ぬえの能楽通信blog

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『朝長』について(その3=保元の乱の推移)

2006-04-03 22:42:21 | 能楽
えー、だいぶ話題がずれてしまったので保元の乱に話を戻して。。(^^;)
崇徳上皇の謀反が発覚して後白河天皇との対立が深まり、双方が武士を集めました。。の続き。

保元元年(1156)7月5日、後白河天皇は少納言・藤原信西をもって都と御所、関の警備を厳重にする旨武士・検非違使に命じ、その夜には謀反の輩はみな流罪に処す、との宣下が出されました。そんな中で義朝らによって藤原家の本邸である東三条殿(ひがしさんじょうでん=上皇側の藤原頼長の邸)の捜索が行われ、彼が加担して崇徳上皇が謀反を起こす計画がある事は疑いなくなり、邸は没収されました。

東三条、と言えば能『鵺』でも怪物は「東三条の森の方より」わき出た黒雲に乗って現れますが、案外近衛天皇の命ばかりか藤原家の滅亡も狙ったのかしらん。

8日、天皇側の関白・藤原忠道らは御所に参集し頼長清盛の伯父・忠正と源頼憲を戦の大将軍にしようとしている旨も聞こえ、崇徳院を推して謀反を起こした首謀者 左大臣・藤原頼長を流罪にする旨を定めました。だからー、頼長は忠道の弟だって言うのに。。
この日天下の争乱を予告するように ほうき星が都の東空に現れ、首都鎮守の将軍塚の鳴動が起こりました。

10日、崇徳院は鳥羽の御所を出て左京の白河殿北院に移りました。兵の勢力としては天皇側に劣っていた崇徳院は源為義(義朝の父)を語らい、為義は為朝をはじめその子6名とともに白河殿に参内しました。崇徳院の喜びはなのめならず、為義に所領と重代の太刀を下されました。やがて頼長も白河殿に入り、崇徳院側の兵の総勢は1千余騎となり、白河殿の四方の門の守備にあたりました。

一方 後白河天皇も内裏は手狭であるとして、三種の神器とともに すでに没収してあった元・頼長の邸・東三条殿に移り、義朝を召して少納言・藤原信西を通じて戦略を問うと、義朝は夜討ちを奏上してすぐに認可され、その夜のうちに東国からの軍勢も集結して大軍勢となります。

ちなみに藤原信西はのちの平治の乱で義朝に討たれる運命にあり、その娘(実在したかは不明)はのちに「阿波内侍」と呼ばれ、壇之浦で建礼門院(清盛の娘=徳子)とともに入水して、やはりともに生きながらえ、大原の庵へ隠棲するときにもこれに付き従って彼女の生涯を看取った人。ついでながら阿波内侍とともに大原で建礼門院に仕えた大納言佐(大納言局)は平重衡の北の方です。

このとき東国から上った軍勢には鎌田次郎正清(能『朝長』にもその名が見える義朝の最期まで付き従った郎等)、長井の斉藤別当実盛、岡部六弥太(のちに忠度を討つことになる武将)などのほか義朝の舅の熱田神宮の宮司が差し向けた家子郎等300余騎、また内裏の警護に当たっていた清盛の軍勢には弟の頼盛、教盛、経盛(経正、敦盛の父)、嫡子重盛、次男基盛らと郎等600余騎、さらに源頼政の軍勢200余騎ら総勢1700余騎であったとのこと。

崇徳上皇側でも頼長が為朝に戦略を問い、義朝と同じように夜襲作戦をもって後白河天皇を奪取するよう奏上しますが頼長は体面に執着して夜討ちの案を退け、為朝は苦々しい思いをしています。

かくて義朝は上皇方の本拠に向けて保元元年7月11日未明に出陣しました。鳥羽法皇の崩御からわずか9日後のことです。面白いのはこの時 清盛義朝に遅れて出陣したのですが、東に向かって行軍するのは11日が「東塞がり」の忌みの日に当たる事と、このままでは朝日に向かって弓を引く事になる、と言っていったん鴨川を渡って北に進路を取ったりしています。

白河殿に天皇側の軍勢が迫り、それに気づいた為朝は奇襲の先手を取られた事を悔しがりました。崇徳院は彼をなだめようと突然の除目が行われましたが、為朝はきっぱりとこれを辞退。『保元物語』では以下、為朝の活躍が描かれていて、その強弓のために清盛は為朝が守備する門への攻撃をあきらめ、代わって義朝の軍勢から鎌田正清が挑みますがこれも敗退。ついに義朝が我が弟 為朝と向かい合う戦況に。ところがさすが為朝も兄に矢を射掛ける事を慎み、戦は一進一退の乱戦状態となります。

ここで義朝は勅許を得て白河殿の西隣の藤原家成邸に火を掛け、白河殿が炎に包まれると、崇徳上皇と頼長は馬に乗り、少数の武士とともに密かに御所を脱出しました。これにて戦の大勢は決し、白河殿から逃亡する頼長は流れ矢に当たって重傷を負います。

7月11日に起こった「保元の乱」の開戦は寅ノ刻(午前4時)、辰ノ刻(午前8時)には白河殿が破られたので、「乱」という言葉に私たちが持つ印象よりはずっと短期間(というか短時間)で終結した合戦でした。やっぱ、これはクーデター未遂事件、というものでしょうね。

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