興福寺と能楽、わけても金春流とがこれほどまでに深い関係で結ばれている事は、金春権守の作と推定される能『海士』の成立と無関係ではないでしょう。『海士』の原拠と考えられる『讃州志度寺縁起』こそ、志度寺の縁起でありながら、じつは興福寺に伝わる宝物の来歴譚なのであって、それが意味するところは、取りも直さず藤原氏のうちただ一つ隆盛を誇った北家の祖、藤原房前と神秘の宝物とを結びつける事にほかならないのです。
「海女の玉取伝説」が史実であったかどうかはともかく、『縁起』に描かれる房前とその父・不比等という名家の元祖の活躍の物語は、藤原北家の威光を増す事に貢献したでしょうし、宝物を所蔵する興福寺の神秘性を増すことにもなったでしょう。そして讃岐という中央からは遠方に位置する志度寺にとっても、藤原北家=興福寺との直接の因果関係を喧伝する事は大きな魅力であったはずです。三者のそれぞれにとって利益があるこの物語は、たとえ部分的には史実であったにせよ、歴史においてその内容が肥大化していった可能性は考慮すべきでしょう。
そしてその結果、物語そのものが享受者に対して影響力を持っていった可能性も排除できないのであって、興福寺に仕えてその当地を主要な演能の場としていた猿楽役者の中から、ご当地ソングたる三種の宝物に取材した物語を脚色して舞台に掛ける欲求は、ごく自然に生まれて来るものではなかろうか、と思うのです。そうであるならば、興福寺=藤原氏に多大な恩義がある猿楽=わけても金春流の役者の中から、興福寺への尊敬も愛着もこめて『海士』という能が書かれるのも、これまたごく自然な成り行きでありましょう。
上に書いた『縁起』から能に到る物語の展開については、藤原=興福寺=志度寺という三者の経済的な利益が合致して、史実がどんどん歪曲されて肥大化された、というように読めると思いますが、部分的にはそういう場面はあったにせよ、しかし ぬえは 能『海士』にはそれとはもう少し違うものを感じます。
ぬえは『海士』というと、ある時 京都の某大先輩と『海士』の話になった事を必ず思い出します。ずいぶん長い議論のあとで、その能楽師は『海士』について「能は。。藤原には気を遣っているよねえ」とおっしゃって、その言葉には当時能の台本の読み込みに熱中していた ぬえは、ある種の衝撃を受けたものです。演劇というものは(能を演劇と呼ぶのかどうかについてはこの際措いておきますが。。)歴史的な登場人物が登場していても、史実はどうあれ、脚本はそれとは別な次元にあるものであって、役者は歴史を追うのではなくて脚本の行間を読むべきだとばかり ぬえは考えていたからで、この方のひと言は、史実うんぬんでもなく、行間でもなく、曲が書かれた動機のようなものにまで大きく曲を捉えないと、個別に曲を考えてしまうと、それぞれの曲がばらばらになって、能を考える事にならない。。と ぬえに考えさせました。
そうやって自分が演じる曲について事前によく考えるようになった ぬえには、『海士』には藤原氏に対する「気遣い」よりも、むしろ愛情を感じるのですよねえ。。いやむしろ、能の曲目ってのは、どんなに殺伐とした内容であっても、どこかに愛情があって書かれているなあ、と ぬえは常日頃 感じているのですが、『海士』には自分たちの表現の場や生活のための収入を与えてくれた藤原氏や興福寺に対するストレートな感謝を感じます。玉取の神秘的な物語そのものが『海士』の作者には創作のインスピレーションを与えたでしょうが、我が子のために命を賭けて宝珠を取り返した原初の玉取の物語を、母子が生死の境を超えて邂逅するロマンチックな能に仕立て上げた作者は、その感謝の気持ちとして、オマージュとして興福寺に捧げられたのではなかったでしょうか。
「海女の玉取伝説」が史実であったかどうかはともかく、『縁起』に描かれる房前とその父・不比等という名家の元祖の活躍の物語は、藤原北家の威光を増す事に貢献したでしょうし、宝物を所蔵する興福寺の神秘性を増すことにもなったでしょう。そして讃岐という中央からは遠方に位置する志度寺にとっても、藤原北家=興福寺との直接の因果関係を喧伝する事は大きな魅力であったはずです。三者のそれぞれにとって利益があるこの物語は、たとえ部分的には史実であったにせよ、歴史においてその内容が肥大化していった可能性は考慮すべきでしょう。
そしてその結果、物語そのものが享受者に対して影響力を持っていった可能性も排除できないのであって、興福寺に仕えてその当地を主要な演能の場としていた猿楽役者の中から、ご当地ソングたる三種の宝物に取材した物語を脚色して舞台に掛ける欲求は、ごく自然に生まれて来るものではなかろうか、と思うのです。そうであるならば、興福寺=藤原氏に多大な恩義がある猿楽=わけても金春流の役者の中から、興福寺への尊敬も愛着もこめて『海士』という能が書かれるのも、これまたごく自然な成り行きでありましょう。
上に書いた『縁起』から能に到る物語の展開については、藤原=興福寺=志度寺という三者の経済的な利益が合致して、史実がどんどん歪曲されて肥大化された、というように読めると思いますが、部分的にはそういう場面はあったにせよ、しかし ぬえは 能『海士』にはそれとはもう少し違うものを感じます。
ぬえは『海士』というと、ある時 京都の某大先輩と『海士』の話になった事を必ず思い出します。ずいぶん長い議論のあとで、その能楽師は『海士』について「能は。。藤原には気を遣っているよねえ」とおっしゃって、その言葉には当時能の台本の読み込みに熱中していた ぬえは、ある種の衝撃を受けたものです。演劇というものは(能を演劇と呼ぶのかどうかについてはこの際措いておきますが。。)歴史的な登場人物が登場していても、史実はどうあれ、脚本はそれとは別な次元にあるものであって、役者は歴史を追うのではなくて脚本の行間を読むべきだとばかり ぬえは考えていたからで、この方のひと言は、史実うんぬんでもなく、行間でもなく、曲が書かれた動機のようなものにまで大きく曲を捉えないと、個別に曲を考えてしまうと、それぞれの曲がばらばらになって、能を考える事にならない。。と ぬえに考えさせました。
そうやって自分が演じる曲について事前によく考えるようになった ぬえには、『海士』には藤原氏に対する「気遣い」よりも、むしろ愛情を感じるのですよねえ。。いやむしろ、能の曲目ってのは、どんなに殺伐とした内容であっても、どこかに愛情があって書かれているなあ、と ぬえは常日頃 感じているのですが、『海士』には自分たちの表現の場や生活のための収入を与えてくれた藤原氏や興福寺に対するストレートな感謝を感じます。玉取の神秘的な物語そのものが『海士』の作者には創作のインスピレーションを与えたでしょうが、我が子のために命を賭けて宝珠を取り返した原初の玉取の物語を、母子が生死の境を超えて邂逅するロマンチックな能に仕立て上げた作者は、その感謝の気持ちとして、オマージュとして興福寺に捧げられたのではなかったでしょうか。