映画「君の名は」を観た(ネタバレ注意)。
気がついたら泣いていた。単なる男女入れ替わりの恋愛ものと思っていてたかをくくっていた。前半のコミカルな入れ替わりの明るいシーンから、後半飛騨に行くシリアスなシーンへとの移り変わりがとっても感情移入ができるものになっていた。
前半のコミカルなやりとりで、手や顔に文字を書くのも、古典の授業の「黄昏」も、宮水神社の御神体に行くのも、すべてそれは伏線。スマホに電話番号を残しているのに、お互いLINEやメールなどをしないのは、ちょっとご都合主義のようにも見えるが、考え方を変えれば「お互いの直接のやりとりはできるだけしない」というのが暗黙の了解だったのかもしれない。それがゆえの、直接あって確かめようとする後半につながる。そして、まさか手の組紐が3年前につながるとは…。そういえば、タイトルの「君の名は?」という言葉が序盤から登場し、しかも入れ替わりの当人同士が映画開始早々にお互いの名前を認識してしまうのも今考えれば、相当の伏線なのかもしれない。
感情移入しだすと、糸守町が「災害対策基本法につき立ち入り禁止」という看板で入れない。そして犠牲者名簿に彼女の名前があったところでもう目には溢るる何かがでてきた。これは東日本大震災の震災や原発事故を想起させる。こういう悲しい出来事は、自分の近くにでも起こりうるのだ…という抑えられない気持ち。
もし自分が主人公ならば、彗星の事件について片っ端から調べるだろうな…と思う行動を取るほど、この主人公の行動は特別な主人公ではなく、誰にでも共感できる「普通の主人公」。だからこそ感情移入できるのかも。この映画は女性が多く見ているのだが、女性視点だとどう見るのだろうと興味も湧く。
そして、後半の宮水神社の御神体があるカルデラから見える糸守町の湖。三葉の中にいる瀧が見る3年前は湖が1つ。そして、その場に居る現代の瀧の中にいる三葉がみる湖が2つ。この後、主人公が三葉から離れて、三葉本人が糸守町の人々を避難させるべく奮闘する。しかもその結果がわからないまま、彗星衝突事件から8年後になり、場面を詳しく述べない。映画のコメントでは「肝心なシーンを見せずに意味がない」というコメントも見られるが、ある意味「予測不可能な自然災害を、予見してそれを納得させた上で避難させる」なんて非現実的なものは描写しにくい。それこそ特別な力を持った主人公になってしまい感情移入が困難になるかもしれない。
彗星事件の8年後の東京で、すれ違う2人。カフェでも歩道橋でも、すれ違いを見るたび心が痛む。映画を見ている人には「君の名は」わかっているのに、主人公たちの記憶は消えている。ここで感情移入は解かれ、完全に第三者として見ている自分がいる。でも映画への思い入れは消えていない。この記憶がないという現象はタイムスリップものではよく語られるタイムパラドックスが起こしたものだが、とても切ない。
そしてお互いが電車ですれ違い、衝動的に引かれてすぐに最寄り駅で降り近所を歩いて探し、歩道専用の石段ですれ違うのだが、お互いを感じているのに一度すれ違う。勇気をもって瀧がしゃべりかけ。そして最後のセリフ「君の名は」。
これは2回見ると伏線を回収しながらあらたな発見を見れるので観客動員数が上がるのもうなづける。
家に帰り録画していたこれも当時観客動員数が多かった「超高速参勤交代」を見たが、伏線の使い方が圧倒的に「君に名は」の方が上手く使っている気がする。
映画に行くと、また映画を見たくなる。