風は東楡の木通りから

クリスチャンフルート吹きパスピエの愛する音楽、猫たち、薔薇の毎日

誕生日

2006-04-23 23:10:32 | Weblog
朝、教会に行くと週報をいれるボックス(信徒は各ボックスがある)の中にバースディカードが入っていた。
そうです、今日は私の誕生日。ああ、また、1つ年を・・・

カードを見ると牧師先生ご夫妻からであった。花柄のとてもきれいなカードはきっと奥様のお見立てだろう。うれしかった。

また教会には同じ誕生日のS兄弟(クリスチャンの男の信徒)がいる。S兄弟には「お互いがんばって生きていきましょう!」と力強いエールを送られた。

教会から帰ってきたら今度は留守電に母からのメッセージがあった。

「お誕生日おめでとう。ちょうどパスピエちゃんが生まれたころだなあなんて思い出してたんだよ。言葉だけだけど。じゃあね」

昨日のこともあったのでちょっとうるうるしてしまった。

それにしても、お母さん・・・まだ「ちゃん」づけなんですね・・・。
ちょっと恥ずかしかったり・・・。

今日のだんなはまた、いつぞやの掃除奉行に早代わり。「今日はママの誕生日だからお前たちが掃除、片づけをしろ」とてきぱきと指示。そしてだんなは夕食の買出しへ。今日の夕食は私が作らなくてすんだ。
おほほほ~、今日の私は女王様ですわよ。楽させてもらっちゃった~。

神様、母を家族を友人を兄弟姉妹ありがとう!をという一日だった。

父の七回忌

2006-04-23 01:17:57 | Weblog
22日はは父の七回忌の法要があった。私たち家族にとってこのような法要はクリスチャンとしてどのようであるべきかと問われる場となる。

なぜなら、拝む、線香をあげる、焼香をする=礼拝することなので私たちの礼拝の対象がイエス・キリストとはっきりしている以上このような行為はできないからである。(と私たちは思っている。)こういった行為がしきたりを重んじないとお叱りを受けることになる。だからといって故人をさげすんでいるわけではけしてないのだ。焼香する皆さんと同じように故人を大切に思っているわけだがここら辺の理解をどう求めたらよいかといつも考えてしまう。

しかし、同じクリスチャンでも一緒にお経を唱えたり、焼香をするが心で主に祈るという人もいると聞いたことがある。でも私達の礼拝の対象がイエス・キリストであり、信仰生活を続けていく中で主がどのような事を私達にしてくださったか、どんなに私達が変えられていったかを考える以上は、私にはとてもできないと思ってしまうのだ。

だから今日も焼香は遠慮し、父のことをあれこれ思いをはせながら、主に向かって祈っていた。もちろんだんなも子供達もそのようにしていた。

そして、お経が終わり法話になった。
「南無阿弥陀仏」は呪文のようなものではなく「阿弥陀如来を礼拝します」という意味であり、故人は極楽浄土にいるので故人のためでなく自分のために、仏となって現世に生きる私達を導いてくださるおじいちゃんありがとうという気持ちをこめて唱える、そんな話をしていたと思う。

そのうち焼香の話になった。なんかこのあたりからこれは私達に向けていってる?と感じられる住職の話し方。焼香は自分が汚れているから仏様の前に立つ礼儀作法としてやっているということを話し、「さっき、お兄ちゃん焼香しなかったでしょ。ちゃんと見てたんだからね。」と長男にふってきた。(ここのお寺さんでは阿弥陀如来の前に座らないで横で座ってお経を唱えていた。だから当然焼香している人の姿は見えるのだ。)

住職としてみれば自分を導いてくれる仏さんに対して焼香もしないのをけしからんと思ったかもしれない、長男はぶっきらぼうに見えてしまうところもあり、はたから見たら反抗期の高校生で「焼香なんかやってられるか」というようなふてぶてしい態度ととられたのかもしれない。

あ~!ご住職!完全に誤解してる!?
そこで私が、「あの~、私達は神に仕えているので焼香はできないんです・・。」
気が動転していた。なおも焼香は礼儀云々と続けるご住職の話をさえぎるのは気が引けたが、「焼香をするということは私達の考えでは礼拝することと同じなんです。ですから・・・申し訳ありません。」

声はふるえるし、しどろもどろ、心臓はどきどきになりながらこれだけをやっと言えた。本当はイエス・キリストを礼拝しているとはっきり言いたかったし、故人のことはとても大切に思っていると付け加えたかったがそれ以上言ったら泣きそうだったのでできなかった。私の頭の中は聖書の御言葉の「私と私の家族は神に仕える」がぐるぐるまわっていた。

そこでご住職は「ああ、そうか、でも、そうだな・・」と納得し、「ごめんね、お兄ちゃん」と。でもご住職は何かまだいいたそうだった。すごく気まずい雰囲気だった。ご住職の言いたいこともわかる。でも私が言ったことでキリスト教を誤解したら嫌だなぁ。

終わってなんだかどっと疲れた。胃も縮む思い。何よりもショックだったのはご住職と私のやり取りの最中、隣にいた母の涙を見てしまったことだ。あとで「お母さん嫌な思いさせてごめんね。」というと、「そんなことないよ。お前は偉いね。はっきり自分の意見を言えたんだから。」その後は長男のことを気の毒がっていた。叔母は気の毒に思ったのか何も言わない。何だかこっちが泣きたくなってきた。

その後の会食は心ここにあらず。やけに明るく母と叔母が談笑するのを何気に笑いながら聞いていたが内心早く帰りたかった。
あ~へこんだな。今日は。。。