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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-オジー・オズボーン

2021-03-31 08:41:29 | MUSIC

 「オジー・オズボーン」

 1948年12月3日生まれの72歳

 オジー・オズボーン、ステージに復帰したい現在の心境について語る 2020.3.9 月曜日

 オジー・オズボーンは昨今の体調不良やSXSWへの参加中止のなか、「必ず」またもやライヴを行うつもりだと語っている。

 オジー・オズボーンは新型コロナウイルスの影響を懸念してテキサス州オースティンで開催される予定だったSXSWへの参加を取りやめている。

 先日、英テレビ番組「グッド・モーニング・ブリテン」に出演したオジー・オズボーンは早くステージに復帰したいと語っている。オジー・オズボーンは先日、パーキンソン病の治療や昨年から患っている怪我の治療を受けるため、予定されていた北米ツアーを中止することを発表していた。

 「俺の願いはステージに再び立つことだよ」と彼は語っている。「まだ、マイクを下ろすには時期尚早なわけでね。それが俺の生きがいだからね。できる限り運動しているんだ。トレーナーをつけてね、ピラティスをやってるんだ。でも、最高の薬は観客の前に立つことだね。心が揺り動かされるからね」

 

 彼は次のように続けている。「俺はあそこに戻るよ。そう言っておかないとね。だって、今となっては『もう2度とできないとしたら、どうする?』なんて言われるだろうからさ。そんな選択肢はないんだ。俺が人生でやってきた唯一のことだからね。あれこそが俺がずっとやりたかったことだし、俺が自信を感じられる唯一のことなんだ」

 ステージに復帰するかと直接尋ねられると、オジー・オズボーンは次のように答えている。「そのつもりだよ。間違いなくね。これは言っておかなくちゃね」 

 今年のSXSWでオジー・オズボーンはセルフ・プロテュースのドキュメンタリー映画『バイオグラフィー:ザ・ナイン・ライヴス・オブ・オジー・オズボーン(原題)』のプロモーションを行う予定となっていた。

 オジー・オズボーンは自身の意志で参加を取りやめており、声明の中で代理人は次のように述べている。「新型コロナウィルスの脅威による大企業やアーティスト、レコード会社、映画スタジオの不参加を受けて、オジー・オズボーンもSXSWへの参加を取りやめることを決めました」

 オジー・オズボーンは2019年に自身の体調不良により大規模なワールド・ツアーをキャンセルせざるをえなくなったことについて「最も長く、最も痛ましく、惨めな」年であったと語っている。

 *https://nme-jp.com/news/86606/ より

 Ozzy Osbourne (オジー・オズボーン) プロフィール
 オジー・オズボーン(本名ジョン・マイケル・オズボーン)は1948年12月3日、バーミンガムの郊外にあるユダヤ人街、アストンで6人兄弟の4番目、長男としてこの世に生を受けた。両親も合わせると8人の大家族で裕福な暮らしではなかったようだ。10代は荒んだ生活を送っていたらしく、やれるだけの悪い事は一通り経験済。1960年代中頃、17歳の頃には早くも刑務所暮らしを経験している。出所後ほどなくしてオジーはアースというバンドを結成。アースのバンド編成はオジー・オズボーン(Vo:後の当時はまだ本名のジョンを名乗っていた)、トニー・アイオミ(g)、テレンス・バトラー(b:後のギーザー)、ウィリアム・ワード(Dr:後のビル・ワード)。主にブルース・ロックを演奏するバンドであったが当時のホラー映画にヒントを得て、人々を恐怖に陥れる音楽を演奏しようとバンドの方向性をシフト・チェンジ。バンド名もそれに合わせ「ブラック・サバス」とし、ここから伝説は始まった。

 1970年2月13日の金曜日というバンドのコンセプトにもバッチリのタイミングで、たったの48時間でレコーディングを終えたというアルバム『ブラック・サバス』でデビューを果たす。同年9月には2nd『パラノイド』をリリース。表題曲や“War Pigs”“ Iron Man“といった大クラシック・ナンバーを含む本作でサバスの人気は本格化していく。この世のものとは思えないヘヴィなサウンド、サイケデリック・ロックとも異なる異様な陶酔感。当時の若者はサバスの音楽に夢中になっていった。しかしレコーディングとツアーの繰り返しでバンド内の状況は悪化の一途をたどるばかり。メンバー各人ともアルコールないしドラッグにハマり、いつしかバンドはボロボロに…。以後コンスタントにアルバムをリリースしていったサバスだが、7作目の『テクニカル・エクスタシー』を最後にオジーがバンドを脱退(というかお払い箱にされた)。サバスは新しいヴォーカリストを迎えるが結局うまくいかず、オジーを呼び戻し『ネヴァー・セイ・ダイ!』をリリースするがオジーは再びサバスを脱退してしまう。

 79年ブラック・サバスを飛び出したオジーは行き場を無くしたかのようにドラッグとアルコールに溺れていく。しかしどん底にあったオジーを救った者がいた。そう、現在オジーの妻であり当時のマネジャー、シャロン・アーデンである。彼女の励ましもあって自らのバンドを結成する事を決心したオジーはバンドのオーディションを開き、運命的な出会いを果たす。そこに現れたのが元クワイエット・ライオットのギタリスト、ランディ・ローズであった。かくして結成されたオジー・オズボーン・バンドは80年8月にシングル“クレイジー・トレイン”でデビュー。11月には1stアルバム、『血塗られた英雄伝説』をリリース。サバス時代よりも若干ショウビズと向き合った事が効を制してか、全英では第7位にランク・インするなど、サバス時代以上の成功を収める。82年には『ダイアリー・オブ・ア・マッドマン』を発表。“アイ・ドント・ノウ”“Mr. クロウリー”“オーヴァー・ザ・マウンテン”など後世にも語り継がれる名曲が生まれた。全てが巧く運んでいると思われた82年3月19日、突然悲劇はオジーを襲った。オジー最高のパートナーであるランディが全米ツアーの移動中に飛行機事故に遭遇。永遠に帰らぬ人になったのであった。後にオジーは語っているがランディは既にこの時ロックに興味を持てなくなっていたという。クラシック・ギターの道を極める為バンドの脱退も申し出ていたそうだ。未来を見据えていた矢先のこの思わぬ悲劇にオジーは深い悲しみに陥り、再び破壊的な行動に走る事に。オジーの行く先々で奇行、事件が繰り返され、オジーのマッドマンを地で行くパブリック・イメージはこの頃決定してしまったといってもいいだろう。

 83年にランディの後任として元ラフ・カッツのギタリスト、ジェイク・E・リーを迎えアルバム『バーク・オブ・ザ・ムーン』をリリース。86年には『アルティメイト・シン』をリリース。当時ブームであったLAメタルの要素も盛り込み、初のプラチナ・アルバムを獲得する。しかし翌年ジェイクが脱退。再びパートナー捜しを余儀なくされる。87年にはランディの五周忌ということもあり、ランディ在席時のライヴを収録した追悼アルバム『トリビュート』をリリース。それと同時に当時まだ19歳という若さであった無名のギタリスト、ザック・ワイルドの加入を発表。88年には『ノー・レスト・フォー・ザ・ウィッキド』をリリース。新たな才能ザック・ワイルドの起用が大正解で評判を集めた。

 90年には6曲入りのミニ・ライヴ・アルバム『ジャスト・セイ・オジー』をリリース。傍目には活動も順調に見えたが、オジーはまたもアルコールに溺れ、婦人であるシャロン・オズボーンとう痴話喧嘩が起因となる殺人未遂にまで及ぶ事件を起こし、オジーは逮捕されてしまう。不起訴となりすぐに釈放になるが、オジーは何度目かの薬物中毒更生施設へ入所。しばらくそこでクリーンな生活を過ごしたオジーは新たなアルバム制作を開始。91年に『ノー・モア・ティアーズ』をリリースした。しかしこのアルバム制作途中にオジーは突然の引退宣言を発表。ラスト・ツアーを日本から開始した。そして92年11月15日カリフォルニア州コスタメサにおいてオジーは自らの手でオジー・ オズボーン伝説に幕を降ろした。

 93年にはさよならツアーの模様を収めたライヴ盤『ライヴ&ラウド』をリリ-ス。翌94年にはブラック・サバスのトリビュート・アルバムに参加するなど、引退宣言をしながらも、未練を断ち切れないかのような活動も見られた。やはりというべきか、周囲の要望や自身のステージへの未練もあり、95年遂に引退を撤回。再び表舞台に立つことを決意したオジーは『オズモシス』をリリース。再びザック・ワイルドとの共演が実現した。96年には爆音ヘヴィ・ロック・フェスティバル「オズ・フェスト」を開催。その後定例のイヴェントになり毎年コンピレーション・アルバムが発売され、盛況を見せている。97年にはオリジナル・ラインナップでのブラック・サバスが再結成。オズ・フェストで貫禄のステージを披露した。2002年には『ダウン・トゥ・アース』をリリース。ザック・ワイルドも一部演奏で参加するなどした作品で健在振りを強くアピールした。

 最近のオジーの活動でハズせないのはなんと言っても『オズボーンズ・ファミリー』であろう。MTV内のプログラムとして開始されたこの番組がMTV史上最高の視聴率を稼ぎ出す人気番組に。番組の内容としてはオズボーン一家の私生活を赤裸々に追ったもので、ハチャメチャな彼らの生活を撮って出しの爆笑映像の連続!あまりの人気ぶりにサウンドトラック『オズボーンズ・ファミリー・アルバム』がリリースさるとおいう一幕も。しかもこの番組がきっかけでオジーの愛娘であるケリー・オズボーンが歌手デビュー!アルバム『Shut Up』をリリースした。

 ・・・と、駆け足になってしまったが、ここまでがオジー・オズボーンの50数年の長きに渡って繰り広げられた破天荒な人生である。オジーがソロ活動を始めた当初、生きている鳩やコウモリの首を引きちぎったり、アラモの砦に立ち小便をカマし大顰蹙をかってしまったりと奇行の数々が伝説として現在まで語り継がれているし、アルバム・カヴァーやヴィデオ・クリップで見せるその悪魔的なイメージからか悪魔崇拝者のレッテルを貼られる事も少なくない。確かに通常の人間からすれば逸脱した行動が目立つのは事実だが、良識派の人間にジョークやユーモアは通用しなかった…。彼が行ってきた奇行の数々はある種サービスであり、パフォーマンスだ(アルコールやドラッグでブっ飛んでいたこともなくはないと思うが…)。これは極論だがオジーとWWEは同じようなものだと私は思っている。どちらも超がつく一流のエンターテイメントだから。

 オジーがその後のヘヴィ・メタルやその他後続らに与えた影響は計り知れないものがある。特に音楽的な事で言えばブラック・サバス時代に尽きるだろう。オジー在席時のブラック・サバスはまさに悪夢そのもの。ダークでヘヴィで覚醒効果も抜群、そう君たちが普段聴いているニルヴァーナやパンテラ、クイーン・オブ・ザ・ストーン・エイジらの元ネタはすべてここにあると言い切っても大袈裟ではないだろう。おおよそ皆が持っているヘヴィ・メタルのイメージからは逸脱しきったこの唯一無比のサウンドを「メタルだから」という理由で敬遠しているとしたら、それはもう本当に勿体無い話だ。もしブラック・サバスに興味をもたれたならば、2ndの『パラノイド』あたりから聴いてみることをオススメしたい。またオジーの先見の明についても触れておかねばならないだろう。ランディ・ローズにザック・ワイルド。それまで無名であった彼らのポテンシャルの高さを瞬時にして嗅ぎ当てる才能はまさに天性のものだ。オズ・フェストにおける若手のフック・アップについても同じ事が言える。

 最後にオジーの歴史を紐解いた映像作品『ヒストリー・オブ・オズ』でのオジーについて寄せられたインタビューのなかからデフ・レパードのジョー・エリオットの言葉を借りて本稿を締め括りたいと思う。

 「オジーの声はNo.1じゃないけど最強だ」

*https://www.hmv.co.jp/artist_Ozzy-Osbourne_000000000004463/biography/ より


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