畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

一乗谷朝倉氏遺跡資料館

2007-12-15 18:07:50 | 旅行・観光

 京都・滋賀・福井旅行2日目。余呉を出発し、朝の8時頃に福井県敦賀のインターを上り北陸道を行く。武藤様の車は速すぎず遅すぎず安全運転。それでも9時ぴったりに一乗谷朝倉氏遺跡資料館に到着。資料館が100円。復元町並みが210円らしい。安い。
 一乗谷遺跡は30年以上にもわたって発掘調査が行われた。その、出土品や模型や、文書資料などを同資料館にて展示している。古文書などだけの文書史料でも貴重なのに、これほど豊かな遺構や遺跡が出てくる中世遺跡はない。それゆえ、中世史跡でも最先端の発掘調査史跡と言える。資料館で一番楽しみにしていたのが、刊行物の購入である。四国旅行で訪れた湯築城資料館では、様々な発掘調査の内容が展示されとても面白かったのだが、常設展示の解説書など刊行物が一切なかった。とてもがっかりした。しかし、この一乗谷朝倉氏遺跡資料館はすごい。参考にしたい資料が山ほどあった。ここで合計7冊。9000円ほどの資料を購入。私は朝倉氏を専門に調べているわけではない。しかし、今後おそらく発掘調査がされるであろう七尾城史跡と七尾城下町史跡で様々な遺跡が出たとき、おそらく一乗谷の発掘調査が参考になると考えた。だからこそ大量に資料を購入してしまった。お金が湯水のごとく消える。
 

 さて、次に一乗谷朝倉氏遺跡の復元武家屋敷・町並みへと向かう。資料館から復元箇所に向かうまでにも、さらに発掘調査が進められていることがわかる。上記写真は「下城戸」といって、一乗谷の町に入る門のようなところだ。中世史跡は近世の城下町と違い戦乱の世のため防戦意識が高い。そこで、メインストリートも曲がっていたり、このように門の存在もある。このように実際の発掘調査をみると、そろそろ文献史料に限界が見えてきたのと畠山研究を進めるには考古学的視野が必要になってくると思う。はやく発掘調査がされないかな…。


余呉の夜と朝

2007-12-10 23:10:21 | 旅行・観光

(↑余呉の伝説ともなっている余呉湖畔にある龍女の目玉石)
 この1泊2日の旅行では、武藤舜秀様のご自宅に泊めていただいた。武藤様のご自宅では、ご家族の方から余呉の歴史のお話が聞けたし、夕食までご馳走になってしまった。夜には武藤様のお部屋で色々な歴史の本を見せて頂いたりするなど、本当に有難いことで武藤様に改めて御礼を申し上げたいと思います。
 実は余呉という地は、畠山義綱が没した地であると言われている。最初は能登畠山氏と余呉のつながりはそれだけであると思っていたが、実は15世紀初め頃に畠山満慶が余呉庄の地頭となっていることが発覚。また、15世紀の末には畠山義元の邸宅があったとされ、ますます能登畠山氏と余呉の関係が深いことがわかった。翌朝には畠山氏が連歌を詠む時に見ていたであろう余呉湖を探索するなど、改めて畠山氏とのつながりの深さを確認できた。さらに、余呉の地は滋賀県でも最北端にあり、福井県敦賀市に本当に近いことを実感する。日本海に近いということで、ますます北陸や能登との繋がりを感じることができた。この旅ではなんども現地調査の大切さを実感したが、この余呉でもそれを十分に感じた。そして、この旅がきっかけとなって、またサイトの更新する気力も回復してきたのである。
 さて、次は高速・北陸道を通って越前朝倉の一乗谷史跡に行く。

武田元明の墓

2007-12-09 23:27:33 | 旅行・観光

 朽木の庭園の次に行ったのが、高島市マキノ町海津にある宝幢院。ここには小浜城主で若狭武田氏最後の当主・武田元明の墓がある。朝倉氏に元明が拉致されたことは知っていたが、朝倉滅亡後に小浜に帰っていることは知らなかった。さらに宝幢院が立てた看板によると、「羽柴秀吉が元明の妻龍子へ横恋慕から、元明は、秀吉によって海津宝幢院に呼び出され、明智光秀の謀反に味方したという口実で、無理に切腹をさせられたと伝えられている。この時元明は三十一歳であった。」と記されている。写真が武田元明の墓である。廟もなくひっそりとしたものである。滅亡した大名家の悲哀さを物語る。このようなスポットは見逃しがちだが、訪れると感慨深いものがある。
 ただ、このようにしっかりと説明の看板も建ち、現にこのように花まで添えられているというのはうらやましい気がする。畠山義綱の墓はどこにあるか一般には知られていない。どこにあるんだろう?

朽木庭園

2007-12-08 17:26:12 | 旅行・観光

 足利義晴は、足利義維を擁立した細川晴元と対立し、1528年に京より逃れて朽木へ逃亡する。なぜ朽木に逃亡したのかというと、近江の朽木氏を頼ったとされる。無論それ以外にも理由はあるだろう。義晴の父、義澄もこの朽木に逃れてきており、この地で義晴は生まれている。そして、この朽木の地に来てよくわかったのが、この朽木(高島市)は琵琶湖の西側にあり京都には非常に近い位置にある。すなわちすぐに京都を奪回できる地にある。「早く京都を奪還したい」という想いがこの地を選び、朽木氏に頼った理由なのかと思われる。そういえば、15代将軍義昭は最初京都から逃亡し若狭武田氏を頼っている。若狭はこの朽木より京から遠い。それだけ、義昭にとっては“すぐに京を奪還できる情勢にない”ことがわかる。やはり現地調査は大切だ。
 亡命しているとはいえ、将軍のために作られた庭園を現代でも見ることができるというのは、その時代にタイムスリップしたような気さえする。戦国時代の文化水準を考える上でも、庭園跡をみるのは大切なことである。さらに言えば戦国時代の文化水準は、それだけの経済水準を示し、それはすなわち軍事力・政治力にも通じるものがある。ただたんなる娯楽と考えずに、どのような背景があってこのような庭園が造園されたのか考えたいものだ。


船岡山公園

2007-12-06 21:53:37 | 旅行・観光

 京都。船岡山。それほど高くない山ではあるが、その山頂に登ると京都市街が一望でき、戦況を見るには適した山でである。そのため、応仁の乱では西軍の大内氏の本陣が置かれていた(現在でも一部の京都の人は「先の戦いでは大変どしたなぁ。」という時、1467年の応仁の乱をさすとも言われ、それだけ京都の人にとって応仁の乱は被害の大きかった戦いであると言える)。また、永正年間にも将軍足利義稙とそれに対する勢力が対立するとき、細川方(反義稙方)の本陣が置かれた。戦略的にも重要な地であったのであろう。
 現在は「船岡山公園」となっている。公園内に空堀のようなものがあり、最初は公園として整備されるときに作られたものかと思ったが、写真で見てわかるとおり、人がおよそ通らないようなところまでくぼみが続いており、公園整備時に作られたとは思い難い。従ってこれは戦国時代に本陣が置かれた時に作られた空堀だと思われる。

 次は12代将軍・足利義晴が近江に逃れた時によった朽木にある庭園を紹介します。