県立図書館に購入をお願いしていた戸谷学著「赤の民俗学」が購入できたとのことで、借りて読み始めました。
縄文と“丹“って、今心を騒めかせる興味の一つ。
金銀鉄や玉と同じかそれ以上の価値だった“丹“、そこにはどんな思いが込められていたのか?って。
その本を読み始めたところに「ムスヒ」。
絶対関連あるだろうと思っていたけど、やっぱり!!
昨日は、カタカムナ勉強会、その前段でカタカムナのウタヒで巫女舞。
巫女舞に合わせるため、いつものウタヒ+7首、8首、9首。7首に アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒが!!やっぱり!!
カタカムナを世に出した楢崎皐月はある資料に、、、
『記紀』は天武天皇の企図した歴史書であり、天皇自身は声音符(カタカムナ文字)を用いてそれらの原本を作っている。当時は声音符の読める人は少なく天皇が稗田阿礼に命じて原本を誦習させた。
又、統轄した漢学者の太安万侶も直接原本が誦めないので阿礼の仲介が必要であった。
上古代の記録は声音符などの神代文字による記録であり、『本辞』又は『先代旧辞』と謂われ、両名が整理をしてカタカムナ声音符で筆録した上古代の記録は、『上古諸事』と言われた。
古事記の序文では、『本辞』又は『先代旧辞』の一書を資料にしたことを誌るしているが、その一書とは『上古諸事』のことであり、声音符で書かれた原本である。
と書き残しているとのこと。
記紀に記された我が国原初の神名は、アマノミナカヌシ、タカミムスヒ、カムミムスヒとのことですが、聞いていた通りこの3神を始めとする日本の神々の神名は、カタカムナのウタヒにあるんですね~~(@@
カタカムナの声音符を読めた稗田阿礼(柿本人麻呂と言われている)が書いたという古事記ですから、ウタヒに記された声音を神名にしたんですね。
カタカムナ、興味が尽きません。
面白いよなあ(*^^*)
日本髪イベントの司会をやってくれたけいこさん、今日が誕生日!しかも人生折り返し!
それを知った中山さんが誕生会をと企画・声がけして、カムの宿キッチンのキャパで6人。
おっと~~~!!!前日に用事がとお一人、今日、時間前になってお二人(^^;;
ええ~~!!5人分準備完了してんだけど(><
でもね、みんなお忙しい人たちばかりだから・・・
てことで、3人で盛大にお誕生会(*^^*)
いつも思いが詰まっているけいこさん、滑舌が止まらない(笑
新しいプログラムがどんどん展開、しかも思い通りになって行く、そんな話だからそりゃ~止まらんわけです。
その話って、まさに人生の節目で6人から3人のスタート、御計らいだよなあと皆が感じることとなり、無駄ってないよなあと頷きました。
けいこさん、やっぱりおもろいお姐さんです。
今日の地元紙地方面(26面)に「青谷上寺地遺跡 多数の人骨 奴隷層を再び集団埋葬か 『倭国大乱』との関連に疑問」との記事が掲載されていました。
青谷上寺地遺跡には、7月末に何人かで行き興味深く見てきたばかりでしたから(ブログ)、飛びつくように読みましたが、僕が思っていたものと何か違う???
古代の埋葬や葬送の習俗
最近、古代の埋葬や葬送の習俗に関心を持つようになりました。
最初は、読むとはなしに読んだのですが、南西諸島の風葬と洗骨・再葬の習俗に強い興味が湧きました。
その後読んだ「縄文語への道」に“青木”という地名は葬地を表していたと書かれ、いくつかの葬送の習俗が紹介されていました。
この本に記された美保関町雲津の海洞穴、昔ここは埋葬地だったが、今は葬儀が終わると洞窟に札貼りに来る、それは洞窟葬の名残りと書かれていました。
おっと!!かれこれ10年にもなるかな?子どもの頃に龍を3匹飼っていたと宣うちょっと変わった東京の女性が、何かに呼ばれて雲津の洞穴に行ってきたばかりと。
その話と繋がった!のです。
また、今、「ゲノムでたどる古代の日本列島」を読んでいますが、この本の著者の一人が先史学が専門で、再葬墓などの墓制に強い思い入れがある。
それがまた面白く、渥美半島のある遺跡の再葬墓の話なんて、もうドキドキもの。
死者に対する思いって、そう違ったものではない筈なんだけど、その表現方法は多岐にわたる感じ。
そこで、青谷上寺地遺跡の報道なんですが、まあ、専門家の所見だから素人がうんぬんする話ではないけれど、、、
例えば、この見解を発表した方は、出雲の口伝は眼に入っているかどうか?
出雲の口伝って、いわゆる専門家の皆さんは歯牙にもかけず、って感じかな?と思ってきましたので、、、
多くの遺骨がどんな状態で発見されているのかも分からず、しかも、発掘調査報告書も見ずに云々することじゃないのは重々分かっているつもりですが、、、
ネットで見ることのできる現場の状況は、再葬墓、集骨墓には見えないんだよなあ、それに、そもそも出雲は奴隷制を持っていたのか?
因幡の国って、出雲ととても濃い関係だったようですから猶更。
僕は、“倭国大乱”って出雲が亡びる前後かなあと、想像を逞しくしていますが、出雲を滅ぼしヤマトに政権を樹立した勢力の中に豊国(宇佐国)勢力があったらしいのです。
彼らは、滅ぼした出雲からヤマトに向かう途次で白兎神社を創建したと読んだことがあります。
宇佐国造57世孫・宇佐公康著「宇佐家伝承~古伝が語る古代史」に白兎神社創建の話はありませんが、白兎神社の主、因幡の白兎伝説が書かれています。
それは、隠岐にいた宇佐族が本土に定住する際、和邇族に騙されて途方に暮れているところを大国主に助けられ、八上姫の地を譲り受けて住み着いたとの内容です。
白兎伝説も当の宇佐族の伝承は違うんですね(^^;;
倭国大乱と出雲の国譲り(出雲滅亡)、白兎神社創建と白兎伝説の時系列は?また、相関関係はある?そんなことを妄想するのはとても面白い。
確たる歴史が存在しないのも、またステキなことかも。
話し言葉って、随分変化してきているようですが、書き言葉もなんですね。
文字がなかった
もっとも、漢字文化が入ってくるまでの日本には文字というものがなかった。
もしかしたら、古代文字は何種類か存在していたのかもしれませんが、日常的に使うものではなかったようだから。
一部の人しか使えなかったにしても、歌い継がれてきた歌を漢字で書き起こした。
それも大和言葉で、いや最初は完全な漢文だったのかな?
そして、かな文字を生み出し、どんどん変化させていくんですね。
そのかな文字も、最初はかな文字だけで書かれていたのが、漢字かな交じりだったり、かな漢字交じりだったり。
融通無碍ですよねえ、書体も幾通りもあって、明治になって統一したんですね。
そういえば、シナのそれぞれの地域で発展していた漢字も、秦の始皇帝が度量衡とともに統一したのだとか。
「ジ」と「ヂ」
そうそう、「ジ」と「ヂ」、「ズ」と「ヅ」とかは発音も違っていて使い分けていたんだそうですが、いつの間にか一緒になってしまってる。
和歌を詠むと、繊細だなあと思いますが、それは、ジとヂを使い分けるような繊細さでもあると思いますが、そういう繊細さが失われてきているような💦
本についても同様?私たちが手にする本は完本、作者も明確だし、全て整えられたもの。
昔は、学びのテキストとして、手に取ったそれぞれが訂正したり書き加えたりして、そこからまた新たとも言えるような本が出来上がったのだとか。
手書きのものはもちろん、版木で印刷されたものもそうだった、だから、源氏物語だって本当の作者は?ってことになるようです。
語源のはっきりしない、独自性の強い日本語、これからも変化していくのでしょうか?
それとも、手紙を書くことも激減し、活字は全てデジタル化され、AIが小説を書くような時代、日本語の融通無碍さや繊細さは失われるのか?
淋しくならないで欲しいものです。
朝はとても涼しくなりました
普通、朝夕というけど、夕方はさほどでもないですが、、、💦
昨夜、涼風が吹いてきたころから、台所の窓を開けていました。
だから聞こえた?
外で物音、時々ドスンというような音、そして何やらガサゴソ、お隣が何か作業しているのかなあ? と思いもしたけど、まさか、こんな時間に!
これはきっとあの御仁だ!と恐る恐る外に出て、鳴り物ガンガン、大声で何度か脅しました、襲われてもと引っ込みましたが、、、
それでもまだゴソゴソが止まなかったので、今朝様子を見に行ってみると、、、
やはり!🐗だ~~!昨日一昨日と拾ってなかった栗の大半をプレゼント いやはや、、、
足跡がしっかり写っていますが、わかりますか?
こんなところから侵入してくることはなかったのに~。
工事の関係でちゃんとした道路は怖いし、いつもの泥遊び場だった葦原も消えたので、安全な(^^;;)裏の畑のさらに裏の田んぼから。
あっ、裏の田んぼは今回の工事個所には含まれてないのです。
人が激減するン十年後、市街地を我が物顔で闊歩しているのかなあ?