風は東楡の木通りから

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洗礼(バプテスマ)を受けるまで

2006-04-30 20:37:03 | キリスト教(証)
もう受洗(洗礼を受けること)して5年になる。

もう一日たってしまったが29日は私とだんなの洗礼記念日だった。そのときの牧師先生には「ご夫婦そろって救われるのは珍しいケースですね。」といわれた。5年前のその日、私たちはアメリカの現地教会の会堂を借りて浸礼という全身を水に浸す洗礼を受けた。本当にそこにいたるまで導きがあったとしか言いようがない。

これは洗礼の証(神様が自分に何をしてくださったのか、どんな風に変えられたのか)である。

当時はだんなのニューヨーク赴任に伴い、家族はなれないアメリカでの生活だった。この赴任をさかいに何か大きな力が働いているように感じた。そう思うのはこのころの私には長男の発達障碍をめぐって数々の出会いがあったからだ。

当時は現在のように発達障碍が話題になるような事はなく、発達障碍から来るいろいろな行動も本人のわがまま、しつけのなっていない子、親が神経質になりすぎて、または愛情をかけないから問題をおこすとして見られるのが常だった。ということでアメリカの現地小学校でも、日本語補習校でも指示に従えない、集団行動ができない、生徒とのトラブルという問題行動がみられたのだった。

なぜトラブルばかり起こるのか悩んでいた渡米直前、アメリカ人英語講師との出会いがあった。この人には発達障碍がある兄弟がいたので長男の行動を見てすぐにわかったようだ。彼は私に長男には発達障害があるかもしれないこと、そして、アメリカにはそれに応じた教育システムがあるので心配しないようにといってくれた。「星の降る日に生まれた子」の最後に書いた言葉「彼はstrangeではなくspecialなんだよ。」といってくれたその人である。

こうして渡米し、長男の障碍が立証されると今度はこれからどうなっていくのか不安でしかたがない。そんな時に次男のナーサリースクールの校長先生との出会いがあった。彼女には発達障碍の孫がいて、私の事情を知るとこれから投薬治療を行う可能性があること、発達障碍の本を貸してくれたり、親にも精神的な助けとなるようカウンセリングの必要があるなどいろいろと親身になってくれた。

がしかし、英語だけのやり取りは非常に疲れる。自分の気持ちをうまく言い表せないジレンマ、周りの日本人コミュニティに長男のような子供を持った方がいないので、家にこもる毎日。そんな中、日本語補修校をつづけることは難しいと担任に指摘される、補習校の山のような宿題にかかりきりになると次男をかまってやれない。だんなに頼りたいが帰りが遅い。帰ってきたところでつかれきっている。おとなしい次男は文句も言えず、彼もまた英語づけの異文化と戦っていたのだろう。かわいそうに、当時4歳の次男である。いつしかチック症状が出始めていた。家族の時間をもっと大切にしなければと、結局長男の日本語補習校はやめることになってしまった。

その補習校の最後の日、私は補習校の安全当番で学校にいた。ほかのお母さんたちと一緒に話をする中、長男の障碍の話をすると「あら、うちの息子も同じよ。」という方がいた。明るく気さくな彼女はどこかひきつけられるところがあった。その方は牧師先生の奥様だったのだ。事情を知った彼女は家まで来てくれて長男のために祈ってくださった。そのころの私は何かこの祈るということに対して違和感があり、「祈ってもらっても・・・。」なんて思っちゃったりしたものだ。
彼女は教会案内を置いて帰っていった。「教会なんて絶対行くもんか。」でもなぜか、この教会案内は捨てられなかったのだった。

息子に障碍があることはわかった。でもどうしたらいい?と考えていたときタウンの英語教室でブラジル人の女性と知り合った。彼女には両足に障碍がある息子さんがいて、ある日、英語の発表の時間その息子さんについてこういったのだ。「I'm proud of my son. I'll give him all my life.」その言葉に私は非常にショックを覚えた。自分の障碍とは別のものだけれども彼女は問題に真っ直ぐにむきあっている。一人の母親としての生き方を見せられたような気がした。

このころになるとこういう出会いが偶然とは思えなくなってきていた。これらの人たちは私が探し当てて会ったのではなく、自分が苦しみの中にいて助けてほしいと願うとき、助けてくれる人が、何かを知らせてくれる人がまるで必要に応じて現れる、そんな感じがしたのだ。それもその人たちには偶然にも発達障碍や何らかの障碍がある家族がいるのである。出会いが与えられているように感じ、何かを教えられているように感じたのだった。

長いので次回に続く。