畠山義綱のきままな能登ブログ

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「守護大名権力論」の備忘録

2023-10-30 20:56:28 | 歴史

 上記山田康弘著『足利将軍たちの戦国乱世』を読んで、室町期の守護大名権力論に考えが及んだので備忘録として記す。

著者は足利将軍の権力が不安定であった理由を同書でこう述べている。「守護は「あくまで各国における将軍の代理人にすぎず、将軍によって意のままに任免される」という建てつけになっていたことである。」「このように足利将軍は「守護を使って、各国支配や有事に対応する」という仕組みを採用した。このような仕組みであれば、将軍は各国支配のための巨大な官僚機構も、有事の際に必要な強力な直轄軍も自前で用意しなくてよい。」と。

 鎌倉幕府は、執権が自らの独裁政治のために反対派を徹底的に粛清した。それは自らよりも上位権力である征夷大将軍さえも。次に江戸幕府は、全国の土地の25%という広大な直轄地と強力な直轄軍を将軍自体が持っていた。だからこそ室町幕府は権力が不安定であったと言える。

 では室町幕府の各国の権力である「守護大名」はどうして戦国期に「下剋上」されてしまったのだろう。それを同書を読んで「足利将軍権力が弱体化したからこそ、守護大名権力も弱まったのではないか」と仮定する。

(1)守護大名は将軍の代理人である→在京して将軍の意に沿う行動をする→領国を守護代に任せる

(2)将軍は、権力の安定化を図るため、守護大名の世襲を認める→在地の守護権力の出先機関である守護代の在地との関係が深まる

(3)将軍権力が高いと「在京している守護大名の権力」と、「在地勢力を結びつく守護代権力」のパワーバランスが保たれる。

(4)将軍権力が低いと「在京している守護大名の権力」と、「在地勢力を結びつく守護代権力」のパワーバランスが崩れ、在地優勢に。

(5)だからこそ守護大名は将軍権力に近づき、守護代勢力と対抗しようとする。

(6)一方で、守護自体が在地勢力と結びついて権力を高めようとする→戦国大名化もしくは守護代の反発による下剋上

(7)戦国大名は自信の勢力を有利にしたいがために、足利将軍の権威を利用する

 こう考えると、(2)の時点で、守護代と在地勢力の結びつきは時間を追う毎にどんどん強固になり、守護との二重権力構造になることは明らかで有り、相対的に守護権力は後退する。となると当然(1)の前提も崩壊するので、足利将軍権力の後退することは明らか。となると、室町幕府の後半の将軍ほど、パワーバランスを保つのが難しくなり、義稙や義晴などがしょっちゅう管領などと相反して動座するのも、一種のパワーバランスを取り戻すための手段と考えられる。

 この推論の元に歴史を紐解くならば、(3)時に4代将軍足利義持が死去し、諸大名の合意のもとでくじ引き将軍が誕生したと言える。さらに6代将軍足利義教は(3)の中で(1)に戻そうとしたから、赤松満祐に殺されたと言える。さらに8代将軍足利義政に時期に(4)と(5)の間の1467年の「応仁の乱」があり、守護大名が将軍権力に近づき過ぎた故に大きな乱が発生したと捉えられよう。したがって時の将軍足利義政が「政治に興味が無い」とか「教養に耽っていた」というのは過小評価につながろう。その後、応仁の乱以降(6)の段階で守護大名の戦国大名化の動きや下剋上の動きが活発化していった。(7)の段階で、足利義稙の大内氏や、足利義晴の三好氏や、足利義昭の織田氏のように、自身の権力を高めるために戦国大名は足利将軍に近づいたのではないか。