「2時50分に第一号機関車前で集合」というスタッフの案内があり、第一号機関車前で並んで待機。
萬世橋驛遺構は10月14日の鉄道記念日とか限られた日に公開しないはずだが、今回は交通博物館がさいたま市に移転するため、長期公開中。
スタッフや映像ビデオの音声による案内があったが、私は全然聞こえないので、事前に知識を収集。
かつては現在の東京駅と同じく、交通の要衝として栄え、建築家・辰野金吾の手による赤いレンガの美しい駅舎がシンボルだった。大正8年(1919)、中央線の始発駅が東京駅に移転してからは単なる途中駅に格下げしてしまったが、昭和18年(1943)に役目を終えてしまった。
関東大震災で崩壊したあと、ターミナルが東京駅に移転してしまったこともあり、規模は縮小。レンガ造りのアーチなど内部の痕跡は60年以上経過した現在でも、上を走る中央線電車を支えている。
明治時代、甲府と東京を結ぶ甲武鉄道敷設計画で現在の多摩地域にあたる東京西部では、何もない原っぱが広がっていたので、立川まで適当に直線を引いたらしいですね。
いよいよ中に入る時間になりました。普段使われることのない、遺構出入り口の扉を開けると、中からむっと猛烈な昭和の空気が漂ってきた。
レンガで密閉された空間なので、レンガのにおいというよりも、戦前の人々達が吐いた空気がレンガに詰まっているのか、その空気が放出しているっていう感じですね。
20分という限られた見学時間なので、戦前であることを証拠を示すようなポスターが貼られていないのか、あちこち写真撮影したり・・・。 昔の人は足が短かったのか、階段の段差はそれほど大きくなかった。
それとも当時の靴といえば、下駄がほとんどなので、転げないように段差を短くしてあるのだろうか。
階段を登っているうちに、何だか違和感がした。
階段の装飾は鉄製だったのか、戦時中の物資不足のため、撤去されたみたい。戦闘機や戦車を作るため鉄が不足してしまい、硬貨も含む鉄製なら何でも大日本帝國に強制徴収されたという話を聞いたので、その動かぬ証拠をこの目で確認できたのは感慨に浸ってしまった。 階段の先は、ホーム跡。出られないように透明なプラスチックの板で覆われていた。
ホームに出て自由に散策すればよいのに、中央線の電車がたくさん通過するので、事故防止のため眺められるのは階段先の出口だけ。
昔の和服や防火頭巾をかぶった、多くの人々達が賑わっていたに違いない。
神田を出た電車が数秒後に萬世橋驛に停車、わずか目の先にある御茶ノ水にも止まる手間を省くため、需要が多ければいつかは復活させますよという休止扱いにしたが、いつの間にかに廃駅になってしまった。
その真上は中央線電車。現代人の乗せた電車が真下の見えざる遺構を通るってことですね。今まで気づきませんでした。
その下にある屋根おぼしきものは駅事務室のあった場所なのか?
本物の駅名票。博物館内にあるものは復刻製(レプリカ)。
戦時中の人々を見守っていた駅名票が60年の時空を超え、携帯電話やらデジカメを持つ現代人の姿にびっくりしたに違いない。
裏側からみた萬世橋驛跡。レンガアーチの内部は交通博物館になっている。
切符売り場、待合室、大広間、手荷物受け渡し所、食堂などが配置されていたので、かなり規模が大きいことを伺える。
待合室は乗車する客車の等級にあわせて、1等・2等・3等の3部屋もあったとか。1等は現在のグリーン車両に該当するもので、待合室までもグリーンと一般まで分けられていたとは・・・。
クレジットカードのゴールドを持つ人は無料でカード会社のラウンジ、年に何回も飛行機に乗るプラチナのカードを持つ人は航空会社のラウンジという感じなのでしょうか、1等の待合室は豪勢だったに違いない?
そこの空間だけ60年間も時間が止まったままなので、昭和を懐かしむ方が1度見に行かれるのをお勧めします。(笑)
博物館が移転したあとでも、萬世橋驛遺構だけはいつまでも後世の資料のために残して欲しいものです。
すごーい。趣味なんですか?
聾の男性って、歴史にすごい感心がある人って多いよね。…ま聴もかも知れないけど。
私から見てなぜ惹かれるのかなって不思議に思います。
ノスタルジック的な気分がいいのかな…浪漫気分がいい??
なぜ興味があるのか教えてくださいね~
以前行ったのは25年くらい前。
移転した後はどうなるのかな?
萬世橋驛遺構はそのまま永久に保存できればと思っています。