畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

杉山城訪問記

2021-07-30 13:41:00 | 歴史

今回は、埼玉県比企郡嵐山町にある「杉山城」を訪問しました。



 杉山城は、2008(平成20)年に国指定史跡に指定されました。そのためか、広い駐車場も整備されているばかりではなく、発掘調査に基づいて空堀や曲輪などがきちんと整備されていて見どころが多いです。


 駐車場を探す際の注意事項があります。車のナビ通りに入ろうとすると、中学校に入ってしまう可能性があります。

 杉山城は玉ノ岡中学校の敷地内にあり、道順が整備されていなかったり、看板が整備されていなかったら、入ることを躊躇してしまうような場所です。校門にしっかりと、杉山城の案内が出ているので、安心して入れます。


がっつり中学校の中を通って移動します。


 史跡に隣接する中学校は、史跡の整備を学習活動として行っているようです。中学生にとっては「面倒だな・・・」と思うような活動かも知れませんが、やっているうちに歴史にハマる人もいると思いますので貴重な活動だと思います。



 ここが中学校と史跡との境界で、入口です。



 史跡の入口では中学校の畑になって農作物を育てていました。史跡を色々活用することは、歴史の入口としてとても良いと思います。その他にも中学校で、史跡の道にウッドチップを置くなどの保存整備活動もしているようです。

 入口に案内所がありました。100名城のスタンプなどがあるんですね。この日はお休みでした。

 案内所がお休みでもパンフレットはもらえるようです。

看板のアップです。

縄張図ののアップ。かなり本格的な城郭です。



まずは出郭です。

 大手口から入ります。広い郭ですが、出郭は本格的な枡形や空堀があります。奥に見える看板が大手口。写真左奥が空堀です。

かなり落差のある大手口。

守りは相当堅いです。


外郭に入りました。ここと南二の郭とは土塁で落差があります。

さらに、外郭から馬出郭。ここにも空堀や土塁でかなりの落差。

 写真を見ると相当ハッキリとわかる形に整備されています。発掘調査でわかった空堀と土塁をちゃんと整備している点が歴史好きにとって良いです。



馬出郭から外郭方面を見ています。

 看板の写真をみるとたくさん木があります。しかし実際には木がありませんでした。当時の風景や景観を守るために伐採したようです。夏に山城を訪問する時には木があると木陰で涼しくて良いように思えますが、伐採してあると城全体の構造がよくわかります。



外郭帯郭状土塁です。

 やはり木が伐採してあるので他の郭との関連性が見て取れます。これに板塀などがあればかなり堅固な城になりますね。杉山城の規模さすが。



外郭から南二の郭に入ります。

この郭から中学校の校舎をみると、かなりの高低差が見えます。中学校の門からわずか10分。城の入口からわずか5分ほどの場所でこの高低差。



南二の郭と南三の郭の間には「食い違い虎口」があります。

 こんな細かな枡形を作るのはさすが後北条氏の城郭だな・・・と思いました。しかし最初みたパンフレットに後北条氏の城郭ではないと書かれています。

「杉山城跡はこれまで高度な築城技術から『後北条氏の城』として広く認識されていましたが、学術的な裏付けはありませんでした。そこで嵐山町では『比企中世遺跡検討委員会』の指導を得て平成14年度から18年度にかけて5次の学術発掘調査を実施しました。その結果、城跡の年代が15世紀末から16世紀前半であり、後北条氏の時代ではなく、それ以前の関東覇権をめぐる山内・扇谷両上杉と古河公方による三つ巴の抗争が繰り広げられていたなかで山内上杉氏により造られた城であったことがわかりました。」

と書いてありました。城跡を訪れるとすっかりその見事な構造に後北条氏の城郭だと思いましたが、それ以前の時代にこれほど大きな城郭を造るとは、杉山城は山内上杉にとってかなりの戦略的拠点だったのだと改めて思いました。



南二の郭から本郭を臨みます。大きな木が伐採されずに残っていました。ここまで木陰はこれくらいなので、一息つくのにはいいかもしれません。

切り株がたくさんあったので、伐採している様子がよくわかります。整備された山城はこのように伐採が進んだ方が城の形がよく理解できます。七尾城も眺望のために木の伐採をすすめるようです(2021年現在)。




本郭への道には東二の郭、東三の郭への道もあります。

 ここはあまりジグザグの道になっていません。東郭の看板の説明にも「自然の地形のまま」と書かれています。自然な高低差はあるので、ここからの進軍はあまり想定していなかったのかもしれません。



 いよいよ本郭です。ここには「杉山城址」の石碑と、昭和61(1986)年に設置された看板があります。平成時代に整備される前から城址の守っていたものですね。
 本郭は平成の発掘調査で、大量の焼けた壁土とコマイの炭化竹がでたそうです。コマイとは壁に組んだ下地で今で言えば鉄筋のような役割ですね。本郭には建物がたくさんあったのだと思われます。他にも出土品として「輸入陶磁器(白磁・青磁など)」「国産陶器(瀬戸美濃・常滑)や「カワラケ」「石製品(硯・石臼・砥石)」や銭貨・釘などが発掘されたそうです。


本車の南西には井戸郭があります。南二の郭とつながっていたようですが、

かなりの高低差の空堀があって行く手を阻んでいます。


 本郭は、井戸郭虎口、北郭の虎口、南・東郭の虎口と3つの入口すべてに堅固な虎口を築いています。これが戦国中期の城造と思うとかなりに時間と費用をかけたと思います。山内上杉の本気の整備を見た気がします。



本郭から北二の郭へ向かいます。北郭だけ木が生い茂っています。

北二の郭と北三の郭の間にある空堀です。木が沢山生い茂っているのを見ると、杉山城の中でこのあたりは発掘調査がされてないのだと思います。空堀も埋まっているので高低差が緩やかです。北三の郭は、搦手口に接する郭でとても大きいので、防衛施設(櫓など)がたくさんあったのかな・・・と想像します。


 これは北三の郭から続く、搦手口(裏側出入口)です。写真の手前右側の土塁は北三の郭です。搦手口は少し広い郭がありますが、しっかりと虎口を配置して城の防備を固めています。

 搦手口からは一直線の登山道を降ります。これは当時の道と言うよりハイキングコースのようなものでしょうか?

 これが現道から搦手口への道です。2001(平成13)年に設置された看板がありました。この写真を撮った位置は駐車場から歩いて5分くらいの場所です。大手道から入り搦手口から降りるルートが一番見学に適していると思われます。
 ただ私は、井戸郭の「井戸跡」を見逃しています。大きな石があったようなので、とっても見どころだったようなので残念です。


近場のお勧めです。

武州めん本店です。自家製めんがおいしすぎるうどん屋さん。麺にコシがしっかりとあり、とても食べ応えがあります。
杉山城から車で15分です。

夏季限定の「生姜うどん」です。大盛りで麺600gでかなりボリュームあり。

レギュラーメニューの肉うどんです。

もうひとつは「道の駅おがわまち」です。
物産店に「切り落としミルクレープ」があり、取ってもお値打ちでした。写真が撮るの忘れた。取り合いになっており、私はゲットできませんでした。
「埼玉伝統工芸館」という資料館があります。2021(令和3)年4月から入場無料になりました。埼玉伝統の和紙についての展示がメインでした。和紙関係のお土産ものが有名です。私のお土産はコレ。

コエドビール買っちゃいました。

畠山義隆は家督を継いでいない!

2020-07-25 19:09:00 | 歴史
本日の更新で「畠山義慶特集」と「畠山義隆特集」のかなりの部分を更新しました。

 2018年に刊行された『加能史料戦国16』で畠山義慶の没年が1576年と明らかになりました。従って1574年での畠山義隆の家督相続は誤りであり、畠山義隆の実在性がかなりゆらぐことになりました。
 2年前にその事実に気づいていたのですが本業が忙しく更新をサボっておりましたが、今回ちょっと時間があったので大幅に整理をし直してみました。まだそれに関連する特集で変更できていない所がありますが、徐々に更新していく予定です。

他にも近年でサイトの内容が大きく変化している所があります。
名称変更
「義綱の能登奪回計画」→「能登御入国の乱」(1568年)
内容変更
「能登天文の内乱」→「七頭の乱」(1550年)

と少しずつではありますが、内容が最近の研究に合わせてきました。
また、西谷内畠山氏の内容も近年の研究を踏まえて更新せねばと思っているところがあります(私の勘違いで、幕府近習の畠山の人物を西谷内畠山氏に比定してしまっていたので)。また、徐々にサイトを更新していきますので、以前ご覧になった閲覧者様も再度見てくださると嬉しいです。

冨樫関係で行きたいところ

2020-05-30 20:55:00 | 歴史
『冨樫館跡』の発掘調査報告書をみたことで、冨樫熱が再発。

2020年は冨樫晴貞没後450年記念でもあるので、冨樫関連で行きたいところをまとめておきます。

(1)御廟谷
高尾城からほど近いところにある冨樫氏の墓と供養塔。かなり藪が多くて入れないような感じだと思っていましたが、他の方のサイトなどを見ると行けなくもなさそう。ただし遊歩道とはいってもかなり道はキツいようなので、運動靴などの準備をしたいと思う。夏に行くとヤブ蚊や藪で大変かもしれませんね。

(2)高尾城
昭和年間に土砂を取ったことからほとんどその遺構がなくなったと思われていたが、まだまだ遺構が残っていることが発掘調査でわかってきている。石川県の教育委員会の建物と民有地なので、あまり見所はないかもしれないとも思っています。

(3)山川三河守館跡
以前その周辺を訪れたが、痕跡も看板もなく写真だけ撮った。最近になって看板が設置された。これは写真に収めておきたい。

(4)旧大乗寺跡
ここも現在は石碑しかないが、冨樫館からのおおよその距離などを測っておくためにも訪れたい場所。そして、現・大乗寺にも行きたいな・・・と思う。

(5)伝灯寺
 冨樫晴貞自刃の地。墓もある。冨樫館からどのくらいの距離を逃亡したのかそれもこの目で納めておきたい。

あとは、再訪にはなるが、「冨樫館の堀跡」「冨樫館跡石碑」「野々市ふるさと歴史館」にはまた行っておきたい。一向一揆関連の史跡になるが2001(平成13)年以来になるので鳥越城や一向一揆資料館にも再訪したい。

能州で廻りたいところin2020

2020-03-15 19:34:00 | 歴史
新型コロナウイルスで思わぬ余暇時間が・・・。

能州で廻りたい所を整理します。

今まで能登に行ったのは
1回目 1998(平成10)年
2回目 1999(平成11)年<遊佐きむち守様とご一緒>
3回目 2000(平成12)年<長対馬守続連様とご一緒>
4回目 2002(平成13)年
5回目 2005(平成16)年<林六郎光明様とご一緒>
6回目 2008(平成19)年<能登畠山氏創世600周年記念・武藤様とご一緒>
7回目 2015(平成26)年<職場のみんなと>
8回目 2018(平成29)年<能登立国1300年祭・武藤様とご一緒>

と実に8回訪れていました。記憶を辿るだけなのでもう1回くらいあった気も・・・

では、次に次に訪れたい場所を列挙します。

(1)七尾城
もう8回は行っていますが、能登旅行でここだけは絶対に外せません。

(2)城関係
「松波城」「甲山城」「正院川尻城」「棚木城(遠島山公園)」「穴水城」「西谷内城」
※左から行きたい順

(3)その他
「松波城ガイダンス施設」「萬福寺」「のと里山里海ミュージアム」
「穴水歴史民俗資料館」「珠洲焼資料館」「総持寺祖院」「和倉温泉(総湯)」

(4)能登の食
「能登ワイン(穴水町)」「マルガージェラート(能登町)」「風傍(穴水町)」

だいぶ行きたい所が減ってきました。でもまだまだ色々廻りたい。

菅谷館再々訪記

2020-02-17 04:44:00 | 歴史


今回は、1998(平成10)年、2008(平成20)年と訪問し、今回2020(令和2)年に3度目の訪問となった菅谷館の訪問記をお届けします。



3度目の訪問を決めた理由は「埼玉県立嵐山史跡の博物館」に行きたかったからです。

 2019(令和元)年11月30日~2020(令和2)年2月16日まで同博物館で行われていた企画展「戦国大名は如何にして軍需を調達したか」を見たかったからです。

この企画展の最終日である2020(令和2)年2月16日に訪問すると、企画展の展示を担当した学芸員の解説付きという特典付きの日でした。その企画展の様子は、別の機会に譲るとして、菅谷館の訪問記を書きます。


 菅谷館跡は「埼玉県立嵐山史跡の博物館」の駐車場と同じ位置にあります。たくさん車が駐車できるし、平地の居館なので見学しやすい史跡です。
 菅谷館の古文書上での初見は、1187(文治3)年の鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』のみに出てきます。それによると、畠山重忠が身に覚えの無い謀叛の疑いをかけられ、「武蔵国の菅谷館」に引きこもって身の潔白を訴えたというものです。1205(元久2)年にも「菅屋」という記述が見られ、菅谷のことかと思われます。また、1488(長享2)年に山内上杉と扇谷上杉の対立から「須賀谷原合戦」が起きたと言われ、その「須賀谷」は「菅谷」のことで、近くで合戦が行われたことが示されます。しかし、1187(文治3)年以降古文書で明確に城主が確定できる資料はないようです。しかし、ここで見ていくようにとても大きな館であるのは間違いありません。江戸時代に廃城になるために、図面が書き起こされますが、その図面と現在の形状が一致する珍しい城とも言われ、現代でも戦国時代の面影を色濃く残した城なのです。


では具体的に館を見ていきましょう。

 駐車場にある館の全体図です。このプレートを見ると、どこが見るべきポイントなのかわかいますね。

ちなみに駐車場の入口は、館の搦手門だったことがわかります。門の幅は7mです。



 では博物館がある「三ノ郭」から見ていきます。博物館の南の出入口を出ると、平面展示の掘立柱建物跡があります。

これは井戸跡だそうです。言われないとわからないですね。たんなる凹みだと思ってしまいます。三ノ郭では、建物跡が4棟、井戸跡が3ヶ所発掘調査で見つかったそうです。ちゃんと発掘調査がされているのが「三ノ郭」ですが、そこからは15世紀後半から16世紀前半の遺物が中心で、ここが鎌倉時代の遺構ではないだろうと思われます。


 館から東側に来ました(この地図は南が上です)。この入口は公園としての入口で当時からあるものでは無いようです。

「二ノ郭」に簡単に侵入されないための空堀の道です。最初は土塁もたいした高さじゃないなぁと思いましたが・・・

写真は右に行くと「二ノ郭」へ。奥は「本郭」です。本郭の堀と土塁はかなりの高低差があります。


「ニノ郭」から「本郭」への分岐点です。

「本郭」の虎口です。この虎口は堀と土塁で守られています。

左が「二ノ郭」で右は「本郭」です。本郭の方が土塁が高く守りが堅い事がわかります。


では本郭に入ります。

本郭には鎌倉時代の畠山重忠の館があったと考えられるようです。が、本郭の発掘調査はされていません。

この石標ですが、なんと書いているかよくわかりません。その理由は後ろを見ると「昭和廿一年」の文字が。おそらく1946(昭和21)年に菅谷館の城址として建てた石碑なのでしょう。


本郭にある南口の虎口です。

ここから土塁→堀→土塁となって、「本郭」から一段低い「南郭」へとつながる。


南郭は東西に長い。

この「南郭」から「本郭」と「二ノ郭」に行けるので、防御を固めなければいけない場所。それゆえ、一段低く周りから攻撃がしやすい地形になっている。

この「南郭」からつながる町道が台風で崩落したため通行止めになっていました。


ここから「二ノ郭」に行きます。

「二ノ郭」への土塁は二段になっていました。ここから波状攻撃をしかけるためでしょう。本郭への防御も含めてかなり防御が硬いですね。これは鎌倉時代の畠山重忠が作った館をかなり改変していると言えます。おそらく、1488(長享2)年にあった「須賀谷原合戦」から考えると、山内上杉と扇谷上杉のどちらかの拠点だったのであろうと考えられます。



現在は「二ノ郭」にいます。写真の右には「本郭」があります。やはり二ノ郭より一段高いです。そして空堀もあるのでかなりの高低差があります。

そしてこの堀には「出枡形土塁」があります。「二ノ郭」に対して。「本郭」が凸状に突き出た土塁になっています。これにより、「二ノ郭」に侵攻してきた敵を効果的に攻撃することができます。


二ノ郭と三ノ郭の間にある「畠山重忠」の像がある場所です。

「畠山重忠」の像は菅谷館での一番の見所です。お見逃し無く。2008(平成20)年に撮った写真は、夏だったので木々が全体的に生い茂っていて写真も暗かったのですが、今回は2月の訪問なので、木々が落葉していて、写真が明るいです。


像のあるところから「三ノ郭」方面を見ています。水堀があります。おそらくこれは公園としてため池にしたので、本来は空堀だったと思われます。もっとも雨が降っていたときには水も堀にたまったかもしれませんね。

ため池があるのはこの辺りです。


「三ノ郭」です。博物館があるのが「三ノ郭」なので戻ってきました。と言ってもかなり広いので、三ノ郭の西側部分です。この写真の郭も土塁に囲まれています。


「三ノ郭」から「西郭」を見ています。しかし、写真から「西郭」がうかがえません。それは西郭が一段低くなっていることと、低い土塁を配すことで、視線を遮る効果があるようです。このような土塁をこの館跡では「蔀土塁」(しとみどるい)と読んでいます。


 この「三ノ郭」と「西郭」は大きな堀があり、木橋が想定復元されています。ここが畠山重忠像に次ぐ見所です。そして三ノ郭側には門があったようです。正てん門(てんは常用漢字ではないので表示できず)という門もあったようです。かなり防御にすぐれた館です。

 横から見た木橋です。1998(平成10)年にはもうありましたが、段々木が劣化してきています。ただし橋の肝心な部分は木に似せてコンクリートになっているので、八王子城の木橋のように「劣化したから通行止め」なんてことにはならなそうです。


 これが「三ノ郭」と「西郭」の間の堀です。かなりの大きさです。大きな木が倒れています。おそらく2019(令和元)年の台風19号でかなり災害があったのでその影響かもしれません。
 全体的に12年前の2008(平成20)年に訪れた時より多くの樹木が切られていました。もちろん木々が無い方が全体的な地形が見れて良いのですが、「景観のために木々を切った」なら良いですが、「災害で木々が倒れて切らざるを得なくなった」としたら辛いですね。


「西郭」の南側を見ています。堀はありますが土塁がありません。やは侵入される側の郭は攻撃しやすさを考えて配置されているようです。かなりの構造をもった館です。



 「西郭」から外につながる道路です。私は3度目にもかかわらず駐車場の入口を間違ってしまい、館跡を大回りしてもう一度入りました。その時に、この西郭側の入口に駐車場がある事に気づきました。そして、文献によるとこの入口こそが「大手門」(表門)らしいです。駐車場の入口は搦手門(裏門)ですから、当然大手門もあるわけですが、まさかこんな小さな所が・・・。


では博物館に戻りましょう。

博物館の正面から入った所です。

ロビーでも企画展をやっており、この辺りの比企郡の展示をしていました。

そして菅谷館の模型もあります。ただこれは現代の姿の模型です。安土城や岐阜城でみたような復元CG模型があるといいなあと思います。


2008(平成20)年にこの博物館を訪れた時には、菅谷館のパンフレットなどはありませんでした。この12年で館跡の看板が新しくなり、2019(平成31)年3月には館跡のパンフレットも新刊されました。200円とお買い得です。ぜひ購入を!

そして3度目に訪れてわかったことがあります。
 1度目の訪問の1998(平成10)年は、菅谷館では畠山重忠と復元木橋くらいしか興味がなく「これくらいしか残ってないのか?」と思っていました。
 2度目の訪問の2008(平成20)年は、改めて見ると「堀や土塁がよく残っているだなあ」と中くらい感動しました。
 3度目の訪問の2020(令和2)年は、そもそも2回も菅谷館に行っているので行かないつもりでした。しかし、その姿を見て見て回りたくなってしまいました。「こんなに深い空堀があるのか!」「土塁はかなりの高さだな・・・他の城跡とも比べるとかなりよく残っているなあ。相当遺構がよく残されているんだなあ」と大感動。
 この差は何なのか?それは他の城を訪れたり、書籍で基礎知識を入れたりしたりする差。つまり「経験値」の差なのです。私の歴史の師匠である林光明様は「歴史は奥が深いから、どこまで極めても、自分はまだまだ知らないと気づかされ、やればやるほど謙虚になる。」とこたつ城主様におっしゃっていたと言っていました。私はこの言葉を直接聞いたわけではないのですが、今回3度目の菅谷館を訪問することにより、まさに「論より証拠」。22年前の私が如何に知識が無かったのか・・・と言うことを気づかされました。

 これからも歴史をもっともっと学び続けたいな・・・と訪問記をまとめていて思いました・・・という感想をもって、2020(令和2)年の3度目の菅谷館訪問記を閉じたいと思います。