畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

越前大野城訪問記

2023-08-13 10:33:30 | 歴史

今回紹介する城は福井県大野市にある「越前大野城」です。

 越前大野城は、四方を山々に囲まれた大野盆地の真ん中にある亀山城(標高249m)にある平山城です。「北登り口」「南登り口」「西登り口」と城への登り口が3ヶ所あります。南と西の登り口は大きな駐車場があります。北と南は緩やかな坂で登城できますが、西は急な階段が続きます。今回の私は時間があまり無かったので「西登り口」から登城しましたが、天守閣の正面の写真が撮れなかったので、余裕がある方は「越前おおの結ステーション」から登ることをお勧めします。ここんは、多目的広場兼駐車場のほか、物産販売所・藩主隠居所(休憩所)やまちなか観光拠点施設がある場所で、大野市が中心市街地活性化の核として整備しました。「結ステーション」の駐車場にとめて、大手門広場から写真を撮ると天守閣が正面から取れるビュースポットです。

「西登り口」の急階段はこんな感じです。この先もまだまだ階段が続いています。筋肉痛になりそう。

 急階段を登り終えて休憩所に着きました。ここはある程度広い平坦面があるので曲輪かと思いましたが、講堂や体育館からなる「学びの里めいりん」や「大野市民俗資料館」がある場所が二ノ丸・三ノ丸で、そこから上がってくるための枡形のような役割の場所のようです。やはり戦国時代と近世・江戸時代は仕組みが違いますね。

 休憩所に「土井利忠」の銅像がありました。土井利忠は大野土井家7代目藩主で、幕末期の44年の治世で藩政改革を成し遂げ財政再建を成し遂げたほか、4万石の小藩ながら藩校「明倫館」の開校、洋学校の開校、西洋医学の採用、西洋砲術の採用、蝦夷地開拓などを成し遂げたという。

 銅像の場所と同じ場所にある休憩所。この休憩所には「幕末の大野藩の偉業」という大看板が建っています。この看板は古そうなので、昔から土井利忠の偉業はここ越前大野城で伝えられているんだなと感じます。

休憩所を出て斜面を登ると石垣が現れました。

 遊具があるこの場所は「武具蔵跡(ぶぐくらあと)」です。この場所は本丸のすぐ下です。戦国時代だと、ここが本丸防衛の最終拠点になるのですが、そこは平和が長く続いた江戸時代。麓に二ノ丸・三ノ丸があるので、平時には山の上で扱いにくいこの場所は居住空間や防衛空間ではなく、武器の保管庫として役立ててたのでしょう。

いよいよ本丸に入ります。こちらのの門は模擬の薬医門です。ですが雰囲気もありますね。麓の二ノ丸の鳩門は光明寺に、不明門は真乗寺にそれぞれ移築されている。

武具蔵からは本丸がトイレに隠れて見られません。やはり「結ステーション」から登ればよかった…。

天守は1968(昭和43)年に造られた模擬天守です。石垣は江戸時代のものです。

越前大野城の入城料は大人1名300円です。

 越前大野城の最寄りは、電車ならJR越美北線の「越前大野駅」から徒歩で30分ほど。私は中部横断自動車道で行きました。「大野IC」から車で7分です。写真の遠くに最近開通した中部横断自動車道の福井県区間も写っています。中部縦貫自動車道は福井北JCTから大野ICまでは2017(平成29)に開通しました。さらに先の道路が2026(令和8)年までに開通し、東海北陸自動車道につながる予定で、大野市の交通の便もよくなる見通しです。

 模擬天守内は資料が展示されていますが、写真撮影禁止なので、最上階からの遠景の写真を。この最上階には「天空の城 越前大野城」という文字が貼られていますが、結構高さがあるなかでこの文字見えるんでしょうか?それともドローン用なのでしょうか。

 越前大野城はの築城者は金森長近です。1575(天正3)年に織田信長の命で金森長近と原政茂が大野郡の一向一揆を収束させました。その恩賞として、 大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えました。そして1576(天正4) 年に金森長近は大野盆地の中心にある亀山に平山城の城郭を造り、城下の防御施設とともに、商工業の発展も考えて麓に短冊状の城下町をつくりました。

その区割りが現在も受け継がれて、大野市の町は平安京のように短冊形になっているようです。

 越前大野城は「天空の城」という言葉をよく目にします。「天空の城」と言えば兵庫県にある「竹田城」が有名です。この「越前大野城」も標高249mとかなりの高さをほこり、隣の犬山城から雲がかかって天空の城に見えることから、そのように言われるようです。

私が訪れた日は、雲がなく「天空の城」になりませんでしたが、受付の売店で、「天空の城になっている越前大野城のプラモデル」が展示されていました。このような幻想的な写真が撮れると絵になりますね。

 さらに売店で「大野市限定商品 奥越前の水」が300円で売っていました。限定に弱い私はすぐに購入。でもなんで「水が特産」?と思っていたら、大野市のパンフレットに書いてありました。

「周囲を1000m級の山々に囲まれた大野盆地は、地下が水瓶のような地形で、山に降った雨や雪が地下に浸み込み、その水が市内に湧き出します。この大自然によって育まれてきた地下水が古くからこの地の文化を育ててきました。」

越前大野城の受付横にあるこの模型は二ノ丸御殿です。

 この説明文をみると、近世の平山城は山頂の本丸に藩主の居館を建てられず、麓に二ノ丸・三ノ丸が造られ居館となる御殿が建てられることが多いという。江戸時代になると、山頂の天守は施錠され入ることもほとんどなかったと言います。だから休憩所のところの曲輪に建物なども建てなかったのでしょう。

 さて、越前大野城を後にするが、受付で頂いた「越前おおのまち歩きマップ」で気になった「義景公園」へ行く。

ここは越前大野城から車で5分ほどのところにある。この場所は1573(天正元)年に織田信長との戦いに敗れた朝倉義景が自害した場所である。

 華やかな一乗谷の町からこの奥越前で朝倉義景が死去してここに墓所がある理由は何だろうか。

 織田信長との戦いで劣勢に立たされた義景に対し、従弟である朝倉景鏡が自分の故郷である大野に逃れて再起を図るように促したという。そこで大野郡の六坊賢松寺に逃れたところ、織田軍に通じた朝倉景鏡の襲撃に合い自害したという。一乗谷という都心から奥越前に逃れて自害することは誠に無念であったことだと想像に難くない。

この「義景公園」には「ふくいのおいしい水」に指定された「義景清水」がある。

ここで飲料用水として水をくめる。先ほど越前大野城で購入した水は、本日の気温が37℃であったことからすでに飲み干していた。ちょうどそれに水を入れてのんだ。「奥越前の水」とは違った味がした。やはり名水というのは場所によってちゃんと味が変わる。

さて、大野市の見どころはここで終わりなのだが、ぜひ紹介した場所がもう1つ。

大野市から車で40分強の池田町にある「かずら橋」。池田町は町の9割が森に囲まれている人口2300人(2023年現在)の町。この町は小学校に子どもを入学させると「マイ机」がもらえ卒業と同時に家庭の持ち帰ることができる。またアドベンチャーパークもあり、自然を生活にも観光にも生かしている町。

そこにある「かずら橋」は全長44m、高さ12mの天然のツルでできた吊橋。2007(平成19)年に四国旅行に行った際、時間の関係で行けなかった徳島県三好市にある「祖谷のかずら橋」。ここは平家落人が住んだという伝承がある。それと同じような「かずら橋」があってしかも福井市からも車で40分くらいの距離なので、ここは行こうと決めていた。

通行料は大人1名300円。一度払うとその日は何度でも通行可能だとか。この橋結構揺れる。そして板と板の間が結構広いところがある。足の横幅より広いすき間がある場所もあるので、足が突き抜けることはある。だが体が貫通してしまうことはないので安全上の心配はない。むしろ心配だったのは、デジカメやスマホを落とす可能性。せっかくこの福井旅行で得た写真を落とすことはできない。皆様も落とし物には注意です。橋を渡ったら気分は、平家落人でした。


丸岡城訪問記

2023-08-13 07:45:40 | 歴史

今回は、福井県坂井市にある丸山城訪問記をお伝えします。1575(天正3)年に織田信長が一向一揆を平定するために城を築かせることにした。その命を受けた柴田勝家の養子である勝豊は最初豊原に築城したが、1576(天正4)年に丸岡の地に移して築城した平山城がこの丸岡城です。

丸岡城の近くは図書館やふれあい広場などもあります。毎年10月には「丸岡古城まつり」が開催され、メインイベントの時代行列「五万石パレード」では鎧兜姿の武将が人形山車や子ども奴など総勢400人を従え練り歩くそうです。模擬店などもたくさん出店されるそうで、地元に親しまれている場所だということがわかります。

 丸岡城の天守閣は1934(昭和9)に国宝に指定されました。しかし、1948年(昭和23)年の福井大地震により天守閣が倒壊して国宝ではなくなってしまいます。そこで国の重要文化財に指定されたことから元の材料を生かして1950(昭和30)年に修復し再建されました。丸岡城は「北陸唯一の現存天守」と言われるが、国宝再指定に向けて再建されたことがネックになっていました。しかし、現在でも7割の部材が江戸時代の物が使われていることが調査で明らかになりほぼ往事の姿を留めていることが「北陸唯一の現存天守」と言われる所以で、地元民も「丸岡城天守を国宝に!」なることを切に願っている。

 ちなみに、このお土産物屋さん。「一筆啓上茶屋」と言われる。その名前の由来は「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という本多重次が陣中から妻に宛てた手紙にちなんでいる。それが故に「日本一短い手紙の館」という資料館も併設している。

丸岡城は入場料は大人1名450円。丸岡歴史民俗資料館の料金も共通です。

入場券がちょっと凝っていると思っていたら、坂井市丸岡町は織ネームや織テープなどの細幅織物の産地で、全国の7割を生産しているのだそう。タグやワッペンなど幅広く使われるだけに、このような入場券になったようです。入場券から興味を持たせるというのは面白い趣向だなと思いました。

受付の後ろはこのような広場になっています。

受付近くにある展示を見ると、この場所はもう本丸の1部だったことがわかります。

この受付の展示では丸岡城のポイントを学ぶことができるので、先に見ておくことをお勧めします。

このイメージ絵を見ると、受付の場所は埋門(うずみもん)と不明門(あかずのもん)の間の曲輪にあたります。駐車場は東の丸です。丸岡城を有する丸岡藩は5万石とそれほど多くないので城の規模も中規模である。しかし、18世紀初頭に藩主有馬氏は外様から譜代に格上げされ、老中も輩出する家柄であった。

さて、そろそろ天守閣へ向かいましょう。

天守への階段は非常に急で手すりもありません。登城の際は気をつけてください。

天守閣の屋根にある鯱。現在は木彫銅板張りのものが乗っていますが、1940(昭和15)年の修理の際は日中戦争中であり物資の銅が足りず石で屋根上の鯱が造られたそう。その鯱がここに展示されている。

では入場します。

復興天守や模擬天守ではなく現存天守なので、長野県の松本城のような急な階段です。防御施設だけに全然バリアフリーではありません。

本多重次と成重親子のイメージ図があるのは、1613(慶長16)年に本多成重がこの地に4万石を与えられたからです。丸岡城の城主は柴田豊勝(関ヶ原西軍に与したため没収)以降、今村氏(流罪)→本多氏(改易)→有馬氏と続いて版籍奉還・廃藩置県を迎えた。

 模型でみると中規模の丸岡城で、二ノ丸の御殿がかなり巨大であることがわかります。さらに城の内堀が全国的にも珍しい五角形の形をしている。天守の最上階からはこの特徴的な五角形の内堀が一望できそれは素晴らしい眺めであったと思われます。老中も輩出している藩だけに格式にこだわったのでしょうか。

丸岡城天守閣の最上階から西をみる景色です。遠くに連続高架橋が見えます。北陸自動車道は城の東側なので、あの連続高架橋は開通前の北陸新幹線です。2023(令和6)年春に北陸新幹線の金沢-敦賀間が開業しますが、もうほとんどできあがっていますね。

次に丸岡歴史民俗資料館に行きます。入場料で入れます。

この丸岡歴史民俗資料館の辺りは城の裏門だったようです。できればこの堀も再現してくれると城としての見栄えが格段にあがるのですが、もうすでに周辺が図書館などで開発されているので難しいですね。また、資料館の奥にある空き地にはこんな計画があるようです。

坂井市は2006(平成18)年に坂井町・春江町・丸岡町・三国町が合併してできた市です。ここに丸岡観光センターを作って旧丸岡町の観光掘り起こしを狙っているのでしょう。中世史にはあまり関係はありませんが坂井市と言えばここも有名な観光スポットです。

「東尋坊」です。この巨大な岩は、火山のマグマが冷えて固まってできた巨大な柱状の岩です。

私の世代だとサスペンスのエンディングで使われる場所のイメージで、船越英一郎と片平なぎさが登場しそうです。

その世代でなくても、この巨大な岩には圧倒されます。ぜひ坂井市や丸岡城に行った際には立ち寄って欲しい場所です。


朝倉氏一乗谷遺跡~西山光照寺・下城戸~

2023-08-12 19:51:35 | 歴史

一乗谷の町の外にある「西山光照寺」を訪れます。

 この寺院の台座が石垣でしっかりと作られている。おそらく発掘調査を基に石垣を復元したのだろう。道路の横にある白いアスファルトは中世当時の通路が発見された場所のようだ。

 西山光照寺はこの時代隆盛を極めた天台宗真盛派の大寺院だった。この寺院は朝倉一族の争いに敗れた鳥羽将景(朝倉孝景の叔父)の菩提を弔うために建てられ、盛舜上人によって再興されたと伝えられる。境内だった場所に至るところには大きな石組みの水路もあり、写真の場所はかなり大規模な山門があったと思われ、寺がかなりの規模であったことが物語られる。そしてこの写真の背後には、40体の大きな石仏が向かい合っている。

石仏の前は大きな池であったようだ。一乗谷史跡には石仏が多く存在する。故人の供養のために造られたと考えられ、戒名や生没年月日が記されたものも多くあると言う。一乗谷は町の外まで施設があり、かなり平和的に発展していたと考えられる。

 

次に、一乗谷の町の北出入口である下城戸。

下記写真は「下城戸」といって、一乗谷の町に入る門である。

 中世史跡は近世の城下町と違い戦乱の世のため防戦意識が高い。そこで、メインストリートも曲がっていたり、このように門の存在もある。その門の外に博物館の遺構展示室にあった石敷遺構があり、おそらく川湊として使われたものだとしている。外部から入ってくる人を直接一乗谷の町に入れない工夫なのだろう。

下城戸から少し南に入ったところ。現在の道路の下に往事の通路の遺構が見て取れる。ここにも側溝が見え、下城戸からすぐ近くの町の外れではあるが、しっかりと町が整備されていたことがうかがわれる。

町割りもしっかりとされているようで、一乗谷の発展振りがここでもうかがわれる。

この建物からは甕の跡が大量に発掘されている。これは町家群のような紺屋なのか、それとも食料倉庫だったのだろうか。

すこしずつ南に向かいます。

石組みの壁に側溝をまたぐ石段。これは誰かの屋敷なのだろうか。

かなり大きい石が使われているし、規模が大きい。ここはなにがあったのだろうか…と思うとちゃんと説明する看板があった。

この地区からは、複数の墓地跡や五輪塔があったことから寺院であったと推測された。しかも字(あざ)という住所が「雲正寺(うんしょうじ)」という名前であったことから、墓地跡から広がる雲正寺という寺院があったと想定されたと言う。何も文書がなくてもここまでわかるのだから、発掘調査に加えて、地元の伝承だとか地名って大事なんだと改めて認識した。

 では次に復元街並みの北側出入口に向かいましょう。


朝倉氏一乗谷遺跡~博物館(2023)~

2023-08-12 14:16:43 | 歴史

 

2022(令和4)年10月1日に、「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」が開館した。その博物館にどうしても訪問したくて2023(令和5)年8月に訪問してきた。2008(平成20)年の訪問記と合体させて、2023年Verとして訪問記を記す。

2008(平成20)年には歴史友達の武藤様とご一緒して訪問。2023(令和5)年は我が正室と訪問。

一乗谷朝倉氏遺跡は1967(昭和42)年から発掘調査が行われた。1971(昭和46)年には一乗谷城を含む278haが国の特別史跡に指定された。

 上記写真には、新しい博物館である「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」(左)と、旧「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」(右)がある。現在の旧資料館は、博物館の分館として「公開書庫・収蔵展示」や講堂などがある。

 上記写真は2008(平成20)年当時の「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」である。当時は入館料が100円だったが、現在の「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」の入館料は700円である。しかし値段にあった展示がある。

 まず1つ目が、この「遺構展示室」である。博物館の建設に伴う事前発掘調査で見つかった石敷遺構をそのまま展示している。この博物館は一乗谷町の玄関である下城戸の外にある。このような屋内の露出展示(発掘された遺構をそのまま展示)は平城京の遺構資料館で見られるものと同じである。

 2つ目は、充実した基本展示である。

写真は城下町のジオラマである。実物の1/30で作られており、低い所から写真を撮れば下の写真のように、当時の目線を感じ取れる。さらに手前のモニターではストリートビューのように360°視点で見られる資料もあり、ジオラマをふんだんに活用した展示が面白い。その他にも遺跡の出土品や、古文書資料などの展示もあり、朝倉氏と一乗谷の歴史を詳しく感じられる。古文書などだけの文書史料でも貴重なのに、これほど豊かな遺構や遺跡が出てくる中世遺跡はない。それゆえ、中世史跡でも最先端の発掘調査史跡と言える。

3つ目は、充実した義景館の部分再現である。

屋内に館の全てを再現するのは不可能であるので、部分再現になっている。安土城も部分復元されていて資料館に展示されているが、それと似たような展示の仕方である。

上記写真は義景館の内の中庭にあった花壇の再現である。

上記写真は義景館の会所である。この会所から花壇が見える設計になっている。ここには15代将軍になった足利義昭も訪れて、花壇を愛でていたのであろう。

写真中央が花壇。左側の建物が会所。そして屋内通路で続く場所が主殿である。

池庭は小座敷と泉殿に隣接している。会所で会う前に待たせる人を案内した場所だろうか。

これが義景館の全景模型である。義景館については別稿で述べるが、平面展示の館跡をこのように復元展示で見られることは実に中世の想像を豊かにしてくれる良い資料である。

そして4つ目が充実した企画展と刊行物である。

私が訪れた2023(令和5)年8月は「開館1周年記念 朝倉義景没後450年記念特別展 朝倉義景の一生~列島を俯瞰する外交戦略~」という企画展を行っていた。

 企画展を行うと、その展示内容の図録をちゃんと刊行物として販売する。そして旧「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」時代から合わせると上記の図録が並ぶ。参考にしたい図録が山ほど存在する。企画展の図録は残部があれば過去の分も販売されるが、すでにこの中の1/3は非売品になっていた。私は15年振りの再訪となったが、再び訪れて欲しい図録を買えてよかった。

 この日は博物館に着いたのが丁度12時だったので、博物館のレストランで昼食。これがまた戦国っぽい豪華なメニューでした。

 このようにお品書きまであると、まるで朝倉氏に歓待された客人のように思えます。ぜひ一度レストランにも立ち寄ってみて!

 一乗谷朝倉氏遺跡博物館の最寄り駅は「JR九頭竜線」の一乗谷駅です。博物館開館にあたってリニューアルされ駅の柵や待合室もキレイになっていました。

ただし、電車の本数が1時間に1本なので電車で行く際には必ず行き帰りの時刻を計算しましょう。ちなみに博物館までは駅から歩いて2分の好立地。


後瀬山城訪問記

2023-08-12 07:31:48 | 歴史

  今回は若狭武田氏の城である後瀬山城(のちせやまじょう)を紹介します。

後瀬山城は1522(大永2)年に若狭武田氏5代の武田元光によって築かれました。能登畠山家7代当主・畠山義総が七尾府中にある守護所から七尾城山へ居館を移したのが1526(大永6)年頃と若狭武田氏とほぼおなじ時期に行っています。そう考えると、能登畠山氏と若狭武田氏には様々な共通点が見られます。守護大名から戦国大名になろうとしている。幕府への積極的な関わり、文芸に深い関わりなどなど、後瀬山城を見ることが七尾城への見識にもつながると思い登城して参りました。

愛宕神社の駐車城に車を駐めて後瀬山遊歩道を登ります。

 最初からかなりハードな石段が見えます。

 

鳥居のすぐ横に「史跡後瀬山城跡」の看板があります。私はここでパンフレットを取り忘れました。あとで写真を見てみるとしっかりポストが右下に見えます。いくら史跡にワクワクしてもパンフレットの入手を忘れると後悔します。みなさんはお取り忘れないよう。

階段がある場所は歩きやすいですが、傾斜が急でかなりの崖が続くので、防御施設としての後瀬山城はかなり堅固だと思います。

5分登っただけでもうこの景色。でもまだまだ先が続きます。本丸まであと20分。

階段がない場所も多数あります。そういう場所は落ち葉がけっこう多く滑りやすいです。雨の日の登城は厳しいかも知れません。

 右手側に曲輪群が見えてきました。左手側は崖で、3重の曲輪が行く手を遮ります。木が多いのであまり曲輪を撮った写真をみても平坦面に見えませんが、かなり防御が固い城だと思いました。

 3重の曲輪群が見えていよいよ本丸か・・・

本丸へ続くさらなる曲輪群が侵攻者を遮ります。

このあたりの土塁はかなり見応えがあります。先ほどの3重曲輪群といい、かなりの防御力を誇っています。

下に見ても通路の高さに対して曲輪の高低差がくっきりとわかります。往事はもっと造営して高低差もあることを考えるとなかなか見応えのある城郭です。ただし、平時の拠点は麓の守護居館だったようで七後瀬山城はあくまで防衛の拠点です。曲輪自体も生活拠点となるほど大きなものはありません。そこが七尾城との違いでもあります。

 写真は本丸に接続する曲輪への枡形です。まるで門まで見えてきそうなぐらいハッキリ分かる形です。枡形の中に大きな石が見えます。石垣なのか礎石なのか気になるところです。この当たりから本丸にかけて大きな石がたくさん見受けられます。後瀬山城は若狭武田氏が滅亡した後は、丹羽長秀や浅野長政、木下勝俊が入城して城主になっています。関ヶ原の戦い以降に入部した京極高次によって小浜城に移り廃城になったと言われます。なので、この枡形や石垣は丹羽などの安土桃山期に造成された可能性もあります。

 さて枡形から曲輪に上がると真っ先に目立つのが窪みです。これはため池でしょうか?

広い曲輪の中心には火起こしの後が。地元のイベントでも使われているのでしょう。さて、本丸まであと8分。さらに登ります。

ピンぼけしている写真ですが、大きな石があります。これは石垣に使われた写真でしょうか?

後瀬山城は本丸が168mの場所にあります。本丸からは眺望がよくなかったので、本丸手前のこの曲輪から良い景色が見えました。

いよいよ本丸が見えてきました。本丸には大きな石が使われている石垣が見えます。

この規模だとことは安土桃山期の城主が整備したものでしょうか。本丸前に四菱の旗があり武田氏家紋があるのが嬉しいです。七尾城にも二引両の家紋の旗がたくさんほしいなあ。

本丸に到着しました。武田城址の石碑と、休憩所と愛宕神社の建物があります。それからけっこうしっかりした石垣がありますが、これは主殿と他の建物を隔てるための壁の基礎だと思います。

休憩所にある看板に、二ノ丸の山上御殿のイメージ図がありました。二ノ丸は本丸と同じ平坦面の面積があるそうですが、下の写真を見てもわかる通り、降りる場所が見当たりません。

そこでこの崖の下の写真をアップにした写真があります。例によってブレていますが・・・

本丸よりさらに大きな石がゴロゴロしていました。これは武田氏より後に入城した丹羽長秀や浅野長政、木下勝俊らが造成したもののようです。今後この二ノ丸まで行けるようにしてほしいなと思います。

山上御殿は1988(昭和63)年に発掘調査されています。この後瀬山城入口の看板の写真をみると石敷もみえますので、結構しっかり整備していたことがうかがえます。

こちらの写真は後瀬山城の麓にある空印寺です。うしろにある山が後瀬山です。この寺は若狭武田氏の居館跡に建てられたものだそうです。

この広い平坦面が、武田氏の守護居館跡地です。

この空き地はかつて、この設置された看板によると小浜小学校の跡地だそうです。空印寺を含めて居館跡だったようです。堀に囲まれた一辺100mほどの大きな居館があり、武田氏の政治の中心になっていたようです。

 この空き地は史跡公園として整備される予定だそうです。堀はこのイメージ図を見ると、水が張ってあり石垣もあったようです。土塁に囲まれたところに唐門がありますが、このイメージ図をみると朝倉氏一乗谷史跡の義景館の門を参考にしているようですね。早く整備してほしいなあと思いますが、このイメージを見ると主殿や会所などは発掘されていたのかな・・・と思います。きっと建物群は今の空印寺の部分にあったのかなと思います。

次に「福井県立若狭歴史博物館」に行きました。後瀬山城から車で7分ほどの距離です。若狭全体に関する博物館なので、若狭武田氏がメインではありませんが、常設展でも中世の事や武田氏の事もちゃんと取り上げています。

しかし、このような企画展も度々催しているのでぜひ寄ってほしい施設です。若狭武田氏は、京都に近く室町幕府ともかなりの関わりがあります。その点で能登畠山氏との共通点も多く、非常に参考になります。