今回は、菅谷館跡巡りをお送りします。私にとってはここは2度目の訪問である。一度目は1998年に同じく能登畠山家同好の士・遊佐きむち氏との訪問である。あの頃は電車で行ったっけ。館跡はほとんど変化はない。やはり国指定史跡であるがゆえ、大事にされているのかなぁ。菅谷館跡は現在の埼玉県比企郡嵐山町にある。畠山重忠が菅谷館に住んでいたと伝承があるが、国指定史跡となっている菅谷館跡からは重忠の父・秩父重綱の名前を記した教筒などがみつかっているが、重忠の頃の遺構や遺物は発掘されていない。
現在ある菅谷館跡はおそらく戦国時代に整備されたものであると思うが、規模も大きくまた、堀などもよく整備されて見ていてワクワクさせる史跡である。
本郭の土塁の高低差はかなり大きい。
また、本郭はかなり広く、それだけ館主の経済力や権力が大きかったのがわかる。
また、西ノ郭と三ノ郭を結ぶ正拈門では、木橋をかけたとされる石組みが見つかっているほか、西ノ郭から三ノ郭にかけての盛り土が三ノ郭の方が高くなっており、写真のように木橋にも傾斜がついており、敵の侵入を遅らせる工夫がしてある。こういった復元がなければ気づかないかもしれない。貴重な復元である。
さて、菅谷館跡内にある埼玉県立嵐山史跡の博物館へ。駐車場に止まっているのは、スターレットの我が愛車「能登号」である。
私が10年前に訪れた同時、ここは埼玉県立歴史資料館と言った。それがこの博物館は、2006(平成18)年に博物館に変わった。何が変わったのか。私にとってはガッカリな変化だった。一番ショックだったのは、刊行物の発売中止である。私は博物館に行くと研究紀要や企画展の図録などを購入するのを楽しみにしている。家に帰ってからも旅行の楽しみを継続できし、一瞬では覚えきれないことを、図録で確認できるからだ。
しかしここは、博物館に変わった2年前から刊行物の販売は一切行わなくなった。「博物館」とは「歴史・芸術・民俗・産業・自然科学などに関する資料を収集・展示して一般公衆の利用に供し、教養に資する事業を行うとともに資料に関する調査・研究を行う施設。」(Yahoo!辞書)だそうだ。資料の収集・展示が役割であり、図録の販売などは仕事でないと言う県の方針なんだそうだ(受付の女性談)。しかし、かなり訪問者から刊行物の販売中止について質問や批判があるらしく。受付の女性は「刊行物は販売できなくなったんです。すみません。資料をお探しならば研究員をお呼びします。」と丁寧に挨拶してくれた。ご好意に甘えて研究員に来てもらうが、来てもらって一言。
研究員「資料と言えば、こんなしかありませんね。」
と持ってきたものは『畠山重忠 (人物叢書)』(吉川弘文館)そんなものなら全国の書店にあるし、私だって知っている。
義綱「それなら、私も知っています。」
と答えるとそそくさと戻る。なんて冷たい研究員。
10年前に比べて展示内容が増えたわけではない。刊行物は販売されなくなった。さらに、資料館時代にはあった無料でもらえた「博物館たより」のようなパンフレットもなくなっている。博物館や資料館の使命は、訪れた人や興味を持った人に誰でもわかりやすく情報を提供することじゃないのかな?不況のあおりはいち早く文化的事業に押し寄せる。そのしわ寄せか、間違いなくこの博物館は後退している。残念でならない。
大阪府知事・橋本殿は「公共文化施設」は図書館だけいい、というような発言をされたとのことですが、本当にそのような思っていらっしゃるなら、「府民は無学でよく、難しいことはわれわれ公に任せろ。」と言っているのと同じです。確かに最近の博物館は、一部のマニアックな歴史家ばかりが利用するだけになってきていますが、もっと展示を工夫したり、研究紀要も素人でも平易でわかりやすい説明にして、「一般人でもわかる楽しさ」を味わえるようにできないものでしょうか…。日本の今後の文化行政は、これいかに…。
関東史跡まわり~其の参~は、いよいよ鉢形城巡りをお送りします。
しかも持ってきたのが市販本・・・。
やる気無いのね、この人。
まあ裏返せば、それだけわからないことだらけだということなんでしょうが。