いいもの見ぃ~つけた!

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<知ってるようでよく知らない言葉・モノ・コト> メガバンク

2025-01-27 09:01:20 | 知ってるようでよく知らない言葉・モノ・コト

 「メガバンク」

 メガバンク(英語: megabank, mega bank)は、巨大な収益規模や資産を有する銀行・銀行グループ、あるいは1兆ドル以上の総資産を持つ銀行グループのことである。統合・合併で誕生した巨大銀行(きょだいぎんこう)を指す場合もある。

 日本のメガバンク
 明確な定義づけがされていない一方で、日本のメガバンクは、三菱銀行を元にする三菱UFJ銀行、住友銀行を元にする三井住友銀行、富士銀行を元にするみずほ銀行の3行であり、これらは都市銀行の合従連衡によって生まれた。

 バブル景気が崩壊した1990年代以降、日本では銀行(邦銀)はいずれも過剰融資による不良債権で急速に体力を失っていった。また同時に、総会屋に対する利益供与事件(小池隆一事件)が明らかになったり、その不透明な融資体制、護送船団方式により喪失した国際競争力などもあり、こうした問題の解決に迫られた。

 これらの諸問題の包括的な是正のため1996年、第2次橋本内閣はその政策の柱に「金融制度改革」いわゆる金融ビッグバンを提唱。1998年には私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)が改正され持株会社の設立が可能になり、統合のための制度的環境が整備された。

 一方で1997年には北海道拓殖銀行と山一證券が、翌1998年には日本長期信用銀行と日本債券信用銀行が破綻し、社会からの金融に対する信頼は大きく低下。「銀行が潰れる」という事態が現実のものとなり、その他の大手銀行にも経営不安がささやかれるようになる。

 こうした危機感の中、銀行の統合による規模の経済性、多角化による経済性、コスト削減効果等により見込まれる経営改善効果を期待した邦銀は、1999年以降雪崩を打って再編へ走り出す。こうして1970年代から1980年代に「都銀13行」「大手20行」と呼ばれた各行は、段階的な合併劇を繰り返した末、2006年には三大メガバンク(三菱UFJフィナンシャル・グループ、三井住友フィナンシャルグループ、みずほフィナンシャルグループ)、四大銀行(三菱UFJ銀行、三井住友銀行、みずほ銀行、りそな銀行)体制に落ち着いた。盤石と思われていた一流銀行の統合劇は、日本国民にも大きな衝撃を与えた。

 企業の株式持ち合いなど日本独自の慣行を取っており、メガバンクは2015年6月時点で株を合計6兆5000億円(取得原価ベース)も保有していたが、アベノミクスの成長戦略の中の企業統治強化に伴い、金融庁から持ち合い株売却の規制を受けている。

 三菱UFJフィナンシャル・グループ

 三菱UFJ銀行にいたるまでの主要な合併
 前身の1つ、三菱東京フィナンシャル・グループは、1996年に三菱銀行と東京銀行の合併によって生まれた東京三菱銀行を中核としたグループである。三菱銀行時代から「官僚的な行風」とされ効率性には乏しい反面、堅実な財務体質で知られ、「安定性」が何より重視された金融不安の時期には最優良都銀と目された。他行の金融持株会社による多角化に触発され、2001年、系列の三菱信託銀行、日本信託銀行とともに「三菱東京」を設立した。

 一方もう1つの前身、UFJホールディングスは、UFJ銀行を中核としたグループである。もとは東海銀行とあさひ銀行の合併が構想されていたのだが、ここに上位都銀では再編出遅れ組だった三和銀行が参加。当初東海・あさひが地域密着型でリテール中心の事業モデルを志向していたのに対し、三和はコーポレートファイナンスや海外業務も総合的に手がける「マネーセンターバンク」を目指す。こうした意見の相違や、埼玉銀行を前身とするあさひが、大阪地盤の三和に主導権を取られることを嫌ったこともあり、最終的にあさひは計画から離脱。三和系列の東洋信託銀行を交え、2001年「UFJ」を旗揚げした。

 しかしながら、積極的な体質の三和がバブル期に築いた不良債権は大きく(とくにダイエーに対する融資に関してはUFJ成立後1兆円超となってしまう)、更には合併相手である東海銀行陣営を冷遇した事による紛争が勃発、他のメガバンクが経営改善を進める中、紛争が響き後れを取ってしまい、積極的な資本増強策を行っていなかったためか取り残された状態となる(不良債権解消は行ってはいたが金融庁から業務改善命令を出されるなど選択肢が制限されていた上、現金資産が上昇した訳でもなかった)。更には2003年には金融庁検査における不良債権隠しが発覚し、兼ねてから旧大蔵省に対して強みを持っていた当時の副頭取であった岡崎により議事録改竄などの挑発行動に出た結果、東海陣営からの内部告発による全容発覚を含め金融庁の逆鱗に触れてしまった(UFJ銀行#金融庁との対立と特別検査も参照)。結果UFJに対する風当たりは厳しくなり、不良債権の引き当てなどで4,000億円の赤字を抱え込む事になってしまったため、傘下のUFJ信託銀行を住友信託銀行に売却すると発表。それでもなお解決は見込めず、三菱東京に救済合併される形となった。UFJの救済役には後から三井住友フィナンシャルグループも名乗りを上げたが、競り負けた。

 この結果、総資産で当時世界最大の三菱UFJ銀行が誕生した。旧東京三菱・UFJがそれぞれ首都圏・東海圏・近畿圏を地盤とした三大都市圏をカバーする一方、三和が得意としていた海外業務にも力を持ち、全体的なバランスは優れる。反面、行風も地盤もまったく異なる銀行同士の寄り合い所帯とも言え、これらがどのように融和されるかが課題である。また、傘下の三菱UFJ証券の投資銀行部門の強化も課題である。三菱UFJ銀行、三菱UFJ信託銀行、三菱UFJ証券ホールディングス、三菱HCキャピタル、三菱UFJニコスなど主要5社が中核となり、世界屈指の総合金融グループを目指している。

 三井住友フィナンシャルグループ

 2002年発足。2001年の住友グループの住友銀行と三井グループのさくら銀行の合併による三井住友銀行を中核としたグループ。

 さくら銀行は1990年、三井銀行と太陽神戸銀行(太陽銀行と神戸銀行が1973年に合併)が合併し「太陽神戸三井銀行」として誕生、1992年に改名したもの。三井銀行は三井グループの中核だったが、戦後まもない帝国銀行の再分割で他の財閥系銀行に比べて規模が小さく、三井グループの金庫番としての機能を十分果たせなかった。そこで業容拡大のため、中位行ながら多くの店舗を持っていた太陽神戸銀行と合併した。当初は合併効果が期待されたが、合併直後のバブル崩壊に加え、太陽神戸銀行時代から続く旧行出身者間の対立に三井銀行が加わったことによって非効率な経営がとられ、実力はほとんど発揮されなかった。

 1997年の金融危機では、経営危機がささやかれ、巨額の公的資金注入を受けたほか、トヨタ自動車や三井グループ各社などへ増資を要請する事態にまで陥った。製造業が一社単独で銀行支援に動くというのは異例の事態であった。こうしてさくら銀行は当面の危機を脱したが、これを機に旧三井が経営の主導権を握るようになった。

 一方、住友銀行は長らく大阪を拠点とする住友グループの中核で、先進的・効率的経営の一方、取引先企業の経営が傾き始めると容赦なく融資を引き上げるので「逃げの住友」と批判され、経済誌の顧客イメージランキングでは、常に他行の後塵を拝していた。利益第一主義の体質ゆえバブル期の積極融資によってバブル崩壊で膨大な不良債権を生み出すことになり、さらに暴力団・総会屋絡みの不正融資である"イトマン事件"、光進事件の1つ"蛇の目ミシン恐喝事件"等の不祥事が続発し、もはや住銀単独では処理が不可能であった。そこで、さくら銀行との合併を決断する。

 2002年、持株会社「SMFG」を設立。この背景は財務状況の改善がある。続いて2003年、第二地方銀行のわかしお銀行を存続会社として合併し、三井住友銀行に改称。これは有価証券の含み損を解消するためであった。

 3大メガバンクの中ではもっとも営業経費が少ないため、利益率・収益力の高い銀行である。カードローン、インターネットバンキング、各種リスク性商品販売などリテール・コンサルティング戦略に強みがある。米シティグループ傘下の日興コーディアル証券を傘下に収めるなど、アライアンスの強化で法人・個人両面で営業力の強化を目指している。かつては傘下に信託銀行を持たなかった点などグループの総合力で遅れを取っており、米国金融持株会社(FHC)の資格取得、ニューヨーク証券取引所(NYSE)への上場を含め総合力の強化が課題であったが、ニューヨーク証券取引所へは2011年11月1日付けで上場。これに伴いFHCに関しても規制厳格化後に取得出来る事から、規制上のフリーハンドマージンが期待出来る。今後の課題としては、従来サポートが弱いとされていたリテール業務への強化に関し、日興コーディアル証券を買収し発足したSMBC日興証券がサポート出来るかが課題となる。

 メガバンクの中では、唯一全国銀行協会の持株会社会員に加盟していない。

 みずほフィナンシャルグループ

 みずほ銀行を中核とするグループ。第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行を前身とする。

 第一勧業銀行は1971年、第一銀行と日本勧業銀行の合併で誕生した。第一勧銀グループの中核企業である。当時日本最大の総資産を誇った富士銀行を抜き、規模では都銀首位となったが、旧第一派と旧勧銀派の融和は進まなかった。「対等合併」を気にする余り、非効率的な人事や経営方針が取られ、その体力は規模ほどには強くなかった。1997年には野村證券とともに、総会屋への利益供与事件で本店が家宅捜索を受け、社会的イメージは決定的に悪化してしまった。

 富士銀行は安田財閥の中心であった安田銀行が、戦後の解体で改名したもの。芙蓉グループの中核企業であり、長らく都銀の名門であったが、1970年代から地盤沈下が始まる。営業を積極的に押し進める住友銀行に対抗し、「FS戦争」(「富士住友戦争」ともいう)と呼ばれる熾烈な貸出競争に走ったが、最終的にはほぼ敗北。その上、これがバブル期に重なり、多額の不良債権ばかりが残る結果となった。

 加えて同時期、親密だった山一證券が破綻、系列の安田信託銀行も経営が不安定となる。安田信託を子会社化し再建を図るが、富士独力では限界があり、第一勧銀傘下の第一勧業信託銀行と富士傘下の富士信託銀行が合併。これに安田信託銀行の業務の一部を譲渡した。ここで第一勧銀と富士に関係が生まれ、みずほフィナンシャルグループ誕生の契機となる。

 1999年、この2行に日本興業銀行が加わり、みずほフィナンシャルグループの設立が発表された。興銀は長期信用銀行の雄として名を馳せ、バブル期には日本企業の時価総額で第1位(すなわち全世界で時価総額第1位)の座にあった。しかし、その重厚長大産業を主要顧客とした長期融資の時代はもはや終わりを告げ、野村證券との提携で投資銀行への転換を図るが、同じく長信銀の日本長期信用銀行(長銀)、日本債券信用銀行(日債銀)は既に破綻。予断を許さない状況の中、政府金融当局の意向も働いたとされ、第一勧銀・富士に身を委ねる形となった。

 参加行に注入された公的資金は3兆円近くに達し、2002年のみずほ銀行発足直後にATM障害が発生、総会屋事件を引きずる顧客情報流出など、当初のイメージは芳しくなかった。りそな・UFJとともに国有化が噂され、取引企業を引受先とする1兆円の巨額増資を行い、2002年から2003年にかけ冬の時代であった。しかし結果的に増資は功を奏し、株価は底値から18倍近く上昇し、2006年には公的資金を完済、財務は三菱UFJ以上の優良体質となった。しかし、2008年以降の世界的な金融危機の中で投資銀行部門の損失が拡大、メガバンクの中で中核的自己資本比率の引き上げを求める新BIS規制への対応が最も遅れているなど、経営基盤が盤石とは言い難い。また、商業銀行部門だけでなく証券業務(新みずほ証券+みずほインベスターズ証券)でも融合が進まず効率性の点にも課題があり、2013年初頭に証券部門を統一(みずほ証券+みずほインベスターズ証券の合併)により一層の強化を図っている。

 東証1部上場企業の7割と取引を持っており、旧興銀のノウハウを活かしたコーポレートファイナンスに強みを持つ。一方、リテールの収益性が依然として低いのが課題である。また2011年には東日本大震災の募金が原因で再びシステム障害を発生させ、信頼が再度低下。信頼回復も課題となり、2013年7月にみずほコーポレート銀行と合併、中核はみずほ銀行に一本化された。

 2019年に新システム「MINORI」への移行が完了したとされるが、みずほ銀行はこれまでに、特に2021年以降、ATMの停止など、立て続けにシステムのトラブルを引き起こしている。これは合併の際に合併前の3行の全く別々のシステムのうち、いずれか1つのシステムのみを採用すべきところを、3つのシステムを無理やり統合するという不適切な方法を取ったことがそもそもの原因との指摘があり、古いコンピュータシステムの開発者の退職や死去、システム構造のブラックボックス化もあって、ITの同業者からも、システムの根本的な修正はもはや不可能との指摘がある。

*Wikipedia より

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<社名の由来> 任天堂

2025-01-27 08:43:13 | 社名の由来

 「任天堂」

 任天堂株式会社(にんてんどう、英: Nintendo Co., Ltd.)は、日本の代表的なグローバル企業の一社であり、主に玩具やコンピュータゲームの開発・製造・販売を行っている。本社所在地は京都府京都市南区。ACジャパン(旧・公共広告機構)の正会員企業であるほか、TOPIX Core30およびJPX日経インデックス400の構成銘柄の一つ。

*Wikipedia より

 人事を尽くして天命を待つ、「天に任せる」の意味説が一般的である。他の説に、花札・トランプを使う遊びが「運を天に任せる」ものよりとも言われている。

*Wikipedia より

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< 郷土料理 > 長野 干しかぼちゃのえごま和え

2025-01-27 08:25:28 | 郷土料理

 「干しかぼちゃのえごま和え」

 主な伝承地域 北信地域

 主な使用食材 かぼちゃ

 歴史・由来・関連行事
 「谷の都」とも言われる鬼無里(きなさ)地域には、野菜を干して保存する食文化が古くから根付いている。山に囲まれた鬼無里地域では、以前は雪が積もると外部との交通が遮断されていたため、長い冬を越すために食べ物を干して、保存して食べるようになったといわれている。野菜は干すと味も食感も変わり、栄養も豊富になる。「干す」ことは、おいしさを閉じ込めるだけでなく、余った野菜を無駄なく食べるための生活の知恵でもある。春には、山菜のぜんまいやワラビを干し、夏にはなす、なすはうすく切って干すと、肉のような食感になる。秋には、かぼちゃや切り干し大根など、様々な野菜類が保存用としてつくられている。「冬至はカボチャの年取り」といわれるように、カボチャは年を越すと、凍みてしまったり、腐ったりしてそのままでは保存できない。2、3個は冬の保存用として、干しかぼちゃにして食べた。かぼちゃを短冊状に切り、むしろの上に広げて、カラカラになるまで干す。食べる時は、洗ってゆで、ごま和えや煮物にしたり、おやきのあんにも使う。また、大根や野沢菜とりが終わると、軒先の下に縄をはり、大根菜や野沢菜をひとにぎりずつ、わらで束ね、軒下の日陰で風通しのよいところにかけて干す。冬中かけておき、食べる時、ここから外して食べていく。
 長野県の干し文化には、もうひとつ、厳冬の冷え込みと冬の乾燥した気候を生かしたフリーズドライの製法がある。寒天、凍り餅、凍み大根、凍み豆腐など、外気での凍結と解凍を繰り返しながら、乾燥した気候の中で水分が抜けていく。信州の厳しい冬の自然を生かした、まさに生活の知恵から生まれた食文化だ。

 食習の機会や時季
 時期問わず食べられている。季節問わず干し野菜はつくれるが、夏に野菜がたくさんとれた時などに干す。乾燥する冬場は野菜を干すのに最適な季節で、以前はよく軒下に大根が吊るされていたり、竹ざるに野菜を並べて庭先に干してあった。

 飲食方法
 かぼちゃは、短冊状に細かく切って、いい天気で2日はかかる。煎ったえごまをすり鉢ですって、ぬるま湯でゆるめながらすり合わせる。干しかぼちゃをえごまで和える。干しかぼちゃは甘辛く煮て食べたりもする。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 今も家庭でもつくられている。野菜の種類にもよるが、干し野菜はスーパーマーケットや産直などでも手に入れることができる。鬼無里地域では、地元でつくった干し野菜を産直やネット通販でも販売している。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/hoshi_kabocha_no_egomaae_nagano.html より

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<B級ご当地グルメ> 福岡 焼きラーメン

2025-01-27 08:20:18 | B級ご当地グルメ

 「焼きラーメン」

豚骨スープと特製ソースをからめ、さらにどて焼きのスープをかけた、ここでしか食べられない一品!

*http://yatai.fukuoka.jp/oyafuko/kokinchan#google_vignette より

 焼きラーメン(やきラーメン)は、麺料理の一つ。福岡県福岡市の屋台から発祥したものが著名だが、それ以外の地域で考案された焼きラーメンも存在する。

 福岡市
 1968年に福岡県の福岡市天神で創業した屋台「小金ちゃん」が発祥と言われ、人気も高い。

 茹でたラーメンの麺に豚骨スープと特製ソースを絡めて鉄板で焼いた料理である。暑い時期にスープを飲めない客のために初代店主が考案した。

 2005年に永谷園から『博多屋台風焼きラーメン』、ハウス食品より『うまかっちゃん 博多焼きラーメン』、熊本の五木食品からは棒状の『博多発祥焼きラーメン』、明星食品からはカップ麺の『焼きラーメン スパイシーとんこつ味』、サンヨー食品からは同じくカップ麺の『サッポロ一番 博多名物焼きラーメンとんこつ味』という名称でインスタント麺が商品化されている。また、福岡の株式会社まあるいテーブルより『小金ちゃん焼きラーメン』が商品化されている。

 らあめん花月嵐
 ラーメンチェーンのらあめん花月嵐では2003年5月より焼きラーメンの販売を行っている。ただし、人気メニューとは言い難く、度重なる批判もあって「裏メニュー」扱いとして存続している。

*Wikipedia より

 

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うまいッ! NHK 「実は春こそ甘さ抜群! すいか 〜熊本市〜」

2025-01-27 08:13:00 | うまいッ!NHK

 「実は春こそ甘さ抜群! すいか 〜熊本市〜」 2024年6月9日

 すいかの旬は夏!と思いきや、一大産地として知られる熊本市の植木町では、5月から6月にかけてが出荷の最盛期。甘~い「春すいか」のうまいッ!のヒミツとは?

 すいかの出荷量全国1位を誇る熊本県。中でも熊本市北区植木町は盆地の気候を生かして栽培が古くから盛んです。そんな産地で「甘さ抜群」とイチオシなのが、実は真夏ではなく春から初夏にかけて出荷されるすいか。昼夜の寒暖差が大きい春に育てることで一層甘みが乗るのだとか。そんな旬の新常識が地元では浸透。この時期すいかをずらりと並べた道の駅にお客さんが殺到します。番組後半には、すいかの「皮」が絶品食材に大変身!

 「うまいッ!」の秘密
 若い葉をのびのびと成長させ、光合成をしやすい環境を作る。

 同じ畑の中で、着果棒(ちゃっかぼう)を使ってすいかの完熟するタイミングを見極める。6色の棒を使い分けることで、見極めをより正確にしている。

 「すいかを使った料理レシピ」について
 「すいかとトマトの冷製パスタ」※すいかの甘みとトマトの酸味の相性ばっちり!果汁をソースにすることで、暑い夏にもさっぱり食べられる簡単料理です。
 <材料>1人分
 ・パスタ麺:60g
 ・すいかの果肉:50g
 ・トマト:50g
 ・にんにく:2片
 ・オリーブ油:50ml
 ・にんにく:2片
 ・レモン:1/8個
 ・塩:小さじ1 
 ・黒こしょう:少々
 ・すいかの果肉(飾り用):20g
 ・生ハム:適量
 ・ハーブ(お好みのもの):少々
 <作り方>
 1) フライパンにオリーブ油、つぶしたにんにくを入れ、弱火でじっくり火を入れて香りを出し、にんにくが色づいたら取り出す。
 2) すいかの果肉とトマトを1㎝角に切ってバットに広げ、塩を振って冷蔵庫で1時間ほど冷やす。
 3) パスタをゆで、冷水で冷やしてからザルにあげ、ペーパーで拭いて水気をしっかり切る。
 4) 3)のパスタに1)のガーリックオイル、2)のすいかとトマト、レモン汁、塩、こしょうをふりかける。
 5) 皿に盛り、飾り用のすいか、生ハム、ハーブで飾り付ける。

 「すいかの皮の牛肉煮」※皮の白い部分(中果皮)を使って牛肉と一緒に煮込みます。煮崩れしにくいのに、味がしっかりしみこみ食感もあるため、ご飯のおかずにもおつまみにもなる一品です。
 <材料>1人分
 ・すいかの皮:250g
 ・牛こま切れ肉:60g
 ・しいたけ:40g
 ・にんじん:40g
 ・だし汁:150ml
 ・酒:大さじ1
 ・砂糖:大さじ1
 ・濃い口しょうゆ(九州しょうゆ):大さじ1+1/4
 ・みりん:大さじ1+1/2
 ・サラダ油:大さじ1/2
 <作り方>
 1) すいかの皮は固い部分を取り除いて5mm幅に切る。しいたけは薄切り、にんじんはいちょう切りにする。
 2) 鍋に油を入れ、1)を入れて炒め、酒、だし汁、砂糖、牛肉を入れて煮る。
 3) 煮立ったらあくを取り、ふたをして中火で5分。濃口しょうゆ、みりんを入れて落し蓋をし、弱火で10分煮込む。
 4) 火をとめて10分ほど蒸らしてできあがり。

*https://www.nhk.jp/p/umai/ts/P7R4N8K39M/episode/te/R8N72QW5QN/ より

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<料理用語-和食> 素麺

2025-01-27 07:53:39 | 料理用語

 「素麺」

 奈良時代に中国から渡来した小麦食品。

 小麦粉を塩水で練り、棒状に延ばして油を塗り乾燥させた生地で細く製麺する。

 径の太さによって「そうめん」「冷麦」「うどん」に分けており、製造方法は「手延べそうめん」と「機械そうめん」の二種がある。

 なめらか、茹でのびしない、強靭で歯切れがよい、などが上等なそうめんだとされている。

 最高級の素麺を「ひねもの」といい、これは「厄」を経て芯が強靭に変質した素麺のことである。

 厄とは寝かせている過程でグルテンが変質し脂質が酸化してしまい、劣化とは逆に麺が強靭になる現象の事である。

 料理に使う素麺としては、「白滝そうめん」「卵そうめん」「紅花そうめん」「挽き茶そうめん」などがある。

 料理法としては、普通に素麺として茹でるほかに揚げたり、結んだりして使うことがある。また、細長く造る献立にそうめんの名をつけることも多い。

 祝事の献立に使う場合、「あや白髪」と書くことがある。

*https://temaeita.net/top/t2/kj/95_I/04.html より

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<異名-スポーツ選手> グランデ・ミラン

2025-01-27 07:51:33 | 異名

 「グランデ・ミラン フランコ・バレージ」

 フランコ・バレージ(Francheschino "Franco" Baresi, 1960年5月8日 - )は、イタリアの元サッカー選手。選手時代のポジションはディフェンダー。キャリアの初期はMF。

 1980年代から1990年代にかけて活躍し、現役生活を通じてACミランでプレー、ディフェンダーとしては決して体格に恵まれていたわけではなかったが、リベロとしてのプレーぶりは的確な読みで相手の攻撃の芽を摘み、相手陣内深くドリブルで切り込むこともあった。特に戦術眼と読みの鋭さは一級品であった。長年、彼が背負った背番号6番は、引退後にクラブの永久欠番となっている。

 実兄のジュゼッペ・バレージ(Giuseppe Baresi)も元インテル所属、元イタリア代表のサッカー選手。家族は妻と長男の他に、養子が一人いる。

 愛称 ピッシニーン

*Wikipedia より

 フランコ・バレージは、強固な守備とクレバーな統率力で1980~90年代に活躍したイタリア代表のセンターバック。「グランデ・ミラン」と呼ばれたACミランの黄金期をキャプテンとして支えた。20年以上にわたって背負った背番号6は、パオロ・マルディーニの3番と並んで、ACミランでは永久欠番扱いとなっている。イタリア代表としては3度のワールドカップに出場。ここでもキャプテンを務め、94年のアメリカワールドカップでは準優勝に輝いた。
 イタリア人としては珍しく、日本製のアシックスのスパイクを履いていたことも知られている。現在はACミランのアンバサダーとして、チームの外交活動に貢献。世界を飛び回っている。

*https://spaia.jp/column/soccer/ws/1564 より

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<慣用句・諺> 歯に衣着せぬ など

2025-01-27 07:39:35 | 慣用句・諺

 「歯に衣着せぬ」

 思ったとおりをずけずけと言う。

 

 「羽が生えたよう」

 品物がどんどん売れるようすのたとえ。また、物や金などがどんどん減るようすのたとえ。

 

 「羽を交わす」

 「羽を並ぶ1」に同じ。-《中国の、比翼の鳥の伝説から》男女・夫婦がこまやかな愛情で結ばれる。羽を交わす。

 

 「羽を交わせる鳥」

 「比翼 (ひよく) の鳥1」に同じ。- 雌雄それぞれが目と翼を一つずつもち、2羽が常に一体となって飛ぶという、中国の空想上の鳥。夫婦の仲のよいことにたとえられる。

 

 「羽を垂れる」

 平伏して頭を下げる。降伏したさまにいう。

 

*goo辞書 より

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<日本酒メーカー> 新潟 塩川酒造

2025-01-27 07:35:42 | 日本酒

 「塩川酒造」

 塩川酒造の代表的な酒といえば、やはり『願人(ねがいびと)』だろう。土地の歴史に深く関わり、蔵のアイデンティティーを表しているからだ。

 先人の不屈の精神をリスペクト

 蔵がある新潟市の内野町は海辺に近く、新潟大学がある街でもある。この町を訪れてまず驚くのは、川が立体交差する光景だ。

 人工の川・新川の上を一級河川の西川が横切る。この光景こそが内野の歴史を語り、清酒『願人』の原点である。

 「当社の主力銘柄は『越の関』ですが、この『願人』は山廃専用銘柄として2009年に完成しました」 と代表取締役の塩川和広さんは語る。

 塩川さんは2016年、4代目に就いたが、長らく杜氏の任にあり数々の新分野に意欲的に挑戦。『願人』もそのひとつで、新潟では数少ない山廃造りへのチャレンジだった。

 酒銘の由来は内野に豊かさをもたらした人たち

 江戸時代、新潟市周辺は幾多の水害に悩まされてきた。洪水に苦しむ農民のために19世紀初頭、私財を投じて治水に取り組む人たちが登場。砂丘地帯に新川を開削して排水路を構築し、西川の下を通して海へと流す大工事だった。

 今日の穀倉・新潟平野はこうした先人の身を削る戦いで誕生したと伝わる。土地ではこの人たちを願人(がんじん)さんと呼んで敬った。

 「私たちが酒造りできるのも、新潟平野で採れる良質な酒米のお陰。願人さんへの感謝を忘れず、この土地の誇りを語り伝えたいと考えたのです」

 願人さんの「願い」に重ね、蔵にとって未知なる山廃で新たな道を切り開こうとする、杜氏の信念が垣間見える。

 米国人の舌をとらえた山廃仕込み

 秋も深まると、いよいよ造りが始まる緊張感の中、着々と準備を進める
 『願人』はすっきりした旨みとしっかりした酸味、やや高めのアルコール度が持ち味。ある日、蔵を訪れた米国人が、このお酒を試飲してステーキに合う酒質と絶賛した。

 「彼はサンフランシスコで米国初となった地酒専門店を経営していて、この酒の米国版を輸出しないかと提案してくれたんです」と、塩川さん。

 こうして『願人』をベースに、辛口に仕上げて誕生したのが『COWBOY YAMAHAI』。アーリーアメリカンを連想させる「カウボーイ」と、日本酒の古典的な醸造法を表す「山廃」が併記された、なんとも斬新な酒銘だ。

 名付け親はかの米国人。日本酒の米国市場「開拓」スピリットをこの名に込めたそうだ。ほどなくロスで開かれた国際的品評会、インターナショナル・ワイン・コンペティションでは、この酒がゴールドメダルを獲得した。

 「日本国内でも広く肉料理にマッチすると評価され、ステーキハウスや焼肉専門店など日本酒の取り扱いが少なかった業界でも、需要を広げています」

 蔵の山廃への挑戦は確かな手応えをもたらしたようだ。

 狙うはヨーロッパのワイン市場

 『COWBOY YAMAHAI』と対を成すように開発されたのが『FISHERMAN SOKUJO』。真っ赤なボトルに描かれているのはワタリガニの一種、イチョウガニ。

 魚料理全般に合うように造られているが、とりわけエビやカニなどのシーフードとベストマッチする。白ワインのようにフルーティーな香り、軽やかな甘みを備え、山廃に比べると速醸ならではの爽やかさが感じられる。

 「米と麹と醸造の技法を駆使することで、どんな風味も創り出せる日本酒の可能性を証明したかったんです」と、塩川さんは意気込む。

 このお酒はヨーロッパのワイン市場を意識して開発された。カウボーイのリリースで海外からの問い合わせが増えたことも、引き金になったようだ。

 「カウボーイもフィッシャーマンも、現地の食生活に溶け込む日本酒の新しい可能性を探るもの。そのために海外でも受け入れられやすいラベルを工夫しました」

 ラベルには日本酒を意識せず手に取ってもらい、食との相性をダイレクトに伝えられるデザインを採用したという。

 これらの意欲的な試みは、農林水産省の「日本酒輸出の優良事例」に取り上げられた。 アメリカ、イギリスほか香港、インドネシア、カナダなどへ出荷量の17%を輸出している。

 日本酒本来が持つ特徴を最大限に引き出す

 「私、生まれ育ったのが千葉なんです。ところが、急遽父が酒蔵を継ぐことになって、呼び戻された。小学校を卒業した時でした。

 新潟は大好きでしたから、嬉しかったですねぇ。学校では『なまってる』とか言ってからかわれましたけど(笑)。その時から、自分もここを継ぐんだな、と思っていました」

 そう語る塩川さんに、「会社の運営で大切にしていることは?」と尋ねると、「挑戦する心」との答え。これまでの話でもその姿勢は十分に伝わってきたが、塩川さんのチャレンジは他にもあった。

 古代米を使った酒に挑戦

 それぞれが強い個性を主張しているお酒ばかり
 古代米を使った赤い酒『SHISUI』の開発である。

 「日本酒でワインのような香りや味わいを出せても、ワインに勝てないもの。それは健康にいいとされるポリフェノールでした」

 そんな折に出合ったのが新潟県産の古代米。表皮部分に多く含まれるポリフェノールに着目し、その成分を生かすため磨かずに使用。日本酒本来の深い味わいをもちながら、ワインに負けない健康志向の酒が完成した。

 蔵で使う米は新潟県産米が主軸、仕込み水は信濃川の伏流水。砂丘地帯で砂濾過された地下水が地域特性のある酒質に役立っている。

 塩川さんの力強い言葉を聞いていると、日本酒の可能性を信じ、塩川酒造の挑戦はこれからも続くのだろうと思えた。

*https://www.niigata-sake.or.jp/interview/k41.html より

 代表銘柄

越の関 純米吟醸
大正時代より続くメインブランド

香りと旨みが豊かな純米吟醸酒。米の旨みを存分に醸し出しています。

数値的には辛口でも旨みを多く感じる酒質、淡麗旨口を目指した造りをしている為、味わい深いながらも切れのある仕上がりとなっています。

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<日本の名水百選> 新潟 大出口泉水

2025-01-27 07:30:15 | 名水百選

 「大出口泉水」

 湧水及び周辺環境の状況
 大出口泉水は、緑豊かな尾神岳の中腹から平均水温8度前後、硬度23(軟水)、1日約4,000トンの豊富な水が一年を通して涸れることなく湧き出している。
 周囲は、大出口泉水公園として整備され、この湧水は憩いの場として多くの方が訪れている。
 湧水の周辺は木立に囲まれているため夏でも涼しく、正面には頸城平野、日本海の大パノラマが一望できる環境となっている。
 尾神岳にはパラグライダーのフライトエリアがあり、天気の良い日にはパラグライダーを楽しむ人の姿が見られる。
 冬期間はアクセス道路が未除雪のため閉鎖している。

 湧水の特長など
 この湧水は、712年ごろ妖怪退治にこの地を訪れた木喰臥行者がとある村で「一杯の水でも」と乞いましたが邪険に断られたため、祈祷によりその村の出水をこの地へ移したという由来が残されている。
 地元集落では、湧水脇に祀られている不動明王とともに湧水を保全し、近隣農地の農業用水として活用している。

*https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/kankyotaisaku/1215712860882.html より

 水質・水量
 1日の湧水量:4,000トン
 由来・歴史
 この湧水は、712年ごろ妖怪退治に訪れた沙彌という木喰臥行者が尾神村で「一杯の水でも」と村人に乞ったところ邪険に断られたため、祈祷によりその村の出水を現在湧水のあるこの地へ移したという由来がある。

 水質保全活動
 東横山集落では古くから農業用水としての管理、湧水周辺および水路の草刈・ごみ拾いを行っている。また、適宜降雨にともない尾神岳から流出した土砂を除去するなど、周辺環境の維持に努めている。
 また、湧水正面の農地にコスモス・ひまわりを植え、周辺の景観形成に努めている。

 周辺の自然環境-大出口泉水は、緑豊かな尾神岳の中腹に湧き出る水量豊富な湧水。木立に囲まれ夏でも涼しく、日本海の大パノラマが一望できるなど市民の憩いの場として、湧水脇に祀られている不動明王と共に守られている。
 利用状況-湧水は、公園を訪れた人々ののどを潤している。地元集落では、近隣農地の農業用水(受益面積23ha)のほか昭和41年から水道水(利用戸数20戸)・昭和45年からニジマス養殖の水利(養殖規模 4戸3000尾)と幅広く活用している。

*https://water-pub.env.go.jp/water-pub/mizu-site/newmeisui/data/index.asp?info=27 より

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