ぬえの能楽通信blog

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『朝長』について(その4=保元の乱の終結)

2006-04-05 01:25:08 | 能楽
保元の乱はわずか4時間で大勢が決し、またその4時間後には源義朝・平清盛が打ち揃って後白河天皇に戦勝を奏聞しました。この戦乱は小規模ではあっても、それまでの平安時代の平穏な貴族政治が危機管理に甘いことを露呈して、軍事部門(武士)が政治に発言力を持った初め、でもあり、また京都が戦乱の舞台となった事で貴族から庶民まで武士の力を認識する事となった大きな時代の変換点でもあります。この事件から平治の乱を経て源平合戦、ついには鎌倉幕府の創設まで続いていくのですねー。。

さてこの乱の勝敗が決した後は、敗者の目を覆うばかりの悲惨な末路と、勝者の間に起こる政治的な熾烈な駆け引きが展開されるのです。なんか、千年前の話とはとても思えないんですけど。。(;_:)

まず、負け戦となった崇徳上皇側の末路は悲惨を極めました。

敗走の途中に首を射られる重傷を負った藤原頼長は、何とか車を調達してようやく嵯峨に向かい、さらに柴を積んだ小舟に隠れて奈良に住む父を頼りますが拒絶され、悔しさからか舌を噛み切って、ついに最期を迎えます。後日その首を検分するために送られた勅使によって墓はあばかれ、死骸はそのまま捨て置かれる、という憂き目に。。

崇徳上皇は東山の如意ヶ岳に落ちのびましたが、馬は上れぬ難所で、慣れぬ徒歩の登山をする事に。ついには足から血を流して一歩も歩むこと叶わず、付き従ってきた武士を解散させ、自分は「もし兵どもが参っても手を合わせて許しを乞えば命ばかりは助かるだろう」と、とても上皇とは思えない諦めの境地に至ってしまいました。出家の望みはあっても近くに寺さえもなく、解散に従わず残った武士に昼は柴をかぶせてもらって人目を逃れ、夜は慣れぬ彼らに輿をかついでもらって密かに都に入り知己を訪ねますが、それも果たせず、怪しい僧坊で出家して門跡寺院の仁和寺に無理に投宿。しかし仁和寺からの通報でついに「保護」され、讃岐に流されてそこで憤死しました。

崇徳上皇に付き従った武士たちは散り散りになりましたが、藤原信西は彼らの流刑先を流言させ、さては死罪は免れるかと安心して出家したうえ自首した彼らをことごとく召し捕りました。彼らの処遇について宮廷でも「すでに死刑は廃絶されて久しく、しかも今は鳥羽院の喪中である。罪一等を減じるべき」という意見もありましたが信西はこの意見を排して347年ぶりに死刑を復活させ、ことごとくこれを斬首。

義朝の父・為義と清盛の伯父・忠正は崇徳上皇から暇を仰せつけられて三井寺へ落ち(この二人が連れ立ってとは。。まさに「昔は源平左右にして、朝家を守護し奉り」の、最後の残照かしらん。。)ましたが、それぞれ出家して我が子の義朝と甥の清盛の情けを頼んで降伏しました。

しかし後白河天皇はこれを許さず、清盛に命じて忠正とその子四人を斬首させ、続いて義朝にも命が下り、鎌田正清に命じてついに父・為義を斬首しました。義朝には重ねて弟らの追補の宣旨が下り、これもことごとく斬首されました。為朝だけは身を隠していたのがついに捕らえられましたが、武勇を惜しまれて助命され、自慢の弓を使えぬよう腕の筋を抜かれたうえ伊豆大島に流刑になりました。が。のちに腕の傷が癒えると伊豆諸島を従えて(鬼ヶ島討伐の逸話はこの時のもの)国司に反抗、ついに伊豆介に追討され八丈島で自害しました。

一方勝者の後白河天皇側では、戦乱が収まったその日のうちに崇徳上皇の御所・頼長の邸をはじめ謀反人の宿所20カ所を焼き討ちし、忠通は藤原家の長者に復し、武士には顕彰が行われました。安芸守・清盛は播磨守に任じ、義朝は左馬権頭に任じられたのですが、しかし義朝はこの恩賞に大いに不満を持ち、この遺恨が再び起こる戦乱の要因のひとつとなります。


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今日のお題 「桜川磯部神社の糸桜」
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