県を迎えた。

 模型でみると中規模の丸岡城で、二ノ丸の御殿がかなり巨大であることがわかります。さらに城の内堀が全国的にも珍しい五角形の形をしている。天守の最上階からはこの特徴的な五角形の内堀が一望できそれは素晴らしい眺めであったと思われます。老中も輩出している藩だけに格式にこだわったのでしょうか。

丸岡城天守閣の最上階から西をみる景色です。遠くに連続高架橋が見えます。北陸自動車道は城の東側なので、あの連続高架橋は開通前の北陸新幹線です。2023(令和6)年春に北陸新幹線の金沢-敦賀間が開業しますが、もうほとんどできあがっていますね。

次に丸岡歴史民俗資料館に行きます。入場料で入れます。

この丸岡歴史民俗資料館の辺りは城の裏門だったようです。できればこの堀も再現してくれると城としての見栄えが格段にあがるのですが、もうすでに周辺が図書館などで開発されているので難しいですね。また、資料館の奥にある空き地にはこんな計画があるようです。

坂井市は2006(平成18)年に坂井町・春江町・丸岡町・三国町が合併してできた市です。ここに丸岡観光センターを作って旧丸岡町の観光掘り起こしを狙っているのでしょう。中世史にはあまり関係はありませんが坂井市と言えばここも有名な観光スポットです。

「東尋坊」です。この巨大な岩は、火山のマグマが冷えて固まってできた巨大な柱状の岩です。

私の世代だとサスペンスのエンディングで使われる場所のイメージで、船越英一郎と片平なぎさが登場しそうです。

その世代でなくても、この巨大な岩には圧倒されます。ぜひ坂井市や丸岡城に行った際には立ち寄って欲しい場所です。


朝倉氏一乗谷遺跡~西山光照寺・下城戸~

2023-08-12 19:51:35 | 歴史

一乗谷の町の外にある「西山光照寺」を訪れます。

 この寺院の台座が石垣でしっかりと作られている。おそらく発掘調査を基に石垣を復元したのだろう。道路の横にある白いアスファルトは中世当時の通路が発見された場所のようだ。

 西山光照寺はこの時代隆盛を極めた天台宗真盛派の大寺院だった。この寺院は朝倉一族の争いに敗れた鳥羽将景(朝倉孝景の叔父)の菩提を弔うために建てられ、盛舜上人によって再興されたと伝えられる。境内だった場所に至るところには大きな石組みの水路もあり、写真の場所はかなり大規模な山門があったと思われ、寺がかなりの規模であったことが物語られる。そしてこの写真の背後には、40体の大きな石仏が向かい合っている。

石仏の前は大きな池であったようだ。一乗谷史跡には石仏が多く存在する。故人の供養のために造られたと考えられ、戒名や生没年月日が記されたものも多くあると言う。一乗谷は町の外まで施設があり、かなり平和的に発展していたと考えられる。

 

次に、一乗谷の町の北出入口である下城戸。

下記写真は「下城戸」といって、一乗谷の町に入る門である。

 中世史跡は近世の城下町と違い戦乱の世のため防戦意識が高い。そこで、メインストリートも曲がっていたり、このように門の存在もある。その門の外に博物館の遺構展示室にあった石敷遺構があり、おそらく川湊として使われたものだとしている。外部から入ってくる人を直接一乗谷の町に入れない工夫なのだろう。

下城戸から少し南に入ったところ。現在の道路の下に往事の通路の遺構が見て取れる。ここにも側溝が見え、下城戸からすぐ近くの町の外れではあるが、しっかりと町が整備されていたことがうかがわれる。

町割りもしっかりとされているようで、一乗谷の発展振りがここでもうかがわれる。

この建物からは甕の跡が大量に発掘されている。これは町家群のような紺屋なのか、それとも食料倉庫だったのだろうか。

すこしずつ南に向かいます。

石組みの壁に側溝をまたぐ石段。これは誰かの屋敷なのだろうか。

かなり大きい石が使われているし、規模が大きい。ここはなにがあったのだろうか…と思うとちゃんと説明する看板があった。

この地区からは、複数の墓地跡や五輪塔があったことから寺院であったと推測された。しかも字(あざ)という住所が「雲正寺(うんしょうじ)」という名前であったことから、墓地跡から広がる雲正寺という寺院があったと想定されたと言う。何も文書がなくてもここまでわかるのだから、発掘調査に加えて、地元の伝承だとか地名って大事なんだと改めて認識した。

 では次に復元街並みの北側出入口に向かいましょう。


朝倉氏一乗谷史跡~義景館(2023)~

2023-08-12 19:13:45 | 鉄道

一乗谷史跡で最大規模の館。それが朝倉氏5代当主・義景の館である。


 土塁や濠を含めた敷地面積は10,628m2にも及ぶという。この館の外濠から荷札と思われる木簡が発見され、そのために義景館だとわかったのである。この上の写真は館背後にある山から撮影したものであるが、ここからでも義景館の広大さがよくわかる。写真の左下にあるガラス板は、館内の花壇や池庭を間近で見るための設備である。


 別稿で諏訪館庭園を紹介したが、この義景館にも東側山裾に庭園が発掘されている。庭園は大内氏館、大友氏館、朽木氏館、京極氏館、江間氏館などでも発見されているが、朝倉氏の庭園は素人目にもわかりやすいほど、文化水準の高さを感じる庭園になっている。発掘調査の成果とも言えるが、やはり100年もの安定した朝倉氏の治世が安定していたことによるだろう。

この池庭を再現したのが、博物館のこちらの写真である。こう見ると間近に屋敷があり、そこから眺める景色であったことがよくわかる。


池庭の上には水路がつながっていた。池庭には常に水が張ってあったのだろう。その導線も含めてかなり考えられた館である。



 次に館の中庭にある上記写真の草陰。これは庭園跡にある花壇跡。現存する日本唯一で最古のものであるらしい。

この花壇を再現したのが、博物館のこちらの写真である。写真は会所の縁側から撮ったものである。会所の来客が必ず見る眺め。朝倉氏が豊かな生活をしていたことだけでなく、客人をもてなす心もあった。そして、客人に文化水準の差を見せつけることにもなったと想定できる。

 館跡には2008(平成20)年にはなかった義景公墓所があった。この礼拝堂は2012(平成24)年に作られたそうだ。博物館の新設もそうだが、地道な発掘調査が研究推進を産み、ここまで中世遺跡を地元で盛り上げる結果となったことが本当に頭が下がる思いだ。


 敷地全体は広いが、建物は少し東方向に偏っている。これは、徐々に改築・増築されたものではないか(特に足利義昭下向時)といわれる。主殿・会所・台所・厩などなど、これが大名屋敷の規模なのだと考えると、能登畠山氏の七尾城の居館にもこのようなものがあったのだろう…と想像するだけでも楽しい。

 戦国大名の屋敷がこれほど詳しく発掘された例はないのではなかろうか。しかし、平面展示だけではなかなかイメージできない。そこで、一乗谷朝倉遺跡博物館に模型と一部復元がある。

 そういえば、この義景館は2007(平成19)年のNHK大河ドラマ「山本勘介」で使われた武田信玄の館のセットのつくりと似ている(山梨県北杜市にある風林火山館)。きっと参考にしたんだろうなぁ。この模型をみると、建物の密集度はかなりあるが、勝沼氏館のように「ハレ」(もてなしの空間)と「ケ」(生活の空間)の空間に分かれていることがわかる。



 義景の館の門は、当時のものを復元したものではない。松雲院の山門が移築されているといい、現在のものは江戸時代中頃に建てかえられたものだ。よく見ると、土塁と同じ高さであるし、門も大名屋敷にしては間口が狭い。平面復元もいいが、この義景館は復元されないのだろうか。大名屋敷をこの目で体感したいものだ。