27日からブログで「傀儡政権の存在意義」「日本はなぜ周辺諸国から信頼を得られないのか?」を考察した。今回は戦前日本の根幹であり国の最高法規について「大日本帝国憲法の制度的限界」と題して考察してみたい。ただ、あくまで推論であり、机上で考えただけの根拠に乏しいので論文ともいえぬ稚拙な文であることを始めにご了承いただきたい。
明治以来、薩長土肥の連中が政治の中心を担っていたことは中学の教科書でも習うとおりである。一方で自由民権運動が起こり、藩閥政治にも限界が見え始めた。その折に1881年に端を発した「開拓使官有物払下事件」で国民世論が一挙に硬化したことにより、「国会開設の勅諭」が出され10年後の国会開設が決まった。そして、1889年に国の最高法規としての「大日本帝国憲法」が定められた。起草した伊藤博文らは、藩閥政治を維持するために超然主義(議会政治によらない政治)を掲げ、議会の力が弱く皇帝の力が強いプロイセン(ドイツ)の憲法を模範にした。その結果、制限選挙であり、衆議院のみ民選という民意が限定された帝国議会ができた。その上、帝国議会の地位は憲法5条で「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」とされ、あくまで天皇の立法権を補助する地位に過ぎなかった。
しかし、実際は12月27日の筆者ブログにあるように「本来の主権者である天皇が主体的に統治しない」状況であり、いわゆる「初期議会」と言われる1890年~1894年の時期に、自由党・立憲改進党に代表される民党と、政府側の吏党が激しく対立した。軍備拡張予算がなかなか通らず、天皇の皇室費削減するので予算を認めて欲しいという「天皇の建造詔勅」があって辛うじて認められたという危うい状況であった。つまり、憲法の規定とはうらはらに、帝国議会はある程度の力を発揮し得たのである。単純比較するするわけにはいかないが、現在のねじれ国会の状況と似ている。政府と議会が対立して政治が混乱する状況である。
ただこの政府と帝国議会との対立も長くは続かなかった。日清戦争の勃発で協調ムードが醸成されたのである。戦争という危機的事態ゆえの協調とも言えるし、国民世論が民党より戦争勝利へと向いたのも原因であるし、政府と帝国議会の政治的妥協とも言える。ともあれ、政党は政府にただ反発するのではなく政府と妥協することにより政権担当を目指し、政府は政党を取り込むことにより政治の安定を目指したと言える(立憲政友会の成立がその好例と言える)。その結果、憲政党での政党内閣(隈板内閣)、原敬首相の本格的政党内閣、立憲政友会と立憲民政党のニ大政党制による「憲政の常道」と徐々に政党政治が成熟していった。
しかし、この政党政治にはとてつもない弱点が存在した。政党政治をする上で政治のリーダーとなる「内閣」の地位が、大日本帝国憲法上では制度上政党政治と矛盾があったのである(当初超然内閣で藩閥政治を意図して作成された明治憲法考えると当然とも言えるのだが)。すなわち、12月27日にも筆者は次のように記した。
明治憲法における内閣の地位は「内閣は、天皇の行為を輔弼(ほひつ=補助)する」と定められ、主権者たる天皇を補佐する地位しかない。さらに首相の地位は「同輩中の首席」でしかなく、軍の命令・指揮権がない(軍は統帥権=天皇の命しか受けない)ばかりか、国務大臣に対して罷免権・指揮命令権を持ないと、おおよそ大日本帝国の政治の中心といえる権力を持っていなかった。
そして、さらに大きな矛盾点は、内閣の組閣の命令は日本の主権者である天皇大権に属するということである。制度として政党政治が規定されていないゆえに、非常事態などがあれば政党内閣の根拠となった「憲政の常道」という慣例はすぐに終焉する危険性をはらんでいた(実際、戦前の憲政の常道は1925年~1932年の8年間しか続かなかった)。そこで、生まれたのが「天皇機関説」という憲法学(憲法解釈)である。明治憲法の第1条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるが、その解釈は色々ある。天皇は国(憲法や帝国議会)を越える日本の主権者という「天皇主権説」に対し、「天皇機関説」は天皇であっても憲法に制限される存在であるという。前者が近代国家にあっても専制君主的な外見的立憲主義の面を持つのに対して、後者は立憲君主制としての代議制(議会制民主主義)をある部分認めている点で大きく違う。この「天皇機関説」は大正デモクラシーにおいて国民にも政治界にも通説化していき、前述した政党政治である「憲政の常道」の根拠となったのである。
その状況が変化していくのは、昭和初期になってからである。政府との妥協を重ねて腐敗する政党に国民が失望する。世界恐慌が起きて経済が疲弊する。満州事変を気に軍部が統帥権(軍は内閣に左右されず天皇に直接属する)を立てにとり勝手に戦争を始め支配地を広げる。閉塞した状況に国民は大きく失望していた(政党は国民の信頼を得なければならないのに政局に終始していた平成日本の状況とも似ている?)。そして、政党政治の土台である国民世論が政党から離れていってしまったのである。選挙で票を得て議席を得る政党にとって、国民世論を失うのはその存在を危うくする状況といえる。昭和初期の状況は政党政治に大きな隙が空いた状態と言える。その状況を利用して自己の権力拡大を図ったのが軍部である。その最たるものが1932年の五・一五事件である。政治リーダーである犬養首相を海軍の将校の一部が暗殺する事件である。犯人の将校たちに対する「助命嘆願運動」があったことを考えると、国民の政党に対する不信が限界に達していたであろうことが推察される。
そして、国民から信を失った政党を抑えてこの難事にあたるには「挙国一致内閣」(危機を脱するために国を挙げて一丸となる内閣)を組閣すべきという立場から、次の組閣大命は海軍軍人である斉藤実が下ったのである。「憲政の常道」では暗殺など首相が倒れた場合同じ政党に組閣の大命が下るはずであるが、犬養が満州国の承認をしなかったことから陸軍が政友会の組閣大命を拒否したとされる。理由はともあれ、慣例としての「憲政の常道」も「政党政治」も破られた。憲法としての「政党政治」の規定がないからこそあっけない終焉だったのだ。そして、政党政治への揺れ戻しの動きもゆるかったといえる。そして、首相に支配されない「統帥権」という強い権力を持ち、軍部大臣(陸軍大臣・海軍大臣)を指名しなければ倒閣できるという権利(軍部大臣現役武官制が影響した)を用いて内閣の組閣・倒閣の権利を掌握し、満州事変での満州占領(満州国の成立)や日中戦争での南京陥落など、国民世論を軍の味方につけたことで、一気に軍は強大な政治権力となったのである。そして、「天皇機関説」をも軍は否定し、軍の権力のよりどころとなる統帥権をより強固なものとした。そして、文民統制を失った軍は戦争へと暴走していくのである。
以上のように考えていくと、「大日本帝国憲法」はその国家の政治制度としての制度的限界を抱えていたと言える。すなわち、「本来の主権者である天皇が主体的に統治しない」ため、国の政治責任者(とその基盤)が一定化しない状況になってしまったのである。それゆえ、「天皇機関説」などの憲法解釈や「憲政の常道」などの慣例が国の政治をつくり、そして崩壊していったのである。1889年~1947年までの「大日本帝国憲法」時代に何度も戦争を起こしたのに対して、1947年~現在までの「日本国憲法」時代の60年以上にも渡って平和な時代が訪れたことも、「日本国憲法」は以前の憲法に比べ制度的優れたものであったと言えよう。
ただ「日本国憲法」にも大きな懸念がある。筆者が考えるべき現憲法の懸念は2つ。1つ目は憲法9条の「憲法解釈的限界」。1950年の警察予備隊、1952年の保安隊、1954年の自衛隊と、政府は「平和主義=戦争放棄」の憲法解釈を時代とともに変えてきた。さらに、PKO協力法など常に憲法に対して合憲か違憲か国民世論は割れている(ここでその合憲か違憲かを論じるのは論点から外れるので論じない)。この時代に政府は憲法をうまいように解釈して乗り切ってきた。憲法解釈という安易な手法は前述したように、危機的事態で変節してしまう恐れがある。実際、憲法改正で最も大きな議論になるのは憲法9条の条文であり、憲法を揺るがす問題に発展する危険性が「憲法解釈」には存在するのである。2つ目は、現在の政党に対する信頼性である。現在国民の間に蔓延した政党不信と政治不信はとても根強い。これだけ根強い不信があるのに政党政治が続いているのは、「日本国憲法」が制度的に政党政治を規定しているからに他ならない。小泉首相(当時)が一時提唱した「首相公選制」に多くの国民世論が関心を寄せたのは、国民の政党に対する不信が限界に達しているのを示してはいないか。もし、日本に大きな危機が訪れれば、日本の政党政治は再び危機に陥るだろう。例えば、タイで起こったタクシン首相に対する軍事クーデターや、ロシアのプーチン大統領(当時・現首相)に見える強権政治の可能性である。いずれも日本でそういった状況にはならないのは、そこまで国民世論が逼迫していないという状況があるにせよ、より状況が悪化すれば政党政治はそれこそ「日本国憲法」という最高法規のみで「首の皮一枚がつながる」危うい政治状況になるかもしれない。戦前の苦い反省を考えると、現憲法下で平和な日本を取り戻すには、政党が国民の信頼を回復することが一番の対策と言える。
日本の政治家は、信頼を取り戻すことができるのであろうか。それとも、戦前日本のような「挙国一致内閣」に逆戻りするのだろうか…。
明治以来、薩長土肥の連中が政治の中心を担っていたことは中学の教科書でも習うとおりである。一方で自由民権運動が起こり、藩閥政治にも限界が見え始めた。その折に1881年に端を発した「開拓使官有物払下事件」で国民世論が一挙に硬化したことにより、「国会開設の勅諭」が出され10年後の国会開設が決まった。そして、1889年に国の最高法規としての「大日本帝国憲法」が定められた。起草した伊藤博文らは、藩閥政治を維持するために超然主義(議会政治によらない政治)を掲げ、議会の力が弱く皇帝の力が強いプロイセン(ドイツ)の憲法を模範にした。その結果、制限選挙であり、衆議院のみ民選という民意が限定された帝国議会ができた。その上、帝国議会の地位は憲法5条で「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」とされ、あくまで天皇の立法権を補助する地位に過ぎなかった。
しかし、実際は12月27日の筆者ブログにあるように「本来の主権者である天皇が主体的に統治しない」状況であり、いわゆる「初期議会」と言われる1890年~1894年の時期に、自由党・立憲改進党に代表される民党と、政府側の吏党が激しく対立した。軍備拡張予算がなかなか通らず、天皇の皇室費削減するので予算を認めて欲しいという「天皇の建造詔勅」があって辛うじて認められたという危うい状況であった。つまり、憲法の規定とはうらはらに、帝国議会はある程度の力を発揮し得たのである。単純比較するするわけにはいかないが、現在のねじれ国会の状況と似ている。政府と議会が対立して政治が混乱する状況である。
ただこの政府と帝国議会との対立も長くは続かなかった。日清戦争の勃発で協調ムードが醸成されたのである。戦争という危機的事態ゆえの協調とも言えるし、国民世論が民党より戦争勝利へと向いたのも原因であるし、政府と帝国議会の政治的妥協とも言える。ともあれ、政党は政府にただ反発するのではなく政府と妥協することにより政権担当を目指し、政府は政党を取り込むことにより政治の安定を目指したと言える(立憲政友会の成立がその好例と言える)。その結果、憲政党での政党内閣(隈板内閣)、原敬首相の本格的政党内閣、立憲政友会と立憲民政党のニ大政党制による「憲政の常道」と徐々に政党政治が成熟していった。
しかし、この政党政治にはとてつもない弱点が存在した。政党政治をする上で政治のリーダーとなる「内閣」の地位が、大日本帝国憲法上では制度上政党政治と矛盾があったのである(当初超然内閣で藩閥政治を意図して作成された明治憲法考えると当然とも言えるのだが)。すなわち、12月27日にも筆者は次のように記した。
明治憲法における内閣の地位は「内閣は、天皇の行為を輔弼(ほひつ=補助)する」と定められ、主権者たる天皇を補佐する地位しかない。さらに首相の地位は「同輩中の首席」でしかなく、軍の命令・指揮権がない(軍は統帥権=天皇の命しか受けない)ばかりか、国務大臣に対して罷免権・指揮命令権を持ないと、おおよそ大日本帝国の政治の中心といえる権力を持っていなかった。
そして、さらに大きな矛盾点は、内閣の組閣の命令は日本の主権者である天皇大権に属するということである。制度として政党政治が規定されていないゆえに、非常事態などがあれば政党内閣の根拠となった「憲政の常道」という慣例はすぐに終焉する危険性をはらんでいた(実際、戦前の憲政の常道は1925年~1932年の8年間しか続かなかった)。そこで、生まれたのが「天皇機関説」という憲法学(憲法解釈)である。明治憲法の第1条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるが、その解釈は色々ある。天皇は国(憲法や帝国議会)を越える日本の主権者という「天皇主権説」に対し、「天皇機関説」は天皇であっても憲法に制限される存在であるという。前者が近代国家にあっても専制君主的な外見的立憲主義の面を持つのに対して、後者は立憲君主制としての代議制(議会制民主主義)をある部分認めている点で大きく違う。この「天皇機関説」は大正デモクラシーにおいて国民にも政治界にも通説化していき、前述した政党政治である「憲政の常道」の根拠となったのである。
その状況が変化していくのは、昭和初期になってからである。政府との妥協を重ねて腐敗する政党に国民が失望する。世界恐慌が起きて経済が疲弊する。満州事変を気に軍部が統帥権(軍は内閣に左右されず天皇に直接属する)を立てにとり勝手に戦争を始め支配地を広げる。閉塞した状況に国民は大きく失望していた(政党は国民の信頼を得なければならないのに政局に終始していた平成日本の状況とも似ている?)。そして、政党政治の土台である国民世論が政党から離れていってしまったのである。選挙で票を得て議席を得る政党にとって、国民世論を失うのはその存在を危うくする状況といえる。昭和初期の状況は政党政治に大きな隙が空いた状態と言える。その状況を利用して自己の権力拡大を図ったのが軍部である。その最たるものが1932年の五・一五事件である。政治リーダーである犬養首相を海軍の将校の一部が暗殺する事件である。犯人の将校たちに対する「助命嘆願運動」があったことを考えると、国民の政党に対する不信が限界に達していたであろうことが推察される。
そして、国民から信を失った政党を抑えてこの難事にあたるには「挙国一致内閣」(危機を脱するために国を挙げて一丸となる内閣)を組閣すべきという立場から、次の組閣大命は海軍軍人である斉藤実が下ったのである。「憲政の常道」では暗殺など首相が倒れた場合同じ政党に組閣の大命が下るはずであるが、犬養が満州国の承認をしなかったことから陸軍が政友会の組閣大命を拒否したとされる。理由はともあれ、慣例としての「憲政の常道」も「政党政治」も破られた。憲法としての「政党政治」の規定がないからこそあっけない終焉だったのだ。そして、政党政治への揺れ戻しの動きもゆるかったといえる。そして、首相に支配されない「統帥権」という強い権力を持ち、軍部大臣(陸軍大臣・海軍大臣)を指名しなければ倒閣できるという権利(軍部大臣現役武官制が影響した)を用いて内閣の組閣・倒閣の権利を掌握し、満州事変での満州占領(満州国の成立)や日中戦争での南京陥落など、国民世論を軍の味方につけたことで、一気に軍は強大な政治権力となったのである。そして、「天皇機関説」をも軍は否定し、軍の権力のよりどころとなる統帥権をより強固なものとした。そして、文民統制を失った軍は戦争へと暴走していくのである。
以上のように考えていくと、「大日本帝国憲法」はその国家の政治制度としての制度的限界を抱えていたと言える。すなわち、「本来の主権者である天皇が主体的に統治しない」ため、国の政治責任者(とその基盤)が一定化しない状況になってしまったのである。それゆえ、「天皇機関説」などの憲法解釈や「憲政の常道」などの慣例が国の政治をつくり、そして崩壊していったのである。1889年~1947年までの「大日本帝国憲法」時代に何度も戦争を起こしたのに対して、1947年~現在までの「日本国憲法」時代の60年以上にも渡って平和な時代が訪れたことも、「日本国憲法」は以前の憲法に比べ制度的優れたものであったと言えよう。
ただ「日本国憲法」にも大きな懸念がある。筆者が考えるべき現憲法の懸念は2つ。1つ目は憲法9条の「憲法解釈的限界」。1950年の警察予備隊、1952年の保安隊、1954年の自衛隊と、政府は「平和主義=戦争放棄」の憲法解釈を時代とともに変えてきた。さらに、PKO協力法など常に憲法に対して合憲か違憲か国民世論は割れている(ここでその合憲か違憲かを論じるのは論点から外れるので論じない)。この時代に政府は憲法をうまいように解釈して乗り切ってきた。憲法解釈という安易な手法は前述したように、危機的事態で変節してしまう恐れがある。実際、憲法改正で最も大きな議論になるのは憲法9条の条文であり、憲法を揺るがす問題に発展する危険性が「憲法解釈」には存在するのである。2つ目は、現在の政党に対する信頼性である。現在国民の間に蔓延した政党不信と政治不信はとても根強い。これだけ根強い不信があるのに政党政治が続いているのは、「日本国憲法」が制度的に政党政治を規定しているからに他ならない。小泉首相(当時)が一時提唱した「首相公選制」に多くの国民世論が関心を寄せたのは、国民の政党に対する不信が限界に達しているのを示してはいないか。もし、日本に大きな危機が訪れれば、日本の政党政治は再び危機に陥るだろう。例えば、タイで起こったタクシン首相に対する軍事クーデターや、ロシアのプーチン大統領(当時・現首相)に見える強権政治の可能性である。いずれも日本でそういった状況にはならないのは、そこまで国民世論が逼迫していないという状況があるにせよ、より状況が悪化すれば政党政治はそれこそ「日本国憲法」という最高法規のみで「首の皮一枚がつながる」危うい政治状況になるかもしれない。戦前の苦い反省を考えると、現憲法下で平和な日本を取り戻すには、政党が国民の信頼を回復することが一番の対策と言える。
日本の政治家は、信頼を取り戻すことができるのであろうか。それとも、戦前日本のような「挙国一致内閣」に逆戻りするのだろうか…。