ぬえの能楽通信blog

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『朝長』について(その14)

2006-04-29 01:34:33 | 能楽
ほとんどの観客がその人物像をしらない主人公、源朝長。それだけでも不審なのに、この能では前場でも主人公の化身が現れてその人生を語る能の常套手段からは遠く離れていて、彼自身はとうとう前場では姿を見せず、あくまで彼をとりまく第三者ばかりによって彼のおぼろげな記憶が語られるのみです。その中で朝長という人間はどのように描かれているのでしょうか。

前シテの青墓の女長者は、この役が『平治』に登場する大炊だとすれば、彼女は義朝にとっては義理の母にあたりますが、彼女の娘・延寿は義朝の正妻ではなく、しかも都には召されずに義朝との間の子・夜叉御前や母の大炊とともに青墓に住んでいるのですから、今年16歳になる朝長を幼少から見守っていたとは考えにくいでしょう。能『朝長』の中でも前シテは「一夜の御宿りにあへなく自害し給へば」とか「一樹の蔭の宿り、他生の縁と聞く時は」などと、朝長が亡くなった夜が彼と初対面であったとも受け取れる表現があります。

またワキは子守役として幼少から朝長に付き従っていながら、「さる事ありて御暇賜り、はや十箇年に餘り、かやうの姿となりて候」と語っています。とすれば彼は朝長が6歳になる以前に義朝の邸を後にした事になり、さらにこのワキはその後出家して、いまは嵯峨・清涼寺の住侶となっています。従僧を引き連れて旅をする身分なのだから彼が出家したのは最近の事ではなく、彼は朝長が武将の子として成長著しい輝かしい青春時代を見ていない可能性が高いでしょう。(実際、小書『懺法』のときにワキが語る「大崩の語」では、ワキは平治の乱の顛末を語りますが、最後に「そのとき自分は寺に居たので目の前で見たわけではない」というような事を言います)

いうなれば、誕生時の朝長と、最期に臨む朝長と、同じひとりの人間に関わっていながら、はるかに時間を隔てて朝長の人生の中のほんの一部分=誕生と死という両極=だけしか見ていない二人が邂逅しているのが能『朝長』の前場なのです。ぬえは、ここに能『朝長』の前場に作者が意図した仕掛けがあるのではないか、と考えています。

能『朝長』の前場の主眼は、言うまでもなく前シテが朝長の自害のさまを語る「語り」で、この部分はこの能全体の中でもクライマックスと捉えられるほど重要な場面です(ぬえもどうしても稽古の比重はこの「語り」に偏ってしまうのですよねー。。)。およそ、前シテがややもすると後シテよりも比重が大きくなってしまうのは、『道成寺』を除けば、他にはちょっとすぐには思いつかないほど例は少ないでしょう。

朝長の人生の両極の中でも、誕生・成長の喜びよりも、若くして命を散らしたその死の方がずっと劇的であることは当然で、実際、能『朝長』では子守りだったワキから幼少の朝長の事はほとんど語られず、朝長の事を語るのはもっぱら前シテの女長者で、それも「夜に入りて」落人となった義朝一行が突然女長者の宿を訪ねる場面から、その深夜、「夜更け人静まってのち」朝長が自害するまでの、数時間程度の間の事なのです。とすれば結局、この能の前場では、みずから望んで死を選んだという強固な意志の力のようなもの以外には、朝長の人物像というものはまったく描かれていない、と言えるのではないか?

ぬえは、この前場で作者が描いたものは、前シテの口から語られる朝長という人間そのものではなくて、やはり前シテ青墓の女長者その人だったのではないか、と考えています。極論すれば、女長者その人でさえなくて、「追憶」というのが、前場のみならずこの能全体のテーマなんじゃないだろうか。

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