ぬえの能楽通信blog

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『朝長』について(その6=源氏敗走)

2006-04-10 02:26:43 | 能楽
一応クーデターの形はとった保元の乱と比べても、いかにも大義のない権力争いから起こされた平治の乱ですが、ともあれ上皇と天皇が清盛に確保された現在、平家は官軍、義朝をはじめ源氏一統は賊軍となってしまいました。

なんでこんなになっちゃったの? 義朝は保元の乱で思わずも父・為義や為朝はじめ弟たちと対峙する事になり、戦後、彼らはもちろん、幼子の弟たち四人もことごとく斬首する憂き目を見ました。史実かどうかはともかく『保元物語』では清盛が同じく叔父・忠正と四人の子を討ちながら、実はそうする事によって義朝にも同じく謀反人たる実父・為義を斬らせるように仕向けた策謀として描かれています(清盛と忠正は不仲だった、とも書かれている)。義朝は戦後の恩賞でも清盛に差をつけられて後白河上皇を恨み、清盛の策謀に気づいてこれをも恨むようになったとか。それでは平治の乱での義朝の立場はまさしく逆上で、こんなたわいもない理由から都を再び戦場とするなんて。。庶民の生活なんて本当に彼らの眼には映っていないのねー。。

さて義朝とその三人の子は、六波羅の平家が押し寄せてくるのを御所にて待ち受けます。当時 嫡男・悪源太義平は十九歳、次男・中宮太夫進朝長は十六歳、そして後に征夷大将軍となって鎌倉幕府を開く事になる三男・右兵衛佐頼朝はわずか十三歳という若さでした(頼朝はこの時、父義朝に向かって「平家や早向ひ候らん。人に先をせられんより、先づ六波羅へ寄せ候はん」と進言しています)。

一方仮の御所となった六波羅の清盛邸では詮議が行われ、清盛は帝を守護するために六波羅に留まり、嫡男・重盛、三河守頼盛、淡路守教盛ら3千余騎が内裏へ向かいました。

内裏で平家の鬨の声を聞いた信頼はにわかに膝が震えだして階段も下りられません。人並みに馬に乗ろうとしますがそれも叶わず、見かねた侍が馬の上に押し上げたところ、今度は勢い余って馬の反対側に落ち、顔には砂がつき鼻血を出して見苦しい有様。義朝もそれを見てようやく信頼の本性を悟り「あの信頼と云ふ不覚人は臆したりな」と言って別の守備陣に移ります。

その信頼が固める内裏の門を重盛の軍勢5百騎が攻めると信頼はたちまち退却して、重盛はやすやすと門の中に討ち入りました。義朝に命じられて悪源太義平は信頼が破られた門の敵を追い返すために馳せ向かい、これに鎌田正清、長井の別当実盛、岡部六弥太、熊谷次郎直実ら十七騎も続きます。かくて内裏紫宸殿の前庭にて源平の御曹司二人の一騎打ちが繰り広げられます(『平治物語』ではここが一番の見どころとされているんだとか)。

義平以下十八騎は重盛の首を狙い左近の桜、右近の橘の間を7、8度まで追い回し、その勢いに平家の5百騎は引き退きました。重盛は新手の5百騎を率いて戦い、義平は再び十八騎でそれに対抗しました。するとついに平家は門外に引き退き、義平はそれを追って門外に出ます。

義平は堀川で重盛を追いつめ、鎌田が弓を射て重盛は落馬しますが重盛は組み付こうとする鎌田を弓で打ち据え、その郎等も命をかけて重盛をかばい、重盛は六波羅まで落ちのびました。

三河守頼盛は別の門にて義朝以下の軍勢と遭遇。朝長や頼朝と合戦に及びますが、義朝も「何と云へども若者共の軍するは疎に見ゆるぞ。義朝駆けて見せん」と先頭に立って戦い、一進一退の攻防の中、重盛を討ち損じた義平も加勢します。

ところが平家方では策略をめぐらし、主立った軍勢はみな六波羅まで引き退き、源氏がそれを追うのを幸いと、内裏を奪うことに成功します。ここに信頼は卑怯にも六波羅は目指さずに一目散に落ち行きました。義朝側でも頼政が心変わりして平家方に付き、源氏の敗北は明らかになってきました。

それでも義平は精兵を率いて六波羅になだれ込み、清盛と相対します。これを阻もうとする平家の軍勢との戦いが続きますが、義平はついに破れて逃げ落ち、これを見た義朝も敗走します。

かくて落ち武者となった義朝一行は東国へ向かい、青墓での朝長の最期につながって行きます。

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→前の記事 『朝長』について(その5=平治の乱勃発。。朝長登場!)

今日のお題「筑波山全景」
  ちゃあんと上りましたよ~ケーブルカーで。。

  磯部神社参詣の記事と申すは 桜川磯部神社