ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

能『海士』について(その12)

2006-11-07 01:46:31 | 能楽
余談ですが、室町時代に大和四座が出勤を義務づけられていたのは、興福寺・春日大社若宮のほかにもう一箇所ありました。それが奈良・多武峰(現在の談山神社)で行われた八講猿楽です。そしてじつはこの多武峰は、それこそ藤原鎌足を祭神として祀る神社なのです。ここでは円満井座(金春座)ではなく結崎座(観世座)との繋がりが最も深く、結崎座は八講猿楽へ出勤する義務を果たしていたばかりではなく、この地での催しを重視。欠勤者を座から追放する規定を設けたりしていて、一説には結崎座そのものが多武峰へ参勤するために結成された座である、との見解もあるほどですが、大和猿楽の他の三座~外山座(宝生座)、円満井座、坂戸座も出勤するようになり、のちには四座のうち二座が交代で出勤する定めとなったようです。いずれにせよ今日ある能楽の各流儀の役者は、ここでも藤原氏によって活躍の場を与えられていた形になります。藤原氏が能楽にあたえた影響は多大だったし、少なくとも能役者が藤原氏に対して持つ思いは深いものだった、と言えるでしょう。

。。もっとも、疑問もないわけではなく、たとえば多武峰は鎌足を祀っていながら、藤原氏の氏寺で奈良一帯に圧倒的な勢力を持っていた興福寺とは非常に険悪な関係にあって、平安時代の中頃からは興福寺の衆徒がたびたび多武峰を襲い、社殿はおろか近在の村落まで焼き払ったりしています。このような険悪な関係の二つの寺社に四座がそろって参勤できたのはどういうわけだったのでしょう。

このあたり、多武峰の八講猿楽が室町時代のうちに衰退しはじめて、その末期には断絶してしまったことや、多武峰自身がたび重なる戦災で焼失・再建を重ねて資料を失っていることなどから、現在でもなかなか真相に迫るのは困難なようですが。。考えてみれば興福寺も明治の廃仏毀釈でかなりの痛手を被り、多くの堂塔を失ったばかりか、現在でも寺域を区切る築地は取り壊され、奈良公園の一角にあってどこからでも入り込める状態。。長い歴史というものは、伝統を育みながら、その原初の姿に迫るのは難しいこともあるのですね。。

注:「八講」とは法華経8巻を読誦・供養することで、多武峰でもかつては寺社が共存していたために法会も行われていました。明治の廃仏毀釈以後は神社のみが残り、現在の談山神社となっています。

『海士』に戻って、こういった藤原氏への敬愛のひとつの形として能『海士』が書かれたことは想像に難くないと思います。世阿弥時代にはすでに原型だけでも完成されて上演されていた『海士』は、興福寺での上演にもっとも効果を発揮したでしょうし、能楽の上演の場としても興福寺は大きなウエイトを占めていました。

すると、『海士』に描かれたテーマは、藤原氏と、その氏寺である興福寺に捧げられたものであって、寺社での上演にあたっては、単なる藤原房前の神秘の出生譚の物語の上演である以上に、真相を知って母の霊と邂逅した房前の追善供養によって、いかなる形で母が成仏したか、という仏教理念の体現であることがふさわしい。房前の母親が能の中核である以上、女性が成仏する姿を舞台上に破綻なく体現する事が必要で、この必要から法華経の変成男子の物語を活用した後シテの龍女像が形成されたのでしょうね。

そしてまさしく房前の出生の物語には龍女の変成男子の物語の必要不可欠な小道具、宝珠が登場しているのです。龍宮に飛び入って宝珠を取り返した海女は龍神とは敵対している関係であるはずなのに、彼女が後シテで龍女となって現れるのも、宝珠が仏の教えの具体的な姿なのであり、成仏を約束する証拠である事を考えれば、結局は宝珠の所有を願う龍神も、海女その人や藤原氏、そして興福寺の衆徒も含めた人間も、等しく仏に帰依した仏弟子なのであり、それによって命を落とし、手厚い追善供養を受けた海女が菩薩として房前=あまねき衆生=を祝福する存在として登場しているのでしょう。