ぬえの能楽通信blog

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『朝長』について(その11)

2006-04-19 02:16:09 | 能楽
さて『平治物語』の中での朝長について、彼はこの物語の中では軍勢を率いた義朝が御所の日華門で平家の来襲を待ちかまえる場面と、竜華越えで僧兵が射た矢を膝に受けるところ、そして青墓宿で義朝の手に掛かって落命するところ、の都合三カ所しか登場しません。印象としては煌びやかな装束を着て馬に乗り、父や兄とともに御所の門前に颯爽と居並ぶ公達ぶりと、それとは対照的に合戦の場面ではすでに矢傷を負い、悲痛な思いで落人一行の一員となり果て、ついには覚悟のうえで父の手に掛かる、という。。運命に翻弄される生き様は、どこか平家の公達と見まごうような人物像です。。

こう考えてくると、そういえば、能の登場人物の中で、源氏の武者でありながら法被ではなく長絹を着るのはシテではこの『朝長』と『巴』の「替装束」の小書の時ぐらいのもので、そのほかツレでも『正尊』の義経、『土蜘蛛』の頼光などに限られるのではないか、と気がつきました。

このうち、『巴』は女武者で、「替装束」でこそ長絹を着るけれども、小書がない普通の演出では唐織を坪折りに着ているから、『朝長』のシテの役柄とはおのずから違いがあるでしょう。またツレの役の場合も『正尊』のツレ義経は、土佐坊を邸に迎えるという舞台設定なので、長絹を着るのは軍装を解いた高位の者の普段着という意味合いでしょうし、『土蜘蛛』の源頼光は高名な武将ながら、この曲では病床に伏している設定で、この役は裳着胴で演じる場合も多い事を考えると、これも例外的な装束付けだと考えるべきでしょう。実際、義経役では『木曽』(ツレ)や『船弁慶』『七騎落』『大仏供養』(子方)は法被を着ていて、これらの役は『屋島』と同様、軍装をしている=まさしく『朝長』と同じ設定=なのです。

やはり『朝長』は、源氏の武将という範疇では捉えられない作品で、(装束付けも『朝長』の作者みずからが考え出したとするならば)作者がこの曲を作った意図も義朝・頼朝・義経の、源氏の父子・兄弟の系譜とは無関係にあると考えるべきでしょう。

それと、注目すべきは主人公・朝長の最期が『平治物語』とはまったく違った展開となっている点です。能では、たとえば『葵上』のように原作(や史実)とはまったく違う展開を見せる脚本の曲は多く見いだせるのですが、これらは舞台の進行は当初原作の通りに進んでゆきながら、途中で原作を離れて、作者の発想に従って自由に展開している場合がほとんどです。

たとえば『葵上』では光源氏の正妻で身重の葵上が病臥しているのは、物の怪(六条御息所(シテ)の嫉妬の心が生み出した生霊)が原因で、生霊は葵上を取り殺そうと企てますが、ここまでは『源氏物語』に忠実に作られています。ところが原作が物の怪の攻撃がやんだ間隙に葵上は夕霧を出産し、左大臣家の人々が喜んでいる隙に物の怪がついに葵上を取り殺すのに成功したのに比べて、能では物の怪を退散させるために横川の小聖という、宇治十帖に登場して自殺未遂をした浮舟を救う人物を配して鬼女となった生霊と対決させ、最後には生霊は自分の所行を悔いて成仏する、という脚本になっています。

なぜこのような方法を取る能の脚本があるのでしょうか? 作者が能を作曲する場合に、まず本説に依りながら、じつは作者自身がその曲に描きたいテーマはあらかじめ別にあったのだと ぬえは考えています。すなわちこの脚本は作者が自分の考えるテーマを観客に自然に受け入れてもらうための、いわば「仕掛け」だと思うのです。観客は『葵上』の能を見ながら、それぞれが知っている『源氏物語』をその上に重ねながら舞台を見ていて、次第にそのストーリーが『源氏』を離れてきている事に気づく。しかし能の導入部分が本説に忠実であったために、すでに観客はその舞台の推移を見届けるのに違和感を覚えないでしょう。『葵上』の場合、『源氏』を舞台上に視覚化する事が作者の意図でなかったことは明白で、ぬえはこの曲のテーマ=作者が描きたかったこと=とは、すなわち「嫉妬というものが人間を鬼に変える」という事の真偽だと思うのです。

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