ぬえの能楽通信blog

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『朝長』について(その8=朝長の最期)

2006-04-13 15:39:19 | 能楽
朝長の最期】

青墓の宿に戻った朝長を見た義朝は「されば頼朝は稚くとも斯くはあらじ」と怒りましたが、朝長は「これに候はば定めて敵に生け捕られ候ひなん。御手に懸けさせ給ひて心安く思し召し候へ」と覚悟のうえの帰着だと申します。義朝も「汝は不覚の者と思ひたれど、誠に義朝が子なりけり。念仏申せ」とすでに太刀を抜きます。延寿と大炊は驚き、義朝の太刀にすがりついて涙ながらに止めると、義朝は「あまりに臆したれば勇むるなり」と太刀を納め、朝長も寝所へ入れば、女たちもそれぞれ帰りました。

その夜も更けた頃、義朝が「太夫は如何に」と言えば、朝長も「待ち申し候」とて掌を合わせて念仏し、義朝朝長の胸元を三刀刺して首を掻き、寝姿になして衣を掛けて置きました。義朝は都に残した娘を鎌田に命じて害させ、頼朝は行方知れずとなり、今また朝長を自らの手に懸けて失い、その心中は如何ばかりでしょう。

義朝はいつまでも青墓に留まるわけにもいかないので出立を定めます。大炊は年末なのでせめて年を明かしてから出発する事を勧めますが、義朝朝長をよく看てやってほしい、と言ってすでに出発しようとします。
そこに平家の命を受けた宿の役人2~300人が義朝の事を聞きつけて押し寄せました。これとひと戦してから一行は夜になって青墓を出発しました。

大炊は夜が明けても朝長が起きてこないので寝所を見てみると、果たして朝長の骸に小袖が引き掛けてありました。大炊はようやく義朝の意を悟り、泣く泣く骸をうしろの竹原の中に納めました。

義朝の最期】

青墓を出た義朝は、鎌田正清と金王丸の二人だけを連れて尾張の野間に向かい、長田忠致(おさだただむね)の元に向かいます。鎌田の妻は長田の娘で、長田は鎌田にとって舅に当たるのです。陸路は危険であるため鎌田の計らいで大炊の弟、鷲の栖の玄光法師というこの辺に隠れなき強盗を頼み、その小舟に乗って漕ぎ出しました。こうして玄光を含めて主従四人が12月29日に尾張・野間の長田邸に着きました。鎌田は長田に東国へ向かうための馬の用意を言いつけますが、長田はせめて正月三が日の祝いまで逗留する事を乞い、一行は力なくそこに留まります。

さて長田は息子の景致(かげむね)と相談し、義朝を暗殺して平家に対しての功名とする企てを定めます。かくして正月三日に忠致は義朝の御前へ参り、「都の御合戦道すがらの御辛労に、御湯召され候へ」と言い、義朝は湯殿へ入りました。金王丸が太刀を持ったまま義朝の体を洗いに参りましたが、やがて帷子(かたびら)を取りに金王丸が出てきた隙に三人の武者が湯殿へ飛び込み、あえなく義朝を刺し殺しました。

そこへ戻った金王丸は即座に三人を斬り捨てます。そのとき鎌田は忠致に向かって酒を飲んでいましたが、これを聞きつけてつっと立ち上がります。そこに酌をしていた男が刀を抜いて飛びかかります。これをかわして鎌田は反対にこの男を刺し殺しますが、後ろより景致が鎌田の首を打ち落としました。享年38歳、義朝と同年にて失せました。

金王丸と玄光法師はわき目もふらずに斬って廻りましたが、忠致・景致親子を討つ事はできず、厩から馬を引き出してこれに乗って野間を駆け出ました。玄光法師は鷲の栖へ帰り、金王丸は都へ上りました。

長田忠致の娘(鎌田の妻)はこの事件を聞いて長田邸を訪れ、夫の遺骸に取り付いてしばし泣いていましたが、夫の刀を抜いて自分の胸元に刺して自害しました。忠致は勲功と引き替えに最愛の娘を失う事となり、景致が義朝鎌田の首を取って死骸を一つの穴に埋めました。

【頼朝、青墓に到着】

12月28日の夜、父義朝にも兄義平・朝長にも追い遅れた頼朝は雪の中をさまよっていましたが、浅井で老尼に助けられ、その家で正月を明かしました。ようやく雪も消えたので出立しましたが、人目を忍んで谷川をたどるところにある鵜飼の者と行き会いました。これが情けのある者で、事情を聞くと頼朝を女の姿にやつして供のように装い、青墓に連れて行ってくれるのでした。

青墓の大炊はたいそう喜び、延寿や夜叉御前もさまざまに頼朝を労りましたが、やがて頼朝は東国に向けて下りました。

金王丸、常盤を訪れる】

明けて平治二年、正月五日に金王丸は都の常盤のもとにたどり着きました。長田の奸計によって義朝が討たれた事を聞いた常盤と三人の子どもたちは嘆き悲しみます。まもなく金王丸は出家して、生涯義朝の後世を弔いました。

金王丸について〉

『平治物語』に義朝の郎等として登場し、能『朝長』にもその名が見える金王丸は、坂東平氏の渋谷氏の出身と言われています。平家の血筋に繋がる者ながら幼い時より義朝に仕え、その最期まで付き従って、常盤に義朝の最期の様子を伝えた後に出家、諸国を巡って義朝の菩提を弔った、と伝えられます。

この渋谷氏の拠点は現在の東京・渋谷のあたりで、渋谷駅のそばに建つ金王八幡神社が渋谷氏の居館の跡とされています。また神社に隣接した坂道に金王坂という地名を残しています。金王丸は忠勤の士としての誉れが高く、江戸時代には金王丸を題材に、多くの文芸作品も生まれました。また金王八幡神社には江戸時代、春日局によって社殿と門が寄進されました。

なお『平家物語』には、金王丸が出家して土佐坊昌俊と名のり、平家滅亡ののち、頼朝に派遣されて義経を襲撃した、と書かれています(能『正尊』のおはなし)が、異論があって、どうも金王丸と土佐坊昌俊は別人と考えた方がよさそうです。

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