ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

能『海士』について(その11)

2006-11-05 02:41:13 | 能楽
興福寺と能楽、わけても金春流とがこれほどまでに深い関係で結ばれている事は、金春権守の作と推定される能『海士』の成立と無関係ではないでしょう。『海士』の原拠と考えられる『讃州志度寺縁起』こそ、志度寺の縁起でありながら、じつは興福寺に伝わる宝物の来歴譚なのであって、それが意味するところは、取りも直さず藤原氏のうちただ一つ隆盛を誇った北家の祖、藤原房前と神秘の宝物とを結びつける事にほかならないのです。

「海女の玉取伝説」が史実であったかどうかはともかく、『縁起』に描かれる房前とその父・不比等という名家の元祖の活躍の物語は、藤原北家の威光を増す事に貢献したでしょうし、宝物を所蔵する興福寺の神秘性を増すことにもなったでしょう。そして讃岐という中央からは遠方に位置する志度寺にとっても、藤原北家=興福寺との直接の因果関係を喧伝する事は大きな魅力であったはずです。三者のそれぞれにとって利益があるこの物語は、たとえ部分的には史実であったにせよ、歴史においてその内容が肥大化していった可能性は考慮すべきでしょう。

そしてその結果、物語そのものが享受者に対して影響力を持っていった可能性も排除できないのであって、興福寺に仕えてその当地を主要な演能の場としていた猿楽役者の中から、ご当地ソングたる三種の宝物に取材した物語を脚色して舞台に掛ける欲求は、ごく自然に生まれて来るものではなかろうか、と思うのです。そうであるならば、興福寺=藤原氏に多大な恩義がある猿楽=わけても金春流の役者の中から、興福寺への尊敬も愛着もこめて『海士』という能が書かれるのも、これまたごく自然な成り行きでありましょう。

上に書いた『縁起』から能に到る物語の展開については、藤原=興福寺=志度寺という三者の経済的な利益が合致して、史実がどんどん歪曲されて肥大化された、というように読めると思いますが、部分的にはそういう場面はあったにせよ、しかし ぬえは 能『海士』にはそれとはもう少し違うものを感じます。

ぬえは『海士』というと、ある時 京都の某大先輩と『海士』の話になった事を必ず思い出します。ずいぶん長い議論のあとで、その能楽師は『海士』について「能は。。藤原には気を遣っているよねえ」とおっしゃって、その言葉には当時能の台本の読み込みに熱中していた ぬえは、ある種の衝撃を受けたものです。演劇というものは(能を演劇と呼ぶのかどうかについてはこの際措いておきますが。。)歴史的な登場人物が登場していても、史実はどうあれ、脚本はそれとは別な次元にあるものであって、役者は歴史を追うのではなくて脚本の行間を読むべきだとばかり ぬえは考えていたからで、この方のひと言は、史実うんぬんでもなく、行間でもなく、曲が書かれた動機のようなものにまで大きく曲を捉えないと、個別に曲を考えてしまうと、それぞれの曲がばらばらになって、能を考える事にならない。。と ぬえに考えさせました。

そうやって自分が演じる曲について事前によく考えるようになった ぬえには、『海士』には藤原氏に対する「気遣い」よりも、むしろ愛情を感じるのですよねえ。。いやむしろ、能の曲目ってのは、どんなに殺伐とした内容であっても、どこかに愛情があって書かれているなあ、と ぬえは常日頃 感じているのですが、『海士』には自分たちの表現の場や生活のための収入を与えてくれた藤原氏や興福寺に対するストレートな感謝を感じます。玉取の神秘的な物語そのものが『海士』の作者には創作のインスピレーションを与えたでしょうが、我が子のために命を賭けて宝珠を取り返した原初の玉取の物語を、母子が生死の境を超えて邂逅するロマンチックな能に仕立て上げた作者は、その感謝の気持ちとして、オマージュとして興福寺に捧げられたのではなかったでしょうか。

能『海士』について(その10)

2006-11-03 23:16:03 | 能楽
能『海士』は金春流の能とされ、作者は世阿弥と同時代で少し先輩にあたる猿楽役者の金春権守と考えられています。

ただし舞よりは物真似芸に秀でたらしい権守が作ったのは、母子の情愛を中心に据えて玉之段の所作事をクライマックスとする一場の能で、後場は後補とも考えられていて、さらに『海士』の舞は近江猿楽の犬王が得手とした「天女舞」を世阿弥が大和猿楽の中にはじめて移植したもの、という有力な説もあり、それらからすると後場の作者は世阿弥と推定されています。

『申楽談儀』には「田舎の風体」として『海士』への言及があって、

あらなつかしのあま人やと、御涙を流し給へば」、此「御涙」の節、金春が節也。あまりにくだくだ敷ことをば、長々書き載せず。同じ能に、「乳の下を掻い切り、玉を押し込め」などのかかりは、黒頭にて、軽々と出で立て、こばたらきの風体也。女などに似合はず。

と記されていて、こりゃまた こてんぱん。別の箇所では金春権守について「金春は舞をばえ舞はざりし者也」「つゐに出世なし。京中の勧進にも、将軍家御成なし。金春、京の勧進、二日して下る」とも書いているのですが、この評価をそのまま鵜呑みにはできないでしょう。前述のように『海士』の後シテの舞は近江猿楽の犬王が創始した「天女舞」を世阿弥が大和猿楽に移植したものという、かなり強力な説があって、その犬王が名手であった事については世阿弥も「犬王ゑてにてありし也」「犬王は上三花にて、つゐに中上にだに落ちず」「ひてうの風にしたがふがごとくにまひし也」「道誉も日本一とほめられし也」と認めているのですが、いざ天女舞の元祖である事については「天女の舞の秘曲を、犬王分明に相伝したりとはきこえず」と認めず、犬王後の近江猿楽には手厳しい批判を連ねています。世阿弥の伝書類が、結崎座の後継者にあてて書かれ、「当道」を守るためという目的があった事を考えると、むしろ金春権守もライバルだったのかもしれません。

いずれにせよ『海士』が原初の形としては金春流の系統に属していたことは間違いないでしょう。すると、そこには『海士』と興福寺との関係も自ずと立ち現れて来るようです。

今日 薪能は全国的に催され、ぬえも年間に幾度となく出勤しています。しかし、薪能の起こりこそ、奈良・興福寺の「薪御能」でした。興福寺では観阿弥・世阿弥時代よりも遠く遡った鎌倉時代には修二会に際して春日大社の若宮と興福寺の東・西それぞれの金堂(興福寺には東・中・西と三つの金堂があった)で「薪猿楽」を行っていました。その後両金堂で薪猿楽の主導権争いが起こり、鎌倉時代の末頃には興福寺では南大門で催されるようになったようです。そして、その薪猿楽にもっとも早くから参勤していたのが円満井座(金春座)でした。

実際のところ、観阿弥や世阿弥が活躍を始める頃より以前には、猿楽の歴史の中で大規模な催しというのはもっぱら奈良で行われていて、その中心となっていたのが興福寺の修二会と、それに連動する春日大社若宮での演能でした。能にとって、足利義満より以前の時代では興福寺の庇護は何よりもって幸福な事でした。そしてやがて薪猿楽には結崎座(観世座)、法隆寺に属した坂戸座(金剛座)、山田寺に属した外山座(宝生座)も出勤するようになり、京都で観阿弥・世阿弥の能を見て虜になった足利義満や義政も奈良まで足を運んで興福寺の薪猿楽を見物に訪れていて、この頃には猿楽四座にとって薪猿楽への出勤は義務となり、四座立合能もしばしば行われています。

ところが室町時代に飛躍的に人気を博した猿楽の役者の影響力は次第に増してゆき、薪猿楽も変貌してゆきます。役者のスケジュールに配慮してか、修二会の延期などにも関係なく薪猿楽の上演が二月に固定されたり、報酬が少ない、との理由で役者が出勤しなかったり、春日若宮で田楽が面を使った事に怒った猿楽が田楽を襲撃したり。そしてとうとう室町末期には役者が揃わないためにたびたび薪猿楽は中止されたりすることに。。

このような不義理は、演能の中心が奈良から京都に移った事も影響して仕方のない面もあったのでしょうが、それでもこのような時にも金春座だけは都合が合えば出勤しています。それほど興福寺と金春流の縁は深いと言えましょう。

ちなみにさらに後世、演能の中心地が江戸に移った頃には薪猿楽はほとんど衰退していきました。いつしか「薪御能」と名を変え、それでも明治時代の半ばまでは存続しましたが、その後は廃絶してしまいます。今日興福寺で行われる薪御能は戦中の昭和18年に復興されて以後のことです。

能『海士』について(その9)

2006-11-02 15:02:57 | 能楽
三種の宝物が唐から興福寺にもたらされたのは、能『海士』では淡海公・藤原不比等の妹、すなわち大織冠・藤原鎌足の娘が唐の第三代皇帝・高宗(628~683)の后となったために、藤原氏の氏寺である興福寺へ高宗より贈られた、とされています。このあたりの事情は能とは微妙に異なった伝承があって、『讃州志度寺縁起』では、鎌足が亡くなったとき、后の父である鎌足の供養のために高宗が三種の宝物を興福寺に遣わしたことになっています。

また、『縁起』では宝珠を取り返した海女と不比等との関係についても、能よりも少し詳しい物語を伝えます。

~~不比等は父の供養のため、どうしても龍宮に奪われた面向不背の珠を諦めることができず、身をやつして志度浦に下りましたが、取り返す妙策が思いつかないまま三年の月日をそこで送ることになりました。一方不比等はそこで自分の世話をしてもらっていた漁師の娘と恋仲になり、夫婦の契りを結んで、やがて一子をもうけました。ある日不比等はこの娘に自分の身分と、この地に来た本当の目的を語り、娘はこの子を世継ぎにする事を条件に、宝珠を取り返しに龍宮に行く事を決心します。娘の命と引き替えに取り替えされた宝珠は無事に興福寺に収まり、この子も約束通り藤原家を継いで房前大臣となりました。しかしある日房前は自分の出生の秘密を知り、僧・行基を伴って志度の浦に下り、ここに堂塔を建立して志度道場と名付け、法華八講を営んで亡き母の菩提を弔いました。~~

さて唐帝から興福寺へ贈られた三種の宝物とはどういうものだったのでしょうか。これは能でも『縁起』でも同じものを指していて「華原磬」「四濱石」そして問題の「面向不背の珠」の三つという事になっています。

華原磬(かげんけい)とは法会の開始を告げる打楽器の一種で、華原は材料となる石の産地。『金光明最勝王経』に妙道菩薩が見た夢の中に「金鼓」という磬が登場し、その磬からは仏が生まれ出で、その響きは衆生を悟りに導く声のように聞こえた、と表現されており、興福寺でも往時は「金鼓」と呼ばれていました。

四濱石(しひんせき)は同じく磬のことで、一度打つとその音が止まず、衣を着せるまで鳴りやまないのだとも伝えますが、また硯であるとも言われていて、それは水を足したり墨をすらなくても自然に墨汁が湧き出てくる不思議の硯なのだそうです。四濱は同じく石の産地の名。

面向不背の珠は、謡曲の中で「玉中に釈迦の像まします。何方から拝み奉れども同じ面なるによって、面を向かふに背かずと書いて面向不背の珠と申し候」と説明されています。

能の物語では結局不比等の計略はみごとに功を奏して三つの宝物はすべて興福寺に収まったように書かれているのですが、実際はどうなのでしょう。じつは興福寺に現在伝えられているのは三つのうち「華原磬」ただ一つだけで、これは唐代の作なのですが、残念ながら肝心の金鼓は銅製で、鎌倉時代の作なのだそうです。残りの二つの宝物の行方は不明なのですが、わけても面向不背の珠については『源平盛衰記』に興福寺中金堂の本尊である釈迦如来像の眉間にこめられた、という記述があります。ところが平安時代にこの中金堂は焼失していて、宝珠は本尊像とともに失われたと言われています。

いずれにしても、三種の宝物が伝えられたそもそもの原因である、鎌足の娘が唐帝の后の位についた、というのは史実ではなく、このあたりがこの「海女の玉取伝説」のひとつのカギだと思われます。このへんは藤原氏・興福寺から讃岐・志度寺につながる関係と、さらにそれを能『海士』がどのように享受したのか、という点を考えなければならないでしょう。

能『海士』について(その8)

2006-11-01 00:48:57 | 能楽
能『海士』の子方=房前の大臣というのは藤原房前(681~737)の事で、藤原鎌足(614~669)の孫、不比等(659~720)の次男にあたります。鎌足は645年、中大兄皇子とともに蘇我入鹿を暗殺して大化の改新を進めたことで有名で、中大兄皇子はのちに天智天皇となり、鎌足は「藤原」の姓と大織冠の官位を賜りました。藤原の氏寺として『海士』にも表れる興福寺は彼の発願によってその原型となる山科寺が建立された事に始まり、鎌足の子・不比等の時代に奈良の現地に移されて興福寺と改められ、また春日大社は同じく不比等が平城京遷都の際に氏神の鹿島神を三笠山に遷して祀ったのを始まりとします。

不比等は2人の娘を文武天皇、聖武天皇に入内させて皇室の外戚となって権勢を振るい、大宝律令の制定に関わり、平城京遷都を推進し、諡号として「淡海公」を贈られました。不比等以降は不比等の子孫だけが藤原姓を名乗る事を許されたため、事実上藤原家の祖は不比等と考えられます。不比等には4人の息子がおり、それぞれ南・北・式・京の藤原四家の祖となりました。

藤原房前は不比等の次男にあたりますが、四家のうち彼が始祖となる藤原北家だけが繁栄を極め、その嫡流は摂関家として公家の最高家格となりました。平安時代の末以降、北家は近衛・鷹司・九条・二条・一条の五摂家に分かれましたが、その権勢は明治維新まで続き、さらに明治以降は公爵家(五等の爵位の第1)に列せられ、昭和20年の終戦までこの地位は続いています。ちなみに藤原氏は『鞍馬天狗』にも出てくる「源平藤橘」の「四姓」の一つですが、ほかの3家と比べてもはるかに後世まで権勢を振るいました。武家政権の時代となった鎌倉時代以降は形骸化したとはいえ、このように1000年以上にも渡って国政に関与し続けた家というのは、世界的に見ても他に例がないそうです。

なお国宝の『御堂関白日記』(道長自筆)などを蔵する「陽明文庫」は近衛家の文麿(首相)が財団法人にまとめた文庫。また足利義満へ有職故実を教授し、みずからも連歌集『菟玖波集』を撰じ、世阿弥の保護者ともなった二条良基は二条家の人。また北家の嫡流でなくとも、藤原俊成や定家を輩出した御子左家は道長の6子・長家を祖としています。近代になっても西園寺公望首相や、明治天皇の皇后(昭憲皇太后)は一条家の出身、大正天皇の皇后(貞明皇后=昭和天皇の母)は九条家の出身。。と、日本という国の根幹を、藤原家が支えてきたと言っても過言ではないでしょう。

『海士』に話を戻して、この能では唐の朝廷から興福寺に贈られた三つの宝物のうち、面向不背の珠が龍宮に取られたという事件が発端となっています。この三種の宝物は、淡海公と呼ばれた不比等の妹が、その美貌を伝え聞いた唐の高宗皇帝の願いを受けて后として渡海し、唐帝から「その御氏寺なればとて」興福寺へ与えられた、とされているのですが、この所伝や事件の経緯には、能が伝えるほかにもいろいろと微妙に異なった伝承があるようです。これまた興味深い。