畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

人生の分かれ道…

2013-02-02 21:33:00 | 日記
何度か人生の分かれ道を経験してきた。そのたびに周りの力に助けられてきた。

 まず最初は高校受験。私は受験勉強が嫌いで、今の学力で行ける近所の公立高校にしようとしていた。ただ大学進学率が低いことに両親が異議を唱え、結局、学費が高い私立に推薦入試で入った。英語と数学が大嫌いな私。およそ大学に行ける英語力・数学力ではなかった。でも、自分の行きたい大学の指定校推薦入試(学力試験を伴わない、高校の成績と面接だけで受験できる入試)を目指した。だから高校は、苦手な英語も数学も、定期試験のためだけに全力を出した。指定校入試を何とか勝ち取り、浪人せず、英語も数学も勉強せず大学合格。もし、あの時両親に私立高校を進められていなければ、凄惨な成績にきっと受験浪人していたことだろう…。

 3回目の分かれ目は、就職活動。今の職業になりたかったけれど、全然受験勉強せず、当然不合格。そこで、経済学部の利点を生かして、第一志望を「信用金庫」に。ただ、やはり英語と数学が学力試験をひっぱりことごとく内定取れず。あきらめきれない私は、母の兄という親戚のコネを頼り、ある信用金庫を受験。学力試験も無事突破。取締役面接では、「健康状態」しか聞かれない上に、面接官がとても好意的。おまけに「内定をもらったら、今の住所では遠いので引っ越すことは考えてもらえますか?」と内定の話に。当然内定の通知。でも血縁のコネという後ろめたさや、自分の好きな東京都多摩地区に住めない悔しさ。そこで、コネ内定を蹴って、もう1つ内定をもらった会社に就職を決める。両親は大反対。当時付き合っていた彼女(今の妻)も、私に決定は任せるものの、どちかと言えば信金寄りを進めていたような気がする。
 私は、自分で内定をもらった企業に就職し、広告宣伝部に配属。そして彼女と結婚。しかし、上司とそりがあわずに1年で退職。両親からは「そら見たことか」と言われた。妻が経
済的に支えてくれて、7ヶ月のアルバイト生活で猛勉強を重ねた。そしてかねて大学在学より目指していた現在の職へアルバイトとして就職。そして猛勉強を重ねた。一度は年に一度の就職試験に落ちて落胆したが。私の無二の親友2人が平日にも関わらず早朝に駆けつけてくれた。嬉しかった…落ち着きを取り戻せた。そして、1年半後に正社員に。コネで信用金庫に入社していたら、あんのんと生活し、今の職には転職できなかったかも。何が幸いするか、わからない。

 3回目は、今の職の2年目。仕事がうまくいかず集団をうまくまとめられず、鬱状態に。1ヶ月の病気療養休暇を取った。妻が献身的に支えてくれた。再出社した時支店長から「次に休んだら辞表を書いてもらう」と言われた。献身的に支えてくれた妻に加え、息子もおり、生まれてくる娘もいる。「やめてたまるものか!」と思い、どんなに仕事が辛くても「状況が変われば運命も変わる」と新年度になるまで耐え忍ぶ。新年度は自分のやり方を大胆に変えていった。すると仕事も浮き沈みはあったものの、総じてうまくいくようになった。


 どの人生の分かれ目も共通していたことは、「自分の能力や先見のなさ」を周りが親身にカバーしてくれたこと。そしてもう一つ、成功の裏には、自分がジャンプするためのおおきな失敗があったこと。
 「成功は失敗の元」なんて言うけど、案外ホントなのかもしれない。自分の息子や娘もきっと人生に苦労するだろうけど、それを見守れるような大きな心を持ちたいな。そして、息子も娘も、自分の人生を応援してくれるような伴侶にめぐりあえるといいな。
 「病める時も健やかなる時も汝は相手を愛し慈しむことを誓いますか?」なんてありがちなキリスト教系結婚式の言葉。これも案外、すっごく的を得ていることばなのかもしれない。自分は日々の仕事にいっぱいで、伴侶を慈しむことができているだろうか…。行動でなかなか示せないなら、しっかりと言葉で愛を伝えたいな。