ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

古希記念幸清会(その1)

2006-11-25 17:47:22 | 能楽
もう一昨日になるのですが、今年一番の大きな催し『古希記念幸清会』のお手伝いに行って参りました。「古希」が「古来稀」を語源とするならば、その記念で催された今回の会は、それこそ「前代未聞」というべき内容でした。朝10時の開演から夜7時20分に終了するまでの間に老女物ばかり4番の能が並ぶ、というもの。

演者も大変だったが、ご覧になっているお客さまも大変だったでしょう。しかも入場券は二部制にもなっておらず、こりゃ、一日の催しの長さからみて、朝10時からの『卒都婆小町』はお客さまも体力を温存なさって(笑)、ほとんどお出ましにはならないのではないか、と思っていましたが。。いやいや、どうしてどうして、朝からほぼ満席状態で、それが夜まで続いていた、という。。主催者の幸清次郎先生の体力にも脱帽させられた日でしたが、お客さまの熱意も恐ろしいほど。。

朝10時から始まった(それもまた前代未聞だと思うが)『卒都婆小町』(梅若紀長師)は ぬえの師匠家の長男がおシテを勤めました。トメの『檜垣・蘭拍子』のシテを師匠・梅若万三郎が勤めましたので、清次郎先生からのお招きを受けて、父子揃って大曲を披かせて頂いたことになります。思えば2年前に、師匠・万三郎は同じく清次郎先生からの依頼を受けて、能の最奥の秘曲とされている『関寺小町』を幸清会で勤めた事があります。今回も含めて、こういう大曲を、自分の会ではなく、依頼された形で他人様の催しで上演、しかも披キとして上演する機会は、シテ方としても滅多にある事ではないでしょう。この番組を見て「師匠と清次郎先生とはホントに仲良しなんですね~。。」と感心するのは簡単かも知れないけれど、これほど、一世一代と呼べる大曲のシテを任せて自分の催しをする、というのはよほどの信頼関係だし、依頼されたシテの方でも「絶対に失敗が許されない」重責を担って舞台に立った事でしょう。信頼されて任された舞台だけに、その信頼を裏切るような成果だけは絶対に許されないから。。

実際、師匠は2年前の『関寺小町』が済んだあとで、研能会の機関誌『橘香』(きっこう)の中でインタビューに答えて「もしも失敗するような事になったら。。舞台を引退する覚悟でした」というような事を言っています。じつはこのインタビュー、聞き手は ぬえだったのです。師匠はこの舞台までの経緯や心情を活字にして残す事を勧められたそうで、「僕から話を引き出してくれ」と ぬえにおっしゃられて。。雑誌記事になるわけですから、師匠のその言葉は、読者の事を考えて ぬえがあとで少し手を入れました。もちろんインタビューの中で師匠が申されている内容は、そのニュアンスまでも伝わるように細心の注意を払いながら再構成しましたが、実際には師匠は、弟子である ぬえに向かって話されたわけで、記事よりももっと直裁的なお話しぶりで、心情を吐露、という言葉があてはまるようなインタビューになりました。

「絶対に大過のないように。。失敗のないように。。という事がすごく、こう、大きな重圧となって段々、日々のしかかってきてね。。自分の会であれば、なんか失敗があっても、言葉はおかしいけど自業自得みたいなね。。事でもって終わるけども、お頼まれしてね。。お頼まれして失敗したんじゃ、これは大変な事になるだろうと。これは相当な覚悟がいるな、と。くだけた話になるけれども、もしも何か大きな失敗をしたら、もうそれで、僕は舞台へもう立たないつもりで。これは本当に幸さんにも言った。失敗したらもうシテは舞わない、と。それぐらいの覚悟でやりますよ、と。。」いま、久しぶりにそのインタビューのテープを起こしてみたら、こんなやりとりだった。

ぬえはこの頂いた「聞き手」という役割を、やはり重責と内心はビクビクしながら勤めたのです。やはり見所からは見えない演者の苦労、ということはあります。ましてや大きな大きな舞台である分だけ、その華やかさの陰に隠れた苦闘もある。このインタビューはもう2年も経った以前の事でもあるし、『檜垣』が成功裡に終わったこの時期だから、少しだけ内情を公開しました。今回の舞台でどういう経緯があったのかは ぬえは知りませんが、こういう演者の苦労を知って頂くのも何かの参考にもなれば、と思います。