北港からの帰りは母島の観光マップにも載っている、観光地2ケ所へ。
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都道241号線の北進線沿いにある六本指地蔵。都道241号線といっても、ははじま丸が着岸する沖村周辺が起点。ここを境にして北港方面は「北進線」、南崎方面は「南進線」。青ヶ島の都道239号線も都道上手というところもあります。実は、この道を通ったほうが三宝港から岡部までの最短距離になりますが・・・崖崩れにより、道も陥没しており、現在も通行止め。時代は遡って昭和3、40年代。東京~八丈島の大型客船が青ヶ島まで延伸する日は年に4、5回。当時は今のような桟橋がなかったので、もちろん艀作業です。船着き場に這い上がって、やっと上陸。今の都道上手を歩いて岡部へ。当時は船が来る日は学校もお休み。子どもたちも艀作業で上がった食料品なども運ぶお手伝い。昔の青ヶ島の様子は国立国会図書館で所蔵する昔の資料(ほとんど高津勉先生が残したもの)をコピーして永年保存中。「こんなところに来るんじゃなかった」と次に来る船で逃げてばかりだったというのに、自分が逃げては青ヶ島の子供たちに未来はない!と10年以上も教鞭をとっていた先生です。それほど、昔の青ヶ島は過酷な環境でした。青ヶ島で生まれ育った方々たちは別に何も不自由は感じないと思うが、内地から赴いてきた方だと文明の利器を味わっているので、非常に激しいギャップに驚かされたに違いない。
(注:今の青ヶ島は内地とのギャップは全然ありません。郵便もお天気が良ければ翌々日配達、インターネットも高速ブロードバンド導入、大手携帯電話3社の通信スピードもLTE(高速通信の4G)。昔からずっと不便なのは、交通手段だけ。母島の話だというのに、青ヶ島に脱線・・・。)
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お地蔵様はいつからあったのか、文献がないので、全然わからないとのことです。終戦後、母島はアメリカの占領下に置かれていた時代もありましたが、それでもずーっと北港の変化を見守り続けていたに違いない。
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6本指になっているお地蔵様は、右側です。杖を持っていれば、親指は後ろに隠れていて、見えるところは4本になるはずなのに、5本になっていました。お地蔵様を掘った人がうっかりしたのか、6本を意識して作成されたのか、今も不明。
どこでもお地蔵様に赤いものを掛けられているのは、日本では古くから魔よけとして赤ちゃんや、還暦を迎えた方々をお祝いするとき、お地蔵さんに赤いものを着せる風習があります。私たちの住んでいる地域で生活を見守ってくれている場所でお地蔵様が祀られていますが・・・なぜ、戦前にぎやかだった北港から離れたところにあるのか、不明。
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今度は探照灯基地入口です。標識をぱっと見たところ、25mを2.5kmと見間違てしまいそうですが、都道からすぐそこ。
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敵機に見つからないように、あまり目立たない場所にあるので、このような標識で存在を知らせてくれます。
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戦後70年の残骸。
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7年前に来たときも全く同じ。なかなか朽ち果ててくれません。戦争で容易く壊されないように、頑丈な作りになっています。線路が敷かれているので、必要なときに出して、使わないときは壕に収納。昼間のような明るい照明で暗闇の空を照らし、飛行機らしきものを見つけたら、地上から発射するみたいですが・・・飛行機の動きは速いので、地上から発射しても的中できる確率は低いかも知れない。当時の大日本帝国軍がわざわざ地上配備した理由もよくわかりませんが、硫黄島が陥没したら、今度は小笠原を狙ってくるかも知れない。そのような準備もあったかも知れません。沖縄では一般人も巻き添えになり、多くの方々が亡くなられましたが、小笠原は戦局が激しくなる前に一般住民を内地へ疎開したりしていたため、巻き添えはなかったようです。
大日本帝国時代、戦車や鉄砲、砲台などに必要な金属類資源を確保するため、お寺の鐘からやかんまで鉄製品なら軍が徴収。東京タワーの鉄骨も、朝鮮戦争でスクラップされたアメリカ軍の戦車を溶かして再利用されているようです。
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日没時間までまだまだたっぷりあります。北港からの帰り道。ずーっと無人地帯なので、ジャングルのような都道をアップダウン。