ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『朝長』について(その12)

2006-04-24 21:21:31 | 能楽
このところずっと多忙を極めていまして、ブログの更新もすっかりサボってしまいました~~

昨日は伊豆で子ども能の稽古に行き、またまた数時間 小学生のお相手で疲れきりました。。いやー若いっていいねー。それでも子どもたちは部分的に、ではあるけれども確実な成長を遂げていて、だんだんに7月の公演の全体像も見えてきました。まだまだ霞の向こう側に、ですけれども。


さて『朝長』。(^^;)

それにしても源朝長という人物は、源義朝の次男ではありながら、実際のところはやはり、現代はもとよりこの能が作られた時代にあっても、またその後に能が享受された後世にあっても、さほど有名な人物とは思えないのです。前述の通り『平治物語』でも朝長が登場するのは、父や兄弟とともに御所を警護するために日華門に勢揃いする場面が、華やかな武将の姿として唯一描かれている場面で、その後は竜華越えで矢傷を負う場面、そして青墓で父の手に掛かって果てる場面だけで、源義平や平重盛のようにおよそ武将としての勇壮な合戦の場面とは縁遠い存在と言わざるを得ません。

なぜ彼がこれほど大曲とされる能の主人公として描かれるようになったのか、ははなはだ興味をそそられる問題ではあるのですが、それは一時措いておいても、ただ、これほど地味な登場人物をここまでしっかりした能に脚色した作者は本当の才能はまことに非凡である事は疑いがないでしょう。

もっとも現在のところ『朝長』は、金春禅竹の『歌舞髄脳記』にこの曲名が見えるために、禅竹よりは古い作である事は間違いないものの、作者は未詳です(一説には観世元雅の作ではないか、という意見があるようです。ぬえはあまりこの説に説得力を感じませんが。。)。

この曲の背景となる平治の乱を理解するためにこのブログでも『平治物語』を紹介してきたわけですが、能『朝長』を読むとき、その内容が『平治物語』とあまりにも隔絶しているのに驚きを禁じ得ません。と言うより、『朝長』には『平治物語』からの引用は一言一句ない、と言ってよいでしょう。

世阿弥は『三道』に「軍体の能姿。仮令、源平の名将の人体の本説ならば、ことにことに平家の物語のままに書くべし」と記しています。『朝長』が金春禅竹以前に作られた能だとして、また一方 禅竹によるこの曲への言及があったり、元雅作という説が展開される事を考えて、かりに観世座か金春座にゆかりがある人物によって作られ、世阿弥のなんらかの影響があったと考えるならば、これは大いに疑問となるところでしょう。(もっとも、かく言う世阿弥自身が作った修羅能が、『平家物語』の引用に満ちているとはとても言い難いのも事実なんですが。。)

また『朝長』は世阿弥式の複式夢幻能の形式を踏まえていながら、前シテはその化身ではなく、朝長の最期を看取った青墓の宿の長者がその有様を語る、という現在能の形式です。これまた『朝長』が世阿弥の作劇法とはずいぶん異なった視点で作られた能であることを示しているのかもしれません。

前回も少し書いた事にも通じるのですが、能が作られるときには必ず作者の意図というものがこめられているものでしょう。「ことにことに平家の物語のままに書くべし」と書いた世阿弥を含めて、それは本説の内容や本説の作者の意図とはまったく無関係である事も多いのです(もちろん、いかに典拠とした本説があったとしても、創作というものは本来 本説そのものとは無関係に展開されるものなのでしょうけれども…)

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→平治の乱 『朝長』について(その5=平治の乱勃発。。朝長登場!)