<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

夕方6時半で32℃を超えている。

2024年08月13日 18時41分14秒 | Weblog

夕方6時半を過ぎても外気温は32・5℃。ムシムシする。

外に出て、鉢物に井戸水をホースで撒布した。鉢物の植物類はくったりしている。

ものの30分ほどであったが汗を掻いた。すぐに風呂場に行って冷水シャワーを浴びて、石鹸で汗を流して、すっきりした。

いまになってやっと少し外は風が吹き出したようだ。

台所に行って夕食を作る家内の手伝いをした。といってもキャベツや茄子やニガウリを切り分けるくらいだが。

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わたしの本質は常に涅槃に入って寂静している。

2024年08月13日 15時19分23秒 | Weblog

不生不滅。生じることもなければ滅することもない。

生じたことがないので滅したこともない。常住で不変である。

わたしの本質は空であって、始まりがないし終わりがない。

わたしの本質は常に涅槃に入って寂静している。

で、あるのなら現象の生滅を恐怖しないでいてもよさそうだ。

で、あるのに、わたしの意識体は現象の生滅を恐怖して、学びを続けている。

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われわれはみな方向を持って歩いている。

2024年08月13日 14時37分21秒 | Weblog

何処へ歩いて行くべきか分からずに、旅人が一日歩くとすれば、どうだろう?

つまり歩くべき方向が見出せないという場合は、はじめは短い範囲を行きつ戻りつしても、ついには立ち止まってしまうことになるだろう。

旅人には歩いて行くべき方向があった方がいいだろう、きっと。目的地を据えて歩いた方がいいだろう。

人生の旅をしている場合、自分が何処へ向かっているかを、しかし、知って歩いている人は、少ないのかも知れない。

目的地を見定められないでいる場合が多いのではないか、むしろ。

日々の暮らしをしながら、我がスピリット(霊性)は旅をしているようだ。日々の暮らしを地図にして、我がスピリットは旅をしているようだ。旅の方向を直感で把握しているようだ。きっと北極星の輝きが,旅の役に立っているだろう。

わたしの場合は、それは、端的に言えば、仏国土である。そこへ行って仏陀に出遭って、仏陀に成るのだ。

いまはそこへ辿る道、進化と向上の一本の道を歩いているのだ。そこへ一歩一歩近付いているのだ。

それまでの過程プロセスがみな学びの体験になっているだろう。どの一つも無駄にならずに。

そういう策定をすると安心が得られるようだ、わたしの場合は。

方向を持って歩いているという見方をすれば、今日一日の旅が有り難く思える。

わたしが目的地へ移動をするために、そのために、太陽も地球も星々も動かずに定位置を保っていてくれるようで、銀河宇宙にきらめく恒星の輝きが親しく感じられる。

 

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仏壇にお萩をお供え。

2024年08月13日 13時20分21秒 | Weblog

今日からお盆。ご先祖様のふるさと帰り。

家内が午前中に仏様にお供えするお萩を作った。

餅米を炊いてまるめて小豆餡をたっぷりのせて。

お皿に3個列べて仏壇にお飾りした。

お昼にそのお裾分けの1個を食べた。おいしく頂いた。

 

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さぞや恨んでいることだろう。

2024年08月13日 13時00分23秒 | Weblog

ただいまの外気温は37℃。連日の猛暑酷暑で大地が焼け焦げている。

畑の赤紫蘇青紫蘇の葉っぱが、熱に耐えきれなくなって萎縮している。

地球温暖化の原因を造った人間の贅沢文明を、山野の草や木や畑の野菜たちは、さぞや、恨んでいることだろう。

彼らはその過酷な結果だけを、我が身に引き受けねばならないのだから。

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今日からお盆。お盆に諸説あり。

2024年08月13日 09時37分23秒 | Weblog

今日からお盆です。

お盆について少しだけ調べてみました。由来はいくつかの説があるようだ。

正式名称は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」もしくは「精霊会(しょうりょうえ」。日本古来の民間信仰である先祖礼拝、先祖供養の行事。

これに、道教や仏教などを日本人が融合習合させ、独特の風習を作った。

「盆」はお供えする器だったが、お供えする先祖の精霊をも含めた。

日本古来の伝統では「精霊会」、仏教の色合いを加えると「盂蘭盆会」と呼んだ。

中国道教では「中元」。お盆のこの時期には、道教の神様は人の罪(死者の罪、生者の罪)を許した。許された人間は身を清め直して、神様や社会の人々に供え物贈り物をした。

人が死んで49日が過ぎて初めて迎える盆を「初盆・新盆」とした。迎え火をして迎え、食べ物を供えて供養をし、送り火をして送った。

お盆には「お施餓鬼」をした。帰るところがない餓鬼の精霊にも食べ物をお供えして、布施善行を積んだ。積んでご先祖の霊の功徳とした。

さらには先祖霊の功徳を増すために、善行を積んで施し、生き物を殺さず、放生会(ほうじょうえ)をして魚・鳥・獣などに食べ物を与えた。

「盂蘭盆会(うらぼんえ)」はサンスクリット語のウランバナに由来している。ウランバナは「耐え難い苦しみ」「逆さ吊り」の意味。

お釈迦様のお弟子の一人、神通力第一の目揵連(もっけんれん・モッガラーナ・目連尊者)が、亡くなった母を神通力で捜し当てたところ、餓鬼道に落ちて逆さ吊りの苦しみに遭っていた。尊者はお釈迦様に救済法を教えてもらった。僧に供養して善徳を積んでその功徳を母の廻向することで、助け出すことが出来たとされる。苦しめるご先祖様の苦しみを解除する方法として、のちのちの人に広く受け伝えられた。

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この盆の期間は地獄の釜の蓋が開くとされた。家に迎えて餓鬼道に落ちたご先祖様にも腹一杯に食べさせることができた。

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「精霊流し」「精霊船」の行事で、新盆の精霊を川に流したり海に流したりした。京都五山は迎え火・送り火の行事がある。

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中華思想では,道教の教えに沿って旧暦7月を先祖供養のための鬼月とした。

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先祖の霊を祀るというのが、仏教の根本思想ではないはずであるが、地獄に堕ちたご先祖様を救い出さねばならないというのも頷ける。(仏教は往生成仏が根本思想である)(恐怖心を煽って特定の宗教に加入させるテはよくあるし、効き目が大きいだろう)

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わたし個人は、人類救済の諸仏が、地獄を造られることはないと思っている。諸仏は安養の浄土を建設されているはずである。

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