昨日、再入院した弟を病室に見舞った。吐き気が止まらなくなったらしい。食べ物も薬も胃が受け付けないので、点滴のチューブに繋がれていた。これで吐き気がやわらいでいるようだったが、口が苦いらしくて口をしょっちゅう濯いでいた。看護婦さんが入れ替わり立ち替わりして世話をしてくれていた。枕元には開いたままの本があった。読み進めているページを伏せてあった。「親鸞を読む」という表表紙が見えていた。本が読めるまでになっているのだなと思ってやや安心をした。しばらく話をしていたが、そのうち疲れたのか眠ってしまった。痛み止めの点滴には催眠剤も含まれているようだ。前日、「そろそろ山にはアケビが熟れるころだろうね」という話になったのであちこちの道の駅を探してアケビを買い求めてきた。弟に見せるとこれを手にとって「ああ、懐かしいね。小さい頃に山に入ったね、今時分には」と感想を述べた。アケビには蔓と三つ葉がつけてあった。
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彼の仏の寿命と(その国の)人民(の寿命)は無量無辺にして阿僧祇劫(あそうぎこう)なり。この故に阿弥陀と名ずく。舎利弗よ、阿弥陀仏は成仏(じょうぶつ)が已(おわ)って来(このかた)今に於いて十劫なり。 仏説阿弥陀経より
阿僧祇劫:劫は無限の時間を示す単位。1阿僧祇は10の140乗で無数を示す単位。
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われわれはやがて誰もが死を迎える。ここで有限が切れる。われわれは肉体の死をすませてテレポーテーション(瞬間移動)をする。何処へ? 物質世界から非物質世界へ。精神世界へ。涅槃界へ。阿弥陀仏の国、極楽浄土へ。移動をしてそこでどうする? 成仏を果たす。不死になる。阿弥陀仏もそうであったように。われわれも成仏をしてこの国での活動に従事する。利他の行をすることになる。肉体という物質に拘束されることはもうなくなっているから、生死はない。あれほど苦しめた生死の恐怖はない。迷いの輪廻転生もない。臨終間際のテレポーテイションには聖なる菩薩衆が付き従って導きをする。
人は無常なのだ。死は変化だ。人はいっときも同じではない。変化して止まないのだ。次へ次へ、新しく新しく、高く高くなっていくのだ。明るく明るくなっていくのだ。向上と進化を遂げていくのだ。もっと大きなよろこびへもっと広々としたよろこびへ、もっと深いよろこびへと進んで行くのだ。ああ、弟よ、旅立ちの準備に入った弟よ。静かに穏やかにしているように見えているが、きみの脳裏は今、これまでには経験しなかったほどの凄まじく深い智慧のタービン、仏陀の智慧のタービンを回していることだろう。しかし、迷いの岸にいるさぶろうにはそれもまた悲しい出来事に映っているばかりだ。