それでは、勝沼氏館其の2です。其の1で勝沼氏館の主郭を見てきたので、今度はそれ以外の外郭を見ていきましょう。
駐車場に車を止めて見えてきた空地を覚えていますか?下の写真です。
正面に見える建物は「山梨県ワインセンター」です。本来はこの勝沼氏館跡にワインセンターができる予定だったそうです。建設のための事前発掘調査で中世の館跡が検出され、全面的な調査となったようです。1973(昭和48)年に発掘調査が開始され、1981(昭和56)年には国指定史跡に認定されました。比較的早くから整備が行われたという事がわかります。ほとんどの中世史跡は平成に入ってからの整備ですが、昭和時代にも発掘調査→保存整備が行われたということはとても素晴らしいことだと思います。ただ、日本がオイルショックの頃で景気が悪かったせいか、復元整備にまで及ばなかったのが残念です(まあ宅地開発されるより数倍マシですが)。
閑話休題。空地から右側に行くと主郭、左側に行くと家臣の屋敷です。
さて、空地を突き抜けてワインセンター側の道路へ。空地方面に向き直ってみると、左側(空地)に対して、右側が盛土がされている。ん?何かありそうな気配ですね。
さて、ここも発掘調査がされて、建物が発見された場所だったんですね。ひょっとすると、空地に対して盛土がしてあるというのは、遺構面を保護するために盛土されたものかもしれませんね。おや、主郭の建物と平面展示の方法が違いますね。主郭の建物跡では「主屋」など礎石が配置されていました。しかし、今回礎石がありません。その代り、木の柱のようなもので建物のあった個所が囲まれています。これは、礎石建物に対して、掘立柱建物を表しています。礎石を置かないで建てた建物。それは建物の耐久性も弱くなるし、大きな建物は建てられません。つまり、それなりの階級が住んでいた(または仕事場)ということが言えます。では、この建物は?これは説明版によると「木製品仕上げ工房」だそうです。
右側の建物の近くには、このように「素掘り井戸」があります。つまり、この辺は、主郭近くの工場という感じでしょうか?戦争などに使う品物などを作ったのでしょう。
これは、「木製品荒加工工房」だそうです。
建物が重なっているということは、違う時代に作られた建物ということ。壊して立て替えたのか。または、戦争などで破壊されて立て直されたのか、説明版がないのでわかりません。
「職人居住棟」だそうです。工場で働く人たちが暮らしていたのですね。職住接近です。また周辺には、「金属加工工房」もあり、武器の製造や、館で使うような生活用品を仕立てていたんでしょうか。
「東郭跡」広いですね~。
遠くに山が見えるいい景色です。盆地ではあってもこれだけの平地があるからこそ、館を構えて周辺を支配するだけの価値がこの地域にはあるんですね。
さて、やってまいりました。勝沼氏館の素晴らしい「水路システム」について。ただ残念なことがあります。あまり写真での説明に適していない点です。写真の説明しずらいのが、残念です。
館の第2期A(16世紀前半)に作られた「水路システム」は大きいため池を沈殿槽代わりにして、浄水する仕組み。つまり、泥は沈殿して、きれいな水のみが水路を流れるというもの。これって現代の上水道も全く同じ仕組みなんですからびっくり。そんな浄水施設が16世紀に作られていたとは。
館の第2期B(16世紀中期)に作られた「水路システム」がコレ。沈殿槽自体の大きさは狭くなってますが、底の部分を弾状にしたことで、水の流れが遅くなり沈殿作用を促進するように仕組んであるそうです。復元ではこの第2期Bの時代のものです。ただ、草が生い茂っており、水路が明快に見えないのが残念。
これが第2期Bの「排泥処理溝」です。沈殿した泥を浚渫(しゅんせつ)して、この溝に捨てたんですね。う~んすごくシステマチックだ。このような規模の浄水施設ならば、それを管理する水道局みたいな家臣がいたのではないか?って思いながら、さらに館跡を回る。
「郭外家臣屋敷跡」です。広いですね。この写真の反対側の一角に家臣屋敷が復元された地域がありました。
「南側家臣屋敷井戸跡」です。
自分の家に井戸がある家臣でも、掘立柱建物か…。しかも狭い。ん?どうしてこの家臣は、なぜ水路システムで水を飲まないのだろうか?その答えが次の建物にあった。
復元された「北側家臣屋敷主屋」です。北側というのは、2軒の中では南側、北側というだけで名前ではありません。家臣の屋敷なんてこんなもの?って思いましたが、掘立柱建物ではこんなもんかもしれませんね。復元イメージ図がありました。
う~ん、イメージ図とずいぶん違いませんか?イメージ図の方が壁がしっかりあるし、高さもありますね。説明文をちょっと引用します。
「勝沼氏館跡に東郭東門外側にあるこの一帯から南北2つの屋敷跡が発見されました。屋敷の広さが約100坪で中級クラスの家臣屋敷と考えられます。南屋敷は井戸から水を得るのに対し、北屋敷は内郭に水を供給する水路から取水しており、水質を管理する重要な役割を担っていた人物の屋敷と考えられます。16世紀代の屋敷内の建物は下のように4回の建て替えが確認されました。内郭部の建物が全て礎石の上に柱を建てるのに対し、家臣屋敷は穴を掘り柱を建てる構造で、焼けた土壁の痕跡も発見されました。建物数は北屋敷が常に2棟であるのに対し、南屋敷は1棟で北屋敷の方が格式が高いことがわかります。建物の柱数も新しくなるにつれ増え、近世の甲府盆地東部の切り妻民家への発展を伺うことができます。」
なるほど、これほど進んだ「水路システム」を管理する立場の屋敷がここだったってわけです。いわば水道局。それは格式が高いはずです。しかし、中級クラスで掘立柱建物とは。
いかがでしたか?勝沼氏館跡の訪問記。ここの特徴は復元整備がされているわけではないですが、主郭の周りの町部分(家臣屋敷)まで発掘調査されている点で、とても貴重ではないか、と思います。しかも、復元された館の構造が16世紀前半ということで、織豊期以前の館や町の形を知ることができる貴重な存在です。しかし、そんな館跡にも、1時間半もいたのに私たち家族以外には訪れた人がいませんでした。その理由の一端に、「手入れが行き届いていない」という理由があると思います。しかし、手入れが行き届いている足助城(愛知県豊田市)でもあまりお客は来ていませんでした。ということは広報不足が一番の理由かもしれません。
私は、この館を訪れて非常に興味を持ちました。館の構造や町の形について考古学的に知るためには、こういった実物を見ることが一番の勉強になるからです。願わくば、この勝沼氏館をさらに知るための資料がほしかったです。どこか地元の書店で「史跡・勝沼氏館」という本でも発売してくれればいいのに…っと思います。中世マニアには、必見の「勝沼氏館跡」!みなさんも、ぜひ訪れてみては?
あっ!ついでにもう一つ。旅の醍醐味といえばおいしいもの!勝沼氏館の近くでおいしいお店を紹介。山梨県といえば「ほうとう」でしょう!えっわかんない?うどんのひらべったいものを味噌煮込みにしたものです。きしめんみたいな。
「皆吉」(みなき)さんの「きのこほうとう」です。とってもおいしい。お値段もこのボリュームで1470円とお値打ち価格。周辺には、ワイン販売店や桃狩り、ぶどう狩り、信玄餅の販売店とお土産もの屋がいっぱい!
駐車場に車を止めて見えてきた空地を覚えていますか?下の写真です。
正面に見える建物は「山梨県ワインセンター」です。本来はこの勝沼氏館跡にワインセンターができる予定だったそうです。建設のための事前発掘調査で中世の館跡が検出され、全面的な調査となったようです。1973(昭和48)年に発掘調査が開始され、1981(昭和56)年には国指定史跡に認定されました。比較的早くから整備が行われたという事がわかります。ほとんどの中世史跡は平成に入ってからの整備ですが、昭和時代にも発掘調査→保存整備が行われたということはとても素晴らしいことだと思います。ただ、日本がオイルショックの頃で景気が悪かったせいか、復元整備にまで及ばなかったのが残念です(まあ宅地開発されるより数倍マシですが)。
閑話休題。空地から右側に行くと主郭、左側に行くと家臣の屋敷です。
さて、空地を突き抜けてワインセンター側の道路へ。空地方面に向き直ってみると、左側(空地)に対して、右側が盛土がされている。ん?何かありそうな気配ですね。
さて、ここも発掘調査がされて、建物が発見された場所だったんですね。ひょっとすると、空地に対して盛土がしてあるというのは、遺構面を保護するために盛土されたものかもしれませんね。おや、主郭の建物と平面展示の方法が違いますね。主郭の建物跡では「主屋」など礎石が配置されていました。しかし、今回礎石がありません。その代り、木の柱のようなもので建物のあった個所が囲まれています。これは、礎石建物に対して、掘立柱建物を表しています。礎石を置かないで建てた建物。それは建物の耐久性も弱くなるし、大きな建物は建てられません。つまり、それなりの階級が住んでいた(または仕事場)ということが言えます。では、この建物は?これは説明版によると「木製品仕上げ工房」だそうです。
右側の建物の近くには、このように「素掘り井戸」があります。つまり、この辺は、主郭近くの工場という感じでしょうか?戦争などに使う品物などを作ったのでしょう。
これは、「木製品荒加工工房」だそうです。
建物が重なっているということは、違う時代に作られた建物ということ。壊して立て替えたのか。または、戦争などで破壊されて立て直されたのか、説明版がないのでわかりません。
「職人居住棟」だそうです。工場で働く人たちが暮らしていたのですね。職住接近です。また周辺には、「金属加工工房」もあり、武器の製造や、館で使うような生活用品を仕立てていたんでしょうか。
「東郭跡」広いですね~。
遠くに山が見えるいい景色です。盆地ではあってもこれだけの平地があるからこそ、館を構えて周辺を支配するだけの価値がこの地域にはあるんですね。
さて、やってまいりました。勝沼氏館の素晴らしい「水路システム」について。ただ残念なことがあります。あまり写真での説明に適していない点です。写真の説明しずらいのが、残念です。
館の第2期A(16世紀前半)に作られた「水路システム」は大きいため池を沈殿槽代わりにして、浄水する仕組み。つまり、泥は沈殿して、きれいな水のみが水路を流れるというもの。これって現代の上水道も全く同じ仕組みなんですからびっくり。そんな浄水施設が16世紀に作られていたとは。
館の第2期B(16世紀中期)に作られた「水路システム」がコレ。沈殿槽自体の大きさは狭くなってますが、底の部分を弾状にしたことで、水の流れが遅くなり沈殿作用を促進するように仕組んであるそうです。復元ではこの第2期Bの時代のものです。ただ、草が生い茂っており、水路が明快に見えないのが残念。
これが第2期Bの「排泥処理溝」です。沈殿した泥を浚渫(しゅんせつ)して、この溝に捨てたんですね。う~んすごくシステマチックだ。このような規模の浄水施設ならば、それを管理する水道局みたいな家臣がいたのではないか?って思いながら、さらに館跡を回る。
「郭外家臣屋敷跡」です。広いですね。この写真の反対側の一角に家臣屋敷が復元された地域がありました。
「南側家臣屋敷井戸跡」です。
自分の家に井戸がある家臣でも、掘立柱建物か…。しかも狭い。ん?どうしてこの家臣は、なぜ水路システムで水を飲まないのだろうか?その答えが次の建物にあった。
復元された「北側家臣屋敷主屋」です。北側というのは、2軒の中では南側、北側というだけで名前ではありません。家臣の屋敷なんてこんなもの?って思いましたが、掘立柱建物ではこんなもんかもしれませんね。復元イメージ図がありました。
う~ん、イメージ図とずいぶん違いませんか?イメージ図の方が壁がしっかりあるし、高さもありますね。説明文をちょっと引用します。
「勝沼氏館跡に東郭東門外側にあるこの一帯から南北2つの屋敷跡が発見されました。屋敷の広さが約100坪で中級クラスの家臣屋敷と考えられます。南屋敷は井戸から水を得るのに対し、北屋敷は内郭に水を供給する水路から取水しており、水質を管理する重要な役割を担っていた人物の屋敷と考えられます。16世紀代の屋敷内の建物は下のように4回の建て替えが確認されました。内郭部の建物が全て礎石の上に柱を建てるのに対し、家臣屋敷は穴を掘り柱を建てる構造で、焼けた土壁の痕跡も発見されました。建物数は北屋敷が常に2棟であるのに対し、南屋敷は1棟で北屋敷の方が格式が高いことがわかります。建物の柱数も新しくなるにつれ増え、近世の甲府盆地東部の切り妻民家への発展を伺うことができます。」
なるほど、これほど進んだ「水路システム」を管理する立場の屋敷がここだったってわけです。いわば水道局。それは格式が高いはずです。しかし、中級クラスで掘立柱建物とは。
いかがでしたか?勝沼氏館跡の訪問記。ここの特徴は復元整備がされているわけではないですが、主郭の周りの町部分(家臣屋敷)まで発掘調査されている点で、とても貴重ではないか、と思います。しかも、復元された館の構造が16世紀前半ということで、織豊期以前の館や町の形を知ることができる貴重な存在です。しかし、そんな館跡にも、1時間半もいたのに私たち家族以外には訪れた人がいませんでした。その理由の一端に、「手入れが行き届いていない」という理由があると思います。しかし、手入れが行き届いている足助城(愛知県豊田市)でもあまりお客は来ていませんでした。ということは広報不足が一番の理由かもしれません。
私は、この館を訪れて非常に興味を持ちました。館の構造や町の形について考古学的に知るためには、こういった実物を見ることが一番の勉強になるからです。願わくば、この勝沼氏館をさらに知るための資料がほしかったです。どこか地元の書店で「史跡・勝沼氏館」という本でも発売してくれればいいのに…っと思います。中世マニアには、必見の「勝沼氏館跡」!みなさんも、ぜひ訪れてみては?
あっ!ついでにもう一つ。旅の醍醐味といえばおいしいもの!勝沼氏館の近くでおいしいお店を紹介。山梨県といえば「ほうとう」でしょう!えっわかんない?うどんのひらべったいものを味噌煮込みにしたものです。きしめんみたいな。
「皆吉」(みなき)さんの「きのこほうとう」です。とってもおいしい。お値段もこのボリュームで1470円とお値打ち価格。周辺には、ワイン販売店や桃狩り、ぶどう狩り、信玄餅の販売店とお土産もの屋がいっぱい!
残念ながらこの外郭の工場内では「木工製品荒加工房」など名称のみで、詳しい説明版がありません。武藤様のおっしゃるように、道具類の発見だと思います。木片では経年で腐って残らないですし。そういう発掘された道具塁もみたいですね。一乗谷の史跡がなかたら、そんな中世の道具塁を目にする機会もなかったんですね…。あの時、武藤様に連れて行ってもらって感謝感謝です!歴史を見る目が広がりました!
馬関係とはどんな感じでしょうか?主殿に隣接する馬屋と家臣屋敷に馬屋はありましたが、それ以外の施設は馬関係では確認できませんでした。
「皆吉」のほうとう、本当においしかった!古い日本家屋で、「電話四番」なんて表示から明治時代からあったのかな?って思うほど。クーラーがなくても屋根が高い日本家屋だから涼しい!
木工製品荒加工って言うのは何かを作るときにおおよその形にするのが荒加工なんですが、なぜそこが荒加工場だと言うことが判ったのかが気になりますが(なにか道具類や加工屑が発見されたとか?)
ここではやはり、馬関係って出てこないようですね。
武田騎馬隊はやはり無かったんでしょうかね?
ほうとうは甲斐の国の伝家の宝刀です!