ぬえの能楽通信blog

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『朝長』について(その10=平治の乱、その後)

2006-04-18 00:20:20 | 能楽
この後遮那王は承安4年(1174)、16歳のときに鞍馬に参った奥州の金売り吉次に従って奥州を目指して下向、その途次 鏡の宿で元服してみずから「源九郎義経」と名のり(能『烏帽子折』の題材)、また盗賊退治など武勇の手柄もあり(能『熊坂』の題材)、はじめての郎等として伊勢の三郎を得、奥州ではかつての義朝の郎等の娘の老尼から、我が子佐藤次信・忠信の二人を家人として差し出され(彼らの活躍は能『忠信』『吉野静』などにも描かれ、老尼は能『摂待』のシテ)、ついに奥州の藤原秀衡に保護されます。

頼朝は伊豆の蛭が小島の配所にて21年を過ごしていました。治承4年(1180)、以仁王の乱の折に平家追討の令旨が諸国の源氏に向かって発せられ、頼朝もこれを受け取ります。しかし以仁王は源頼政とともに宇治で討たれ(能『頼政』の題材)、平家はこの令旨を受けた源氏の討伐に乗り出し、ここに頼朝は平家打倒のため挙兵を決意します。はじめ頼朝軍は相模国へ向けて進軍しますが石橋山の合戦で大庭景親・熊谷直実らに破れ、土肥実平らわずかな勢で真鶴岬から安房国へ逃れ(能『七騎落』の題材)ますが、やがてそこから再決起してついに関八州(武蔵・相模・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)を従えます。義経も奥州から馳せ参じて合流、日本中を巻き込んだ源平の戦乱の時代に続いてゆきます。

長田忠致・景致の最期】

寿永2年(1183)、木曽義仲の軍勢の軍勢がいち早く都に入ると聞こえると平家一門は安徳天皇を戴き、三種の神器を携えて西海に逃れました。そのとき頼朝を助けた池禅尼と平頼盛の一族だけには頼朝から、恩義に報いるため都落ちを思いとどまる旨 事前に内々の使いが遣わされ、それに従った者は頼朝によって所領を安堵されました。

一方、主君・義朝をだまし討ちにした長田父子は平家にも憎まれて西国へも同道できずにいましたが、いずれ討たれると承知してか彼らは鎌倉に頭を垂れて参上しました。頼朝は「いしう参りたり」とだけ言ってしばらくは土肥次郎に預けおきましたが、範頼・義経が平家討伐のために西国に下るときにその軍勢のうちに長田父子を加え、「身を全くして合戦の忠節を致せ。毒薬変じて甘露と成ると云ふことあれば、勲功あらば大なる恩賞を行ふべし」と申しつけました。

されば鎌倉勢は木曽義仲を追い落とし、平家を摂津・一ノ谷に破りましたが、その戦況報告にも長田父子は「又なき剛の者にて候ふ。向ふ敵を討ち、当たる所を破らずと云ふことなし」と獅子奮迅の活躍。しかし屋島の城が落ちたとき頼朝は土肥に命じて長田父子を連れて鎌倉に帰るよう命じました。

頼朝は長田に「今度の挙動神妙なりと聞く。約束の勧賞取らするぞ。相構えて頭殿(=義朝)の御孝養よくよく申せ」と言うと父子を搦め取り、義朝の墓前に引き出すと磔に処されました。人々は「平家の方へも落行かず、さらば城にも引籠り矢の一つをも射ずして、身命を捨てて軍して、欲しからぬ恩賞かな。是も只不義の致す所、業報の果す故なり」と申し合いました。

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保元・平治の乱の経緯を追って『保元物語』『平治物語』を読んできましたが、能ではおなじみの治承・寿永の6年間に渡る源平の合戦の伏線として二つの戦を見るとき、その規模の小ささ、戦の発端が利権争いだった事など、意外な面が見えてきます。結局、青墓で自害した(と、能『朝長』では描かれているが、足手まといになる事を恐れてみずから父・義朝の手に掛かった、というのが真相らしい)や、一ノ谷で哀れにも落命した敦盛・経正・忠度ら、さらに平家の行く末に失望して九州で入水自殺した清経らの公達は、朝廷を舞台にした醜い権力争いの巻き添えとなって若い命を散らした、と言えそう。いつの世も戦争ってのは残酷なものですねー。。

また『保元』『平治』を読んで気がつくのは、『平家物語』とくらべて源平の要人の人となりの描かれ方がすいぶん違う事です。清盛は『平家』ではときに激情をもって果敢に政治判断を下し、先見の明が利く、まさしく平家を統率するにふさわしい大人物、として描かれますが、『平治』では彼が信頼・義朝が帝・上皇を確保して反乱に及んだ事を熊野参詣の途次に聞いた清盛は「急ぎ(都へ)下向すべきか。是まで参つて参詣を遂げざらんも無念なり。如何すべき」などと優柔不断な事を言ったり、義朝勢が六波羅に押し寄せると聞いて甲冑をおっ取ったまでは良かったのですが、あわてて兜の前後を間違えて着けてしまって重盛に呆れられたりしています。重盛が『平家』と同じように、平家の惣領として冷静沈着、武勇にも優れた人物として描かれているのとくらべて、どうしたことか清盛の描かれ方はかなり印象が悪いように思います。

また鎌倉幕府を開いた頼朝から「日本国第一の大天狗」と評された後白河法皇も、ここでは時どきの権力者に追従する小心者としての印象が強く描かれているように思います。保元の乱の後しばらくは政権の強化・安定に力を注いだものの、すでに政治の実権は武家の手に移っていて、平治の乱では藤原信頼と源義朝に監禁され、清盛の計略によって脱出してからは清盛に信頼・義朝の追討の宣旨を出す事になり、これ以後事実上武士の支配下に置かれて、朝令暮改のような有様を呈する事となります。

後白河は平治の乱以後は勢力を伸ばした清盛ら平家に逆らうことができず、俊寛・藤原成経・平康頼らによって平家打倒が画策された鹿ヶ谷の密謀に密かに加わったりする有様。さらに平重盛が没するとその所領を召し上げてみるものの、たちまち清盛によって鳥羽院に幽閉されます。木曽義仲が平家打倒のために挙兵するとこれを支援。義仲が迫り平家が都落ちを決めると法皇は比叡山に隠れて、上洛した義仲に平家追討の院宣を出しますが、義仲の軍勢が都で狼藉におよぶと、今度は頼朝に義仲追討の院宣を出します。頼朝に命じられた義経が義仲を討つと、法皇は義経に平家追討の院宣を出す事に。。

平家滅亡後に頼朝と軋轢が生じると、後白河は義経に頼朝追討を命じ、しかしそれが敗れて頼朝から抗議を受けると、今度は頼朝に義経追討の院宣を出します。義経が奥州で討たれると頼朝はさらに奥州藤原の追討の院宣を乞い、これは拒否したものの、頼朝が藤原を滅ぼすと、事後承諾のように追討の院宣を出します。頼朝が征夷大将軍を願い出ると、せめてもの抵抗かこれを頑なに拒否。結局頼朝は後白河法皇の死を待って征夷大将軍に就任しました。武士に利用されながら政権と生命の維持のために最良の道を模索しながら生きながらえた後白河の生き様には悲壮なものが。案外こちらの後白河の姿が本当だったかもしれませんが。

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