今回は若狭武田氏の城である後瀬山城(のちせやまじょう)を紹介します。
後瀬山城は1522(大永2)年に若狭武田氏5代の武田元光によって築かれました。能登畠山家7代当主・畠山義総が七尾府中にある守護所から七尾城山へ居館を移したのが1526(大永6)年頃と若狭武田氏とほぼおなじ時期に行っています。そう考えると、能登畠山氏と若狭武田氏には様々な共通点が見られます。守護大名から戦国大名になろうとしている。幕府への積極的な関わり、文芸に深い関わりなどなど、後瀬山城を見ることが七尾城への見識にもつながると思い登城して参りました。
愛宕神社の駐車城に車を駐めて後瀬山遊歩道を登ります。
最初からかなりハードな石段が見えます。
鳥居のすぐ横に「史跡後瀬山城跡」の看板があります。私はここでパンフレットを取り忘れました。あとで写真を見てみるとしっかりポストが右下に見えます。いくら史跡にワクワクしてもパンフレットの入手を忘れると後悔します。みなさんはお取り忘れないよう。
階段がある場所は歩きやすいですが、傾斜が急でかなりの崖が続くので、防御施設としての後瀬山城はかなり堅固だと思います。
5分登っただけでもうこの景色。でもまだまだ先が続きます。本丸まであと20分。
階段がない場所も多数あります。そういう場所は落ち葉がけっこう多く滑りやすいです。雨の日の登城は厳しいかも知れません。
右手側に曲輪群が見えてきました。左手側は崖で、3重の曲輪が行く手を遮ります。木が多いのであまり曲輪を撮った写真をみても平坦面に見えませんが、かなり防御が固い城だと思いました。
3重の曲輪群が見えていよいよ本丸か・・・
本丸へ続くさらなる曲輪群が侵攻者を遮ります。
このあたりの土塁はかなり見応えがあります。先ほどの3重曲輪群といい、かなりの防御力を誇っています。
下に見ても通路の高さに対して曲輪の高低差がくっきりとわかります。往事はもっと造営して高低差もあることを考えるとなかなか見応えのある城郭です。ただし、平時の拠点は麓の守護居館だったようで七後瀬山城はあくまで防衛の拠点です。曲輪自体も生活拠点となるほど大きなものはありません。そこが七尾城との違いでもあります。
写真は本丸に接続する曲輪への枡形です。まるで門まで見えてきそうなぐらいハッキリ分かる形です。枡形の中に大きな石が見えます。石垣なのか礎石なのか気になるところです。この当たりから本丸にかけて大きな石がたくさん見受けられます。後瀬山城は若狭武田氏が滅亡した後は、丹羽長秀や浅野長政、木下勝俊が入城して城主になっています。関ヶ原の戦い以降に入部した京極高次によって小浜城に移り廃城になったと言われます。なので、この枡形や石垣は丹羽などの安土桃山期に造成された可能性もあります。
さて枡形から曲輪に上がると真っ先に目立つのが窪みです。これはため池でしょうか?
広い曲輪の中心には火起こしの後が。地元のイベントでも使われているのでしょう。さて、本丸まであと8分。さらに登ります。
ピンぼけしている写真ですが、大きな石があります。これは石垣に使われた写真でしょうか?
後瀬山城は本丸が168mの場所にあります。本丸からは眺望がよくなかったので、本丸手前のこの曲輪から良い景色が見えました。
いよいよ本丸が見えてきました。本丸には大きな石が使われている石垣が見えます。
この規模だとことは安土桃山期の城主が整備したものでしょうか。本丸前に四菱の旗があり武田氏家紋があるのが嬉しいです。七尾城にも二引両の家紋の旗がたくさんほしいなあ。
本丸に到着しました。武田城址の石碑と、休憩所と愛宕神社の建物があります。それからけっこうしっかりした石垣がありますが、これは主殿と他の建物を隔てるための壁の基礎だと思います。
休憩所にある看板に、二ノ丸の山上御殿のイメージ図がありました。二ノ丸は本丸と同じ平坦面の面積があるそうですが、下の写真を見てもわかる通り、降りる場所が見当たりません。
そこでこの崖の下の写真をアップにした写真があります。例によってブレていますが・・・
本丸よりさらに大きな石がゴロゴロしていました。これは武田氏より後に入城した丹羽長秀や浅野長政、木下勝俊らが造成したもののようです。今後この二ノ丸まで行けるようにしてほしいなと思います。
山上御殿は1988(昭和63)年に発掘調査されています。この後瀬山城入口の看板の写真をみると石敷もみえますので、結構しっかり整備していたことがうかがえます。
こちらの写真は後瀬山城の麓にある空印寺です。うしろにある山が後瀬山です。この寺は若狭武田氏の居館跡に建てられたものだそうです。
この広い平坦面が、武田氏の守護居館跡地です。
この空き地はかつて、この設置された看板によると小浜小学校の跡地だそうです。空印寺を含めて居館跡だったようです。堀に囲まれた一辺100mほどの大きな居館があり、武田氏の政治の中心になっていたようです。
この空き地は史跡公園として整備される予定だそうです。堀はこのイメージ図を見ると、水が張ってあり石垣もあったようです。土塁に囲まれたところに唐門がありますが、このイメージ図をみると朝倉氏一乗谷史跡の義景館の門を参考にしているようですね。早く整備してほしいなあと思いますが、このイメージを見ると主殿や会所などは発掘されていたのかな・・・と思います。きっと建物群は今の空印寺の部分にあったのかなと思います。
次に「福井県立若狭歴史博物館」に行きました。後瀬山城から車で7分ほどの距離です。若狭全体に関する博物館なので、若狭武田氏がメインではありませんが、常設展でも中世の事や武田氏の事もちゃんと取り上げています。
しかし、このような企画展も度々催しているのでぜひ寄ってほしい施設です。若狭武田氏は、京都に近く室町幕府ともかなりの関わりがあります。その点で能登畠山氏との共通点も多く、非常に参考になります。
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